第7話

「泣かせちゃった、ごめんな。でも今は…気持ちを理解して案じて泣いてくれてるまゆに、本当に救われてる」


和弘は言い終えると、麻由子に手を伸ばし髪に触れた。


「一回だけ、二度としないからハグしていい?」


「いいよ」


「有り難う」


短いやりとりを終えると、身を乗り出した和弘の腕が麻由子の体を覆った。障害者となった夫の介助では、夫から抱きつかれるなどしょっちゅうある。彼はそうしないと立ち上がれないような体になったから。抱きつかれる度に嫌悪感で鳥肌が立つが、いつもは黙って耐える。今日のハグは、自分を怒鳴り付け経済的にも苦しめ今は介護の負担を強いる憎い男のものではなく、自分に優しく、自分を求める男の腕が麻由子を捉えているハグ。麻由子の心臓は和弘にバレるのではないかと思うくらい鳴った。麻由子を抱き締めた和弘の鼻先が、麻由子の洗い髪の中に埋もれた。


「シャンプーの良い匂い…やばい」


和弘はしばらくじっとしていたが、やがて体を離した。


「ダメだ、これ以上ひっ付いてたら」


「何がダメなの」


「もっとまゆが欲しくなる、今だって…恥ずかしいけど、ほら」


和弘が視線を落としたので麻由子も追うと、和弘のズボンの前部分が高く盛り上がっていた。


「反応しちゃうのは男のサガだから、許して。でも絶対にまゆが嫌がるような事はしないから。よし、ハグでめちゃくちゃ元気貰った!車出すよ、家まで送る」


エンジンを掛ける和弘に「まだ送らないで、ここでキスでもその先でもいくらでもして」そう言えるものならば言いたかった。けれどどうしても言えなかった。ここまで来たら、和弘も自分を好きになってくれたという事は明らかに分かる。ただ分かったところでそんなに簡単に一線は越えられない。夫との結婚生活の中でも麻由子は不貞に及んだ事は一度も無いし、何より麻由子は自分に自信が無い。自分より年下でその気になれば簡単に彼女を作れそうな容姿の和弘には、自分は釣り合わないと思うから踏み込まない、というより踏み込めなかった。


許したらきっと、今日は抱かれる。でもそれで終わってしまう。一度ものにして気が済めば、私には用が無くなり連絡すら来なくなるかも知れない。そんな存在に成り下がるくらいなら、一線は越えない方がいい。何よりあちらも私が欲しいところをあえて我慢してくれた。それはあちらも、抱いて今までの関係が壊れてしまう事が嫌だったからなはず。


貰ってプルタブを開けないままの缶コーヒーを握り締めながら、麻由子は好きな男がいるのにどうとも発展出来ない既婚の我が身が恨めしくなった。だが彼には、自分が障害者である夫の妻という立場だからこそ巡り会えたのも事実。どうあっても自分は既婚の身でしか彼の前には現れる事が出来なかったのだ、という諦めも過った。何よりあちらも既婚。私達はどう足掻いても踏み込んではならない間柄。そんな事を考えていたら、車が先ほどの自販機を通り越しもっと麻由子の家寄りの、かつあまり明るくない路肩に停まった。


「ハグさせて貰って本当に力貰えたよ。明日は気持ち切り替えて仕事行ける」


「もっと若いならまだしも、私もう40だよ?おばさんのハグじゃそこまで元気あげられないと思うけど。それでも少し落ち着く効果くらいはあげられたなら、本望」


「まだ40だろ?そんな事言うなら俺だってもう36だよ。それに歳なんか関係ない、まゆはいつも綺麗にしてて見た目可愛いし、何より優しい。あとさっき抱き締めて髪から漂うシャンプーの匂い嗅いだ時は本当にやばかった。理性保つの大変だった」


「かず私より4歳下だったんだ。実はまだ30になったばかりか下手したら20代後半かと思ってた」


「そんなに若いと思ってくれてたの?」


「髪型とか顔立ちが若く見えるし、たまに私服の時あるけどその時の服装とかもおしゃれだから」


「まゆにたくさん誉められた」


和弘は先程とはうって代わって、いつものように声も表情も元気になっていた。


「かずは誉めるところばかりだよ、仕事は出来るし優しいし、得意なものも多いし。さ、それじゃ私帰るね」


「まゆも誉めるところいっぱいだよ、今日は本当にありがとう、おやすみ」


車を降り和弘に手を振り自宅へ戻る、何食わぬ顔をし寝仕度をしベッドに入ったが、麻由子はその日はなかなか寝付けなかった。今日の和弘に会ってからの出来事が、目を瞑ると次々と瞼の裏に甦る。自分が駆け付けるのが遅かったせいで人が亡くなったと自分を責める和弘の顔、ハグした後の和弘の勃起した様子、このまま抱いて欲しいと言いたくても言えなかった自分の辛さ、手の中で段々と熱さが無くなり冷えていくコーヒーの缶の感触。色んな事が綯交ぜになって押し寄せたが、その渦の中心には揺るがない思いがあった。


私は、彼を好きになってしまった。その好意は揺るぐ事がない。


実際の不貞は無くても、私は彼を好き。男性として魅力を感じ声を聞けば嬉しくなり、悲しんでいたら自分も悲しく、抱き締められれば高揚し、彼が自分によって興奮した様を見ると堪らない気持ちになる。何もせず、ただ思っているだけなら許されるはず。麻由子はこの先も自分から好意は伝えるつもりは無かった。


「この前うちに届いたやつ?記入してあるよ。けど右側はよく分からない項目ばかりだから、半分は空欄のままにしてて、聞きながら書こうと思ってた」


「言い忘れててごめん、あれ右側は事業所側が記入する欄だからまゆは書かなくていいの。じゃあ今日会社帰りについでに取りに行っていい?その方がまゆが役所に出しに行く手間が省けるから。俺明日仕事で役所行くから代わりに出しておく」


「助かります、ありがとう」


和弘と雑談ではなく業務上の連絡を終え通話を切ってリビングに戻ると、通所施設も事業所も行かない日で朝から家に居る夫がソファーに座り窓を眺めていた。


「あぇ」


何か声を発しているが聞き取れない。


「え?」


麻由子が聞き返すと


「ふぅよ、うってきたよ」


と何かを伝えようとする。どうやら雨が降ってきたと麻由子に教えたいらしい。まゆは「ああ、教えてくれてありがと」と言うと二階に行きベランダに干していた洗濯物を吊るしたハンガーを室内に入れた。再びリビングに戻ると、結婚して2年程経過した頃の事を思い出した。あの日も今日のように祐志は麻由子に何か言ったが上手く聞き取れず、麻由子は「え?」と返した。新婚時代住んでいたアパートに置いていた洗濯機は中古で17000円で買った最小限の機能しか付いておらず、脱水時の音が大きなポンコツだった。ゴウンゴウンと音を鳴らし回る洗濯機の側に居た麻由子に祐志が何か言ったが麻由子は何を言ったか分からず


「え?ごめん祐ちゃん洗濯機の音大きくて聞き取れなかった、もっかいお願い」


祐志にそう頼んだ。すると次の瞬間、長く伸ばしポニーテールに結んでいた麻由子の髪を祐志が力任せに引っ張った。手加減しない男の力で頭部を引っ張られた麻由子はバランスを保てず床に転がった。下手したら脛椎まで損傷させる傷害だが、祐志は


「イラつくんだよ、一回で聞けバカ」


と倒れた麻由子に言い背中を蹴った。

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