第17話

麻由子は昔から私を慕っていたし、私に逆らった事は一度としてなかった。私がどんなに皮肉を言ったり馬鹿にしても言い返す事もなかった。なのにこの私を追い出すなんて…


帰る道すがら、宏子は麻由子という飼い犬に手を噛まれた事実が信じられず、ずっと麻由子の自分への所業を思い返していた。


最寄り駅から自宅までは遠い、だがここからタクシーを呼ぶ分の余計な金は昭一から与えられておらず、迎えに来て欲しいと電話で頼んでも昭一は来てくれるような人じゃなく歩くしかない。季節はもう熱中症の心配も出てくる頃で、照るアスファルトの上をキャリーバッグを引いて歩いていると額から汗が滲む。


あの女、自分が不倫して舞い上がってるから、不倫は最低という正論を訴えた私が気に入らずこんな真似したんだ。許せない。


長く滞在するはずだったのを追い出されたのも、昭一の浮気癖も、どんなステータスを手に入れても満たされる事が無いのも、いつしか全て麻由子が悪い、麻由子のせいだと宏子の中で変換され、暑さの中歩く事で余計に麻由子への恨みが膨れ上がって行った。本当の所は一番悪いのは旦那の昭一だという事も分かってはいるが、宏子は昭一を憎みきれない。そして嫌われる事が怖くて彼を非難する事も全く出来なかった。代わりに不満をぶつけやすく恨みやすい麻由子に宏子の怒りの矛先は向けられる。昭一がした事に対する怒りも全て。麻由子を恨みながら息切れしつつやっとの思いで自宅が見える道まで来ると、家の前に昭一がランニング一枚で出ていて、咥え煙草で携帯をいじっていた。


「昭ちゃあん!」


宏子が声を掛けると、昭一は肩をびくつかせ宏子を見た。そして一目散に家の中に入ると、ややあってまた玄関から出てきた。


「お前、まゆちゃんの家じゃなかったのか」


走って宏子の元にやって来た昭一に、宏子は泣きついた。


「追い出されたのぉ!私が麻由子のしてる事を良くないって注意したから」


「なんだそれ、とにかく途中で帰るなら俺に電話一本入れろよ。で、お前はもうまゆちゃんの家に戻らないのか?」


「追い出されたんだから、戻るわけないでしょ!」


宏子の言葉に昭一は一瞬顔を曇らせた。自宅に着くと、昭一はすぐ二階に駆け上がると数分して戻って来た。その間、宏子は勘が働きリビングをざっと見回した。そして流し台の中に入れてあった灰皿を発見し覗き込む。昭一がいつも吸っている銘柄以外に、見慣れぬ細い煙草の吸い殻が二本程混ざっている。そのどちらにも薄く口紅の痕が付いていた。


「あんた、ここに女呼んで過ごしてたの?」


「馬鹿言うな、その吸い殻はあれだ、ダイキの彼女が遊びに来た時吸ってたやつだ」


「あの子に今電話して、あたしが居ない間ここに彼女呼んだか聞くわよ?」


「お前が彼女を嫌ってる事知ってるんだから、素直に言うわけないだろ。ちょっと今、仕事の事で着信が来たから折り返して来る」


昭一は携帯を持ってわざわざ裏庭に行った。宏子は一階のトイレに入ると静かに窓を開ける。そこから漏れ聞こえた昭一の話す内容は


「俺だ、お前昼飯買いにどこまで行ってるんだ?ならそのままこっちに戻らず帰れ。急に女房が帰ってきたんだよ、悪いな。私物は全部持って出掛けてるよな?ならいい」


というものだった。昭一は女の家に行くだけでなく、宏子が自分の城として大切にしているこの家にまで女を呼んでいたのだ。昭一の囲っている女が自分が気に入って買ったソファーに座り、自分と昭一が寝ている寝室のベッドでセックスをし、ダイキの誕生日やクリスマスを祝ったダイニングテーブルで昭一と飲み食いしていた。急いで二階へ上がったのも、乱れたシーツを直したりゴミ箱に捨てた避妊具を隠す為。その事実が宏子を絶望に落とした。宏子は視界がぐらつく感覚を覚えると、そのままトイレの壁に背を付けて力なくしゃがみこんだ。


