第2話

「ママ?」


自分を呼ぶ声に麻由子は振り返った。呼んだのは羽菜ではなく祐志、切断された足に装具を付けた状態でよたよたと歩いて来る祐志に麻由子は「凄い、杖なしで歩けるようになったのね」と言い優しく微笑んだ。


祐志は内緒のうちに膨らませた借金の重圧もあり、血圧がかなり高くなっていたようだ。後に会社の机の引き出しに隠していた健康診断の結果が見つかり判明した。会社から帰る際の運転中軽い脳出血状態になり、ハンドルをコントロール出来なくなり塀に車を突っ込ませ自損事故を起こしたらしい。


入院は十ヶ月に及び祐志は退職せざるを得なくなった。そして麻由子は離婚を申し出ていたが、せずに6年の歳月が流れ今に至る。離婚どころでは無くなったというのが現状だが、まず祐志は重度障害者となった為に生命保険から500万円がおり、かつ息子の借金を知った夫の両親から300万円が都合され祐志の作った借金は完済が出来た。


そして祐志は退職しても障害年金の受給が可能となり自分の生きる糧は自分で得る事が出来、麻由子も仕事をしているので経済的には問題が無い。残るは障害を負った祐志の世話だが、これも入院中のトレーニングで着替え、食事、家の中を杖で歩く等身の回りの事がやれるようになり、入浴は週三回通所施設に通う際スタッフが入れてくれて、実際の所あまり麻由子の手は煩わせていない。


救急センターから電話が入り駆け付け、車体に挟まれていた片足は切断するしかないと医師に言われた時は目の前が真っ暗になったしここまで来るにはそれなりに大変でもあったが、祐志の事故後の現状は麻由子はさほど辛くは無かった。


むしろ借金は一気に消え、怒鳴り散らすモラハラ野郎だった祐志は軽い失語症が残り怒鳴る事が出来なくなった。だが損傷を受けたのは脳の言語野のみで理解力は健常なままなので、意志疎通は叶う。祐志自身も離婚され高齢で自分の面倒など見切れない、いつ逝くか分からない両親に身を預けられる事が不安で仕方なく、麻由子を頼みの綱として泣き付き離婚を考え直して欲しいと懇願し、麻由子に一切のモラハラをしなくなり身の回りの事は努力し自力でやれるまでになった。


麻由子には離婚の理由が特に無くなった。


それでも多少の面倒は掛かるが、体感としては夫という健常だった成人男性が消え、代わりに羽菜と同じくらいの歳の子供がもう一人増えたくらいの感覚だった。


覚束ない足取りで自分に向かって必死に歩いて見せて、媚びるような顔を向けて来る祐志には昔の面影は無い。だからといって愛情が復活したわけではなく枯渇したままたが、人が祐志の乗る車椅子を押す自分を「まだ幼子を抱えた上、障害者になった夫を見捨てず守り慈しむ苦労多き妻の鏡」と絶賛したり哀れんでくれるのに対し、麻由子本人はさほど大変でも無いから離婚せずに居るだけの事。


だが生活そのものは変わりはしたし、今まで触れる事が無かった障害福祉に関するサービスなどを受ける側になり、携わる職員やケアマネージャーなどとの関わりが増えた。


「歩行リハビリ終わったら、部屋で休みなよ」


麻由子が言うと、夫は頷き自室にまたひょこひょこと自力で歩いて行く。一応転ばないか見守った後、麻由子は洗面所に行くと鏡を見つめた。四十路になったからというのもあり、心労もそれなりにあったせいもあるだろう、この半年で白髪が増えた。髪を掻き分けると二週間前に染めた髪の根本がもう白い。今日の夜はまた染めなくては。そんな事を思い分け目とにらめっこをする麻由子に、探しに来た小学生六年になった羽菜が


「ママ、綺麗よ」


と声を掛けた。


「えー本当?」


「うん、それに髪の色もお耳のピアスも似合ってる」


「誉めて貰えて嬉しいから、おやつは羽菜の好きなホットケーキ焼こうかな」


「やったー」


今日は土曜日、麻由子も羽菜も休日なので時間の余裕がある。麻由子は洗面所を出るとホットケーキを作る為にエプロンを付けた。


鬢には白いものが増えたが、事実麻由子は祐志が健常だった頃より綺麗になっていた。あの頃は麻由子自身が稼いだ金さえ祐志が文句を付け、口紅ひとつ買っても煩く言われるので身を飾る事など出来なかった。元来麻由子は結婚前は少し派手な出で立ちでもあり、祐志が文句を言えない立場になってからは長らく付ける事も無かったピアスを付け髪はアッシュブラウンに染め、爪は介護に支障の無い程度に伸ばしマニキュアも塗るようになった。そして何より、生活が一変した為に麻由子は痩せた。


顔立ちはさして良くも無いが、何ひとつ構えなかった頃より子供と障害者の夫を抱えた今の方が身綺麗に出来ており体型も整っている。祐志の事故は、麻由子にそんなメリットをもたらしていた。

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