第8話

あの頃自分を床に倒した腕力も、自分の背中を蹴り上げた足も、罵声を浴びせた声も、この人には全てもう無くなったんだ。麻由子はソファーからヨタヨタと立ち上がろうとする祐志を見ながら思う。そして手を貸さなくてはと思い側に寄った時の事。


祐志が麻由子に抱き付いた。


あの頃のような力は無いが、それでもまだ40代で半身は損傷が無いので麻由子一人を拘束するくらいの事は出来た。そして祐志は健常な片手で麻由子を抱えたまま、麻痺の残るもう片方の手で麻由子の着ていたジップアップパーカーのジッパーを下ろそうとした。何をしようとしているのかは分かる、祐志は麻由子を抱こうとしているのだ。この6年間にも同様の事はあったが、性欲が溜まり過ぎないよう昔は入浴介助のついでに麻由子が手を使い発散させてやる事もあった。だが和弘と知り合ってからその行為が嫌になり、麻由子は一切してやっていなかった。そもそも片方の手は健常だし自室もあるから、娘が学校に居る間にでも一人でして、と頼んでいる。だが祐志はそれでは我慢出来ないらしい。


「やめ…」


麻痺して硬縮しかけた指で懸命に麻由子のパーカーのジッパーの金具を摘まもうとするが、上手く出来ない。荒くなった息が麻由子の頬に掛かり、麻由子は心の底から気持ちが悪くて吐き気を催した。そして


「やめてよ!」


と大声を上げながら祐志を突き飛ばした。祐志は身長は180cmあるが、足の切断と麻痺のある体はバランスを保てず麻由子の力で押すだけでも簡単に後ろのソファーに座らせられた。祐志は悲しいような、怒っているような顔をした。和弘に抱き締められた時にはあんなにも高揚し幸せを感じたのに、祐志にされると頭の先まで悪寒が走り全身が彼を拒絶する。麻由子は涙ぐみながら


「今後一生、二度と私にそういう目的で触らないで。次やったら家から追い出すから。介護はする、快適な暮らしもあげる、食事の世話も、全部するから…もうそういう対象にしないで」


と絞り出すような声で言った。祐志は「さびしい」と訴えたが、その言葉に麻由子は更に怒りが加速する。


「一度聞き取れなかっただけで床に倒して背中を蹴った!パチンコに勝てなかった日は私を突き飛ばして唾を吐き掛けた!産後直後疲れてうたた寝していたら肩を殴られて食事を作らされた!機嫌が悪くなったら旅行先でも平気で置いて行かれて車で先に帰られた!自分がパチンコで作った800万の借金の為に私に売春してでも返せと言った!本来我が家の虎の子として取って置けた500万を差し出さないとならなくなった!それでも私は、あなたをこうして面倒見てる…」


麻由子は耐えきれず泣いた。


「もう充分でしょう、この上まだ私を辱しめるなら、本気で家から叩き出すわよ」


祐志は麻由子の姿を黙って見つめていたが、やがて「ごめん」と言うとなんとかソファーの肘掛けを使い自力で立ち上がり、自室に消えた。一緒に居たいと思った事など一度も無い。ただ母を安心させたくてしただけの結婚であり、母が亡くなってからは帰る実家が無いから留まっていただけ。この先はもう祐志のモラハラやDVに怯えなくて良いから、麻由子も代わりに優しく世話してやる事だけは誓っている。けれど


自分に触らない事と、自分が他の人を好きになる事。これだけは許して欲しいと麻由子は心底祈った。後者は無論祐志に告げる事は無いが、嫌いな男の世話をする代わりに自分に生きる甲斐が欲しいと、麻由子は懇願した。