「それで、今ひろはどうしてるんですか?」


「とりあえず病院に連れて行って診察したよ、熱中症だろうって事で点滴受けてる」


昭一から宏子が病院にいると電話が来た時は自殺未遂でも起こしたかと驚いたが、大事は無さそうでほっとした。


「倒れる前、おかしな事を言ってたぞ。あんたに追い出されたとか。もっと日数居るはずだったのに追い出すとは酷いじゃないか、点滴が終わったら宏子に謝る電話を改めて掛けてくれるか?あと次回からまた泊まりに来て欲しいとも伝えてくれ」


麻由子は元から昭一の威張り腐った態度が大嫌いだった。なので話しもしたくなくて親族の集まりでも挨拶程度しかかわさずに来たが、会話してみるとやっぱり横柄で好きになれない。


「追い出した理由は、うちでグラスを投げ付けて大暴れしたからですよ。原因は私が浮気をしていると勝手な勘違いをしたから。あなたに長年されて来た事が甦って錯乱して、私に八つ当たりしていました」


「な、浮気?俺だってそんな事してない。グラスを投げたのは悪かったが、あいつも色々ストレスがあったからで、悪く思わないで欲しい。だから今後も泊まらせてくれよ。あいつはあんたの家に行くのをいつも楽しみにしてて」


「嫌です、自分が女と過ごす為の厄介払いの為に、ひろを年四回も私に押し付けないで」


「だから浮気ってのは、あいつの勘違いだ!」


「ひろはあなたを一度として責めた事が無いはずよ?ひろにとってはあなたが全てだから。だからせめてバレるような真似しないで欲しかったし、甲斐甲斐しいひろを例え表面上だけでもいいから大切にして欲しかった。ひろを歪ませたのは、同居させて育児も介護もさせながら冷たくしていたあなたよ。彼女は元々は素直で明るかったのに」


「この…なんて口を」


「二度と電話しないで下さい」


麻由子は電話を切ると、大きく息を吐いた。そこに羽菜が二階から降りてくる。


「ママーアイス食べていい?」


「ああ、いいよ。ねえ朝ひろちゃんが具合が悪いからお泊まり早めに切り上げて朝早く帰ったって言ったじゃん?家に着いてから熱中症で倒れたんだって」


「えー!大丈夫なの?」


「昭一おじさんが付き添って、点滴受けてる」


「熱中症なら、秋になったらまたお泊まり来られる?」


「うーん、無しかも。ひろちゃんの歳になると女は更年期もあるから。今回も熱中症だけじゃなく更年期も重なってたかも。とにかく早く帰りはしたけど、大事ないみたい」


「ひろちゃん、秋のお泊まりの時は編み物教えてくれるって言ってたんだよ。残念だけど具合が悪いんじゃ仕方ないね」


羽菜がカップアイスとスプーンを持って二階へ行った後、麻由子は換気扇の下に行き煙草に火をつけた。和弘は非喫煙者だし本当は自分もやめるべきなのだろうが、日々ストレスがたまりなかなかやめられない。大きく吸って煙を吐きながら、宏子に思いを馳せる。宏子は子供好きではあり、羽菜には優しかった。そして昭一と出会う前もあのような性格ではなかった。高学歴の男を好む所は変わらなかったが、今のように地位や肩書きに囚われるような性格はしておらず、気は強いがここまで意地悪くはなかったはず。


愛した男に面倒だけ押し付けられ、努力した分の愛を微塵も返されない暮らしが彼女を歪めたのだとしたら、やはり不憫過ぎる。


指先でトンと煙草をはじき灰を落とした麻由子は、立ち上り換気扇のファンに吸い込まれていく煙をじっと眺めた。


自分も旦那から愛されなかったが、平気で居られたのは自分もまた旦那を愛していなかったからだ。これが愛している和弘に利用だけされて振り向いて貰えなかったとしたら…辛すぎて居たたまれない。


麻由子は身勝手な宏子を許せない一方で、同じ女として気持ちが痛い程理解が出来、泣けてきた。自分だっていつ、和弘から見放されるか分からないのだ。まして自分は法的に結ばれた間柄でも無ければ鎹(かすがい)となる子供を持てるわけでもない。


「ううん、逆かも…」


鼻を啜りながら、麻由子は呟いた。

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