第10話

「旦那とは、イルミネーションなんて行った事無かった。一緒に行きたくも無かったから誘った事もない。楽しい事をする時はいつも、友達か娘と」


外は雨。


歩道の人通りもすっかり無くなった夜の六号線を、和弘の運転する車が走る。その助手席で麻由子が呟いた。


「これからは俺と色んな場所行こうよ、来週から隣町で凄い規模のイルミネーションやるみたい。そこも行かない?」


「いいね、楽しみ」


「それと春になったら花見。俺釣りが趣味でさ、たまに友達と行ったり一人で行ったりするんだけど、一人で行く釣り場所の手前に毎年綺麗に咲く場所があるんだ。そこは俺だけが知ってるスポットで、誰も連れて行ってない」


和弘はいつも麻由子を乗車させる場所に車を停めると、麻由子の手を取った。


「そこに、まゆを連れて行きたい」


麻由子は自分の手を取りそう言いながら微笑む和弘を見つめ、改めて彼を好きだと感じ胸が高鳴った。本当に連れて行ってくれるかは分からず口約束だけかも知れない、これからの実際の付き合いはホテルに行くだけになるかも知れない。だとしても自分もいい歳で、デートなんて若い頃にしているから今更こちらから求めない。行こうね、と提案してくれただけで充分だと思えた。


「幸せ」


短いが、精一杯の気持ちを込め麻由子が和弘に伝える。すると和弘からも


「俺も最高に幸せ」


という言葉とキスが返る。激しく舌を絡められると、朝は剃ったのだろうけれど夜になり伸び始めた和弘の髭が柔らかい麻由子の唇周りの皮膚をなぞるので、少し痛い。けれど麻由子はその感触さえも、男らしさの象徴のように感じ嫌では無かった。名残惜しさを感じながら和弘の車を見送り自宅に帰ると、祐志は自室に居り羽菜はリビングのソファーでうたた寝していた。


子供に顔向け出来ないような事して恥ずかしくないの?


旦那が居るのに不貞するなんて最低!


もし今誰かからそう言われたら、自分は何と答えるだろう。麻由子は考えてみたが、自分でもびっくりするくらい娘に対して、というより不倫そのものに対しての罪悪感が沸かなかった。自分の人生は娘に支配されるものでも旦那に支配されるものでもない、誰あろう自分のものだ。ひた隠しせねばならない、自由に会えない、それらを覚悟をし妻や母親の任務は最大限勤めたその上で自由にする。それを微塵も悪いと思わない。


但し発覚しないうちは。


自分の夫、自分の娘、和弘の妻、和弘の息子のいずれか一人にでも発覚したその時、自分のした事は大罪となり罰が下る。逆を言えばその誰も悲しませないのなら、誰にも罪悪感など持たない。だからこの先どんなに和弘に夢中になっても、家庭を壊し略奪婚をする気は毛頭無い。羽菜を起こし寝室に促した後リビングのソファーに座った麻由子の体に、先程抱かれた和弘との情事の記憶が甦る。とうに忘れていたが、セックスの最中自分に重なる和弘の体は体温が高くなり熱く、筋肉質で硬く、優しく、時に荒く、そのどれもが自分が『女である』事を骨の髄まで自覚させてくれた。


同時にそれは、この上もなく甘く極上の麻薬なのだとも思い知らされた。手を出せば一度では済まず、摂取した直後は満たされるがやがて日数と共に効果は減少し、また欲しくてたまらなくなる。そうするうちに解毒が叶わぬ程の量の毒が体内に蓄積し採らずに居られなくなり、採れなくなったらやがて狂う。


それを分かった上で、麻由子は和弘との交際を開始した。麻由子は元来受け身で交際に関しては主張は控えめ、我が儘や勝手な振る舞いはどんなに慣れても言わない。だからこそ女へのモラハラ行為が生き甲斐のような祐志に気に入られたのだ。電話番号は知っていても自分からは掛けない、LINEの既読がどんなに付かなくても何も言わない、そもそも自分から「会いたい」とも言わなかった。言わない代わりにあちらから○日に会える?と聞かれたら用や仕事が無い限り断らない。交際はあくまで和弘の都合で進めさせた。そして麻由子は、和弘がなぜ女房に嫌気がさして自分に走ったか、その原因をしっかり踏まえた上で彼に接した。


育児も掃除も洗濯もしない、子供の行事にすら一切出ない女房に代わり仕事をしながら和弘一人でそれら全てをやるには限界があり、近くに住む女房の母親が家事を手伝う事もあるが、その母も女房も揃って全く料理はしない。そして事ある毎に黙って従い甲斐甲斐しく家族に尽くす彼を蔑むという。どんなに尽くしても「足りない、やってない、あんたはどこまでもダメな男」と罵られる彼が外に女を欲した理由は性欲よりも、承認要求が原因だろう。だとしたら選ばれた自分が彼にすべき事は


彼の全てを肯定する事、に尽きるはず。


仕事でも家でもみんな俺にばかり頼るんだ、家ではこんなに細部までやっていても罵倒される。子供が可愛いからやれてるだけだ。


そんな彼の愚痴に麻由子が返すべき言葉は「あなたが選んだ仕事でしょ?」「あなたが選んだ相手でしょ?」「言い返したりボイコットすれば?」などの正論ではない。彼が選んだ彼の生き方は例え間違っている部分があろうが絶対否定せず「優秀だからだよ」「私は最低の旦那を選んでしまったけど、奥さんは最高の旦那を選べたのにその幸運に気付けないんだね」「言い返したり家事を放棄しないのは子供ちゃんの為だよね。偉いと思う」そう必ず和弘の立場に立った言葉を選んだ。


支援相談員の担当では無くなり業務で会わなくなった二人は和弘の仕事が終わってからの夜に三時間程、月二回会った。そして二ヶ月に一度は和弘の提案で互いの一日休める日を合わせ、イルミネーションを見に行ったり少し遠い場所にあるアウトレットに行くなどの遊びにも出掛けた。そんな日は和弘は麻由子をホテルには誘わず、目的のレジャーを済ませたら速やかに麻由子を自宅に送った。セックス目的で無いのに自分に会う為に時間を作ってくれる事が、麻由子は嬉しかったし彼に尽くした。


仕事が終わって帰ると全員寝ており、洗面所にはまるで『週末のお前の仕事だ』と言わんばかりに洗濯前の衣類が山積みされ部屋の隅には埃が溜まり、女房と子供はテイクアウト、出前、コンビニで買ったもので食事を済ませているが、テーブルにも冷蔵庫の中にも和弘の分が用意されている事は無い。疲れて作る気にもなれないので、帰る途中に牛丼やコンビニのおにぎりを買っておき一人で胃に入れて済ませるという。


昼は弁当など持たされるはずもなく、会社近くのラーメン屋、定食屋、コンビニなどをローテーションで回る。そんな和弘はとにかく手料理に飢えており、麻由子がふと思い付き仕事帰りに会う日におにぎりとおかずをいくつか詰めた弁当を持参したら、大喜びし大層誉めた。以来夜に会う日は麻由子の仕事が早く終わった日に限るが彼に料理を持参している。


麻由子は和弘の欲しかったであろうもの…自分都合で進められる交際のスケジュール、肯定、賛辞、自分の為に作られた愛情のこもった手料理、それらをふんだんに与えた。和弘が甘い毒で麻由子を夢中にさせたように、無自覚ながら麻由子もまた和弘が自分に注入している<伴侶からは貰えなかった優しさと好意>という同じ毒を少しずつ注入し、彼を中毒にさせていた。


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