第14話

昔から、いわゆる女子会などで「宏子はどんな男がタイプ?」と聞かれると必ず「学歴がある男」と即答してきた。顔がどんなに不細工でも背が低くても性格が悪くても、とにかく有名大学さえ出ている男なら魅力的に映った。そんな自分のお眼鏡に敵う男はなかなか現れず、やっと22歳の時に友人の紹介で知り合った男とは婚約中にあちらの浮気が発覚し破棄となり、二年後職場に異動してきた当時35歳、すでに後頭部は薄くなりかけており気難しい性格だったが早稲田大学出身という男に自分からアプローチし結婚に持ち込んだ。


自分が最高のステータスだと信じる有名大学出身という肩書きを持った旦那を得られ、次のステータスである子供を望んだが、こればかりは自由にならずなかなか授からず苦しんだ。そのうち旦那は見てくれは悪くとも金があるので浮気を始め、貰わなくてはまず妊娠が成立しないというのに旦那の昭一は妻である自分には子種は寄越さず、他の女との行為で避妊具の中に出すばかりだった。それでも黙って見ない振りをしながら下手に出てどうにか子種を頂き不妊治療を続け、待望の一人息子の大樹(だいき)が生まれた。


彼女に手渡されるのは昭一のもらう月給70万円のうちの雀の涙程、食費や光熱費を支払ったら8年着ているシャツを買い換えたくともショッピングモールでTシャツ一枚買う代金にも欠く生活だが、『エリートの妻』という肩書きは得られたから彼女は一応は満足だった。旦那がどんなに尽くしても自分を見ない事は辛いが、今度は一人息子の大樹が自分に『息子の母』という肩書きをくれた。育児に没頭し執着に近い愛情を注ぎ、中でも彼女に新しい扉を開け輝かせたもの、PTA活動に宏子はのめり込み全力を注ぐようになった。ママ友は足の引っ張り合い、マウントの取り合いだが宏子はそれさえ楽しみ幼稚園年少から高校三年生まで、本部役員として勤めた。


だが子供はいつまでも子供じゃない、大学に入学してしまい、心血を注いだPTA活動が終わってしまった。かといって子種を貰えなかったので二人目の子も居ない。やがて完全なるマザコンになるように育てた息子にも年頃が来て、母より恋人を欲するようになり初めて出来た彼女のアパートに入り浸り帰らなくなった。


エリートの旦那も一人息子も女の家から帰らず、家に残されたのは介護費用が勿体ないからお前が世話しろ、という旦那の命令で面倒見ている認知症の義理の父と自分のみ。オムツを付けても剥ぎ取ってしまい、今日もズボンの中に義父は排泄し自分が処理する。


勿体ないから壊れるまで使え、と言われて22年使用している洗濯機は皮肉にも壊れる事なく今日も動くが、洗浄力も脱水機能も落ちた洗濯機では義父のズボンに染み付いた排せつ物の臭いは落ちずに残っていた。


どうしてこんなに尽くしているのに、自分は旦那から愛されないのだろう。いくら考えても、いつも分からない。見た目ははっきり言ってそこらの同年代より良いはず。旦那に「少し太ったんじゃないか?怠惰の表れだな」と指摘されれば慌てて痩せ、化粧品は高価なものは買えない代わりに手作り品も駆使してケアしているし、文句を言わず尽くしているのに…。宏子はだからといって、他の男に走ろうとは微塵も思わない。他の男には早稲田大学出身という魅力が無いから。それこそ東大大学院かハーバード辺りを出ているなら飛び付くが、地方大学卒か専門学校卒などとくっ付く気は毛頭無かった。


愛されない事、何もかも抱えている事などにうんざりしながら義父の衣類を干し、リビングのカレンダーを見るともう初夏。旦那は自分が愛人宅に滞在したい時だけは宏子が父親の世話をするのを免除し、ショートステイに預ける許可を出す。そして厄介払いのように「また実家とまゆちゃんの家に行くだろ?」と言う。宏子自身も実家と麻由子の家に滞在した方が、普段出来ない人に我が儘を強いて好き放題過ごす、という日々が叶うので早速麻由子に今年の夏も泊まりに行くと伝える電話をした。


こちらが希望した28日からの滞在は叶わなかったが、今年の夏も麻由子の家に行けるから旦那が愛人宅に行っていても、息子が彼女のアパートに行っていても、自分も気を紛らわせられる。


宏子は麻由子が好きであり、同時に馬鹿にする存在でもあり、また嫌いな存在でもあった。好きな部分は明るく宏子の我が儘を聞く所と、自分と同じく旦那に愛されない所。馬鹿にする部分は、旦那の出身校が地方のFランク大学である所とPTA活動などに積極的じゃない所。そして嫌いな部分は…


旦那に愛されなかろうが苦しんでおらず、旦那の学歴が低くても恥ずかしがらず、子供が出来なくても悩まなかった所。自分が喉から手が出る程欲しいと思ったり、手に入らずのたうち回って苦しんだものを彼女はひとつも欲しがらないのに、あっけらかんとしていた。自分が旦那の出身校をひけらかすと「ひろの旦那さん頭良いよね~」とは言うが羨ましがる様子は無く、彼女に子供が何年も出来ない時も「子供?出来たら出来たで嬉しいけど、どうしても欲しい!というわけじゃないんだ。お金そもそも無いから不妊治療もしてない」としか言わず、出来ない間も気楽にしていた。自分がPTA本部の副会長を勤めた時は「ひろはそういうの得意でいいなぁ、私はひたすらお役が回って来ないように、広報と学年委員仕方なく一回ずつ引き受けて、あと逃げ回ってるよ」と笑う。なぜ麻由子は恥ずかしくないのだろう、単なる価値観の違いでしか無かったが、宏子には理解出来ず自分に嫉妬しない麻由子に苛立つ事さえあった。


ただ、麻由子の旦那が倒れて重度障害者になったと聞いた瞬間、宏子は今までの事が全てどうでも良くなるくらい胸が透く思いがした。自分の旦那は健康だが、麻由子の旦那はみっともなく義足でひょこひょこ歩き外では麻由子に車椅子を押させる。端から見たら可哀想な麻由子と、色んなステータスに守られ可哀想とは思われないであろう自分。そこに決定的な差が生まれた。


だが、やっと麻由子も泣く日が来るか、そう期待しつつ年数回の滞在時の度に様子を見ていたが、彼女は思い悩みはしていない。起きた事を受け入れ、与えられた中で暮らしを楽しんでいるように見えた。初めは我が儘が言えるから行っていた麻由子の家への滞在だが、やがて滞在時にちくりちくりときつい言葉を掛けてみて、楽天的な彼女が泣く顔を見たくて行くようになっていた。だがなかなか彼女は泣かない。


今年の夏は何て言葉を掛けてみようかな、「旦那が車椅子だと皆から視線浴びない?辛くない?まゆ可哀想」にしてみようかな。宏子は日々の自分の鬱憤晴らしを受けてくれる麻由子に、お礼も兼ねて安物の菓子の土産を用意すべく、サンダルを履いて鼻歌まじりに家を出た。

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