水魚之交<スイギョノマジワリ>
マユ
第1話
「どういう事?800万円て…」
震える声で聞き返す麻由子(まゆこ)に、夫祐志(ゆうじ)は
「俺にだってどうしていいか分からねぇんだよ!もう!」
と怒鳴ると、立ち上がり二階の寝室へ消えた。麻由子は怒鳴り声で娘の羽菜(はな)が起きていないか心配になり寝床を覗くと、羽菜は一瞬ぐずるようなしぐさをしたがまた眠った。一人になったリビングのダイニングテーブルに座り、先程夫から告白された借金の額をもう一度思い出してみる。
800万円。
こじんまりした規模の飲食店なら一軒開ける程の金を、夫の祐志はパチンコと競馬に費やしていた。
友達の紹介で2年付き合い結婚したが、夫祐志は結婚した途端自由にならないと怒鳴り、壁を蹴り、時には麻由子を叩くような男になった。そんな夫に麻由子は愛情はもう全く無い。子供は単にセックスレスで9年間出来なかったが、その期間は麻由子は好きではない夫はただの同居人と見なし、夫婦の不仲も子供が居ない事も別段悩んでは居なかった。そんな中たった一回、酔って帰った夫に組み敷かれて出来たのが羽菜だった。子供が出来ても相変わらずの祐志と違い、麻由子は新たな生き甲斐を得て幸せだった。そんな羽菜は幼稚園年中、まだまだ手もお金も掛かるという時にのし掛かる借金。
「離婚しよう」麻由子はそう呟くと、立ち上がり自分名義の通帳をリビングのラックから取り出し額を確かめた。麻由子は早くに両親を亡くしており、頼れる実家が無い。離婚すれば養育費など出す夫ではない上実家の世話も受けられず一人で羽菜を育てて行かなくてはならない。けれどそれでも、借金を抱えたクズ野郎の妻でいる方がデメリットが多すぎる。さっさと捨てなくては。
麻由子は翌日
「私からこう言われるのは分かってたわよね?離婚して」
と玄関で仕事に向かう為靴を履く祐志に告げた。祐志は鼻を鳴らすと麻由子を睨み付けた。
「俺の借金はお前との生活がつまらねえから背負ったんだ、責任はお前にもある。簡単に別れねえからな、お前も返せよ」
「保証人にもなってない私には関係ない、離婚して破産手続きでもしたら?」
「会社に知れたら居られなくなる、離婚も破産手続きもしない。とにかくお前も水商売でも売春でもして返せ」
祐志はそう言った後
「デブで不細工だけど、数こなせばそれなりの稼ぎになるだろ」
そう言ってもう一度鼻で笑った。麻由子は咄嗟に、ほぼ無意識のうちに祐志の頬を叩いていた。面食らってはいたが、そうされても当然な物言いを自分がした事くらいは自覚しているらしい。怒鳴りも叩き返しもせず、祐志はドアを開け家を出て行った。
胃の腑がジリジリと焼けるような感覚が襲う。最低の男と借金800万円が自分に纏わり付いて離れない。そんな男からこの上ない侮蔑の言葉まで寄越された。
「ママ?」
意識を失いそうになる程の怒りと悔しさに立ちくらみが起きそうな麻由子を正気に戻す、羽菜の声。
「ああ、幼稚園の時間だね、そろそろ出ようか」
必死に笑顔を作り振り向くと、麻由子は玄関の帽子掛けから羽菜の園帽を取り羽菜に被せた。園バスから手を振る羽菜に自分も手を振り、さして仲良くもなくただ同じバスの待ち場所だから話すだけのママといつものように当たり障りない「やっと暑さが和らいで来たね」などと言葉を交わしたらその場で別れて一人で家まで戻る。帰る道には古びた小さな稲荷神社があり、園バスの利用のついでに羽菜が「またプール行きたい」や「今年は花火大会やって欲しい」など要望を言う度「じゃあお稲荷さんにお願いしようか」と言い時折二人で願掛けなどをする。麻由子は今日は神社が近づくにつれ
神仏がこの世に居るのなら、どうか夫を死なせて欲しい
と本気で願った。願ったところで神社から狐が現れ「願いを叶えてやる」と言ってくれるわけでなし、苔むして鼻の欠けた石造りの狐の像はものも言わず佇むだけ。麻由子は通過しながら小さく笑うと
「叶えてくれるわけ、ないか」
と吐き捨てた。神社の狐は麻由子に願いをかなえる約束はしてはくれなかったが、その二日後。麻由子の携帯に
「すぐに叶井坂救急センターにお越し下さい、ご主人の祐志さんが交通事故で搬送されました」
という一報が入った。
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