虐げられるばかりだった私も、誰かに好いて貰いたいし好かれたい。例えそれが今の立場では許されない事でも。捨てたりはしない、夫も娘も守るから。


麻由子は一人になったリビングで、ソファーに腰掛け誰に祈るともなく祈った。


やがて玄関が開く音がし「下校ってタイミングで雨だよ~最悪!」と言う声と共に娘の羽菜がリビングの扉を開けた。それから麻由子はいつも通り、羽菜をシャワーに促し夕食を作り、食器を洗い自分も入浴するなどし普通に過ごした。祐志も夕食に呼ぶと普通に席に着いたし、麻由子もいつも通り穏やかに接した。入浴介助は今日は一日置きで祐志は入らない日なので祐志の体を触らずに済んだ。全て終え普段ならメイクも落としている時間だが、今日は会社帰りの和弘に書類を渡す約束をしている。なので入浴時一旦メイクを落としたがもう一度、眉毛を描き薄いピンクのリップを付けるだけはしておいた。軽くメイクを終えた頃LINEの通知音が鳴る、メッセージの送り主は和弘。麻由子はリビングのソファーでテレビを見る祐志と床に寝転びながらSwitchで遊ぶ羽菜に


「ねーママの友達が仕事帰り会わない?ってLINEして来たから、出て来るね。どっかのファミレスでドリンクバー飲んでちょっと話してくる」


と告げた。


「いいよー、友達ってこの時間からだと秋枝ちゃん?」


「そう、秋枝は遅番だといつも帰りこれくらいの時間だからね。一人でご飯食べるの寂しいからお茶だけ付き合ってってさ。でもそんなに遅くならないよ」


同じ部屋に居るのだから、羽菜に言えば祐志にも伝わる。わざわざ彼に説明はせず「いいよね、パパ」とだけ言い、その返答も待たずに麻由子はバッグを掴むと家を出た。


和弘とは書類の受け渡しの約束しかしていないが、逆に夜にそれだけの短時間家を出る理由の方が無い。なので書類を渡したら30分くらいは一人で自分の車でドライブするかファミレスで時間を潰すつもりでいる。


「じゃあ明日、役所に出しておくから」


書類を受け取った和弘が言う。薄明かりの中で見る車内の和弘の横顔は、改めて見ても麻由子の好みでかっこいい。視線に気付いた和弘が「見惚れてる?」と笑いながら聞いたのに対し、麻由子はとっくにこちらが好意を持っている事などバレているだろうから、繕っても仕方ないと思い素直に「うん、かっこいいと思ってたよ」と返した。


「だめだよ、夜間に男の車の助手席でそんな事言っちゃ」


「かずの車以外には乗らないよ」


「俺の車に乗るのが一番危険だよ」


和弘は言いながら車のエンジンを掛けた。


「どこ行くの?」


「言ったろ?危険だって。もう乗っちゃったんだから諦めて」


和弘は行き先を告げずに車を発進させた。窓の外を眺めながら、麻由子は夕方の出来事を思い出していた。祐志にされたおぞましい所業は、今思い出しても鳥肌が立つ。あれを忘れさせてくれるなら、今夜はこのまま和弘にホテルに連れられてもいいや。と麻由子は思った。だが和弘が麻由子の承諾も無しにホテルに車を走らせるような男でもないと知ってもいるので、どこに連れられても危険だったり嫌な思いはしないと安心も出来る。


が、黙って助手席に乗り外を見つめる麻由子が不安がっているか不機嫌になったと思ったのか、和弘が慌てて麻由子の顔色を窺った。


「冗談だからね?長い時間は取らせないから」


「はは、かずは私に黙って私が困るような場所に行ったりしないって分かってるし、1~2時間くらいなら大丈夫」


「そっか、もしかしたらもう友達とかと見に行ったかも。でもさっき通り掛かったら綺麗だったから付き合って欲しい」


「あ、イルミネーション?今年はまだ見てない」


「なら良かった」


会話するうち、車がどこかの駐車場に入る。車から出て少し歩くと、そこから先は最近流行りの斜め切りして透かし彫りを施した竹の中にLEDライトを入れた、竹あかりを使ったイルミネーションで装飾された道が続いていた。


「凄い…綺麗!」


麻由子は素直に喜び、声を上げた。


「間に合った、でもあと20分くらいで終わっちゃうけど」


麻由子は急ぎスマホを出して写真を何枚か撮った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る