六。黄昏のアルバート叔父さん。
叔父さんは走っていなかったので、僕の足でも追いつくことが出来た。
スーツ姿の男が肩を落とし、林の中に入っていく光景は、あまり見たいものではない。
もしもこれが、叔父さんを見た最後の姿だったら、僕の記憶に一生もののトラウマとして残るだろう。
「……叔父さん、なんて言えばいいのかわからないけど、ごめんなさい。リリィがおかしいのは、僕じゃどうしようもできなくて」
とってつけたような言葉だけど、真実ではある。
たまに僕も頭に血が昇って、リリィをスクラップにしようと父さんに訴える。
それでも、父さんは笑ってるだけ。僕にできるささやかな抵抗は、リリィの作った食事を食べないことくらいだ。
「いや、謝らんでくれたまえ。それほど落ち込んではいないのだよ。相打ちとはいえ、はじめて拳を当てた達成感のようなものがある」
敗者にかける言葉はないと、勝負の世界でも言うらしい。
僕が謝るのも失礼な話だったかもしれない。
それでも怒らない叔父さんは優しい。
「しかし、あんな機能まであったとはな。これは根本的に考え方を改めるときが来たようだ」
「もう、やめてもいいと思うんだけど……僕はリリィのこと、我慢できないわけでもないし。なんとかやっていけますから」
母さんの命令、叔父さんなりの意地。それは叔父さんにとって大事なことだろうけど、貴重な休日をそれで潰すのはなあ。
少なくとも僕のほうの問題は、今までなんとか切り抜けている。リリィの桃色攻撃に、僕の理性と自我は奮闘中だ。最後の砦は落ちていない。
「父さんに言いつけてスクラップにするぞ」
その必殺台詞を発すれば、リリィは少しの間だけおとなしくなる。
せいぜい持って二時間だけど……。
それに、リリィの淹れるお茶もコーヒーも、手作り絞りたてのジュースも、凄く美味しいんだ。
せっかくの休みに遊びに来てくれているなら、叔父さんと僕とリリィと三人で、ごく普通のブランチを楽しみたいよ。
叔父さん好みに英国風で、ベーグルサンドやスコーンも焼いて。
紅茶は近年になって自然が戻ったセイロン産を用意しよう。
外星には英国食器の有名ブランドもある。通販で買おう。
うん、リリィは抜きでもいいくらいだな。そもそもあいつは食事を摂らないし。
「気を遣われて悲しむべきか、それとも、気を遣うほどにアキラくんが大人になったことを喜ぶべきか、難しい問題だ。しかしね」
叔父さんは、思い出したように葉巻を吸いだし、吐き出される煙を眺めながらゆっくりと話を続けた。
「きっかけが姉さんからの指示だったことは認めよう。それがリリィ嬢と私の因縁のはじまりだ。しかしそれも今となっては霧散しているのだ。私が彼女に挑戦し続ける理由は、命令でもなければ復讐でもない。清算と償いなのだよ」
言っていることがよくわからない。誰に、何を償うと言うのだろう。
「私が姉さんに最初の改造を施されたのは、君が生まれる少し前だ。自分の体が、人間とは言えないものに変わってしまったことがはっきりと分かった。最初は悲観したよ。しかし、砂漠のユーラシアを寝ずに駆け抜け、ヒマラヤの頂でクリスマスキャロルを口ずさんだとき、私は自分が地上最強の生命だと自覚した。頭が上がらないのは姉夫婦だけだ」
どんな仕事を言いつけられているんだこの人は。チョモランマから見える雲海の写真が欲しいとでも母さんに言われたんだろうか。
それでも、時速百キロ以上で走ることができ、どんな環境でも生きていける体があれば、楽しい世界が見えそうだな。
「それ以来、私は自分の体、人生と言うものに自信を持てるようになった。青く美しい地球を、私が取り戻すのだと言う自負心がね。リリィ嬢に負けるまで、その気持ちがあったからこそ過酷な仕事も耐えることが出来た」
短くなった葉巻を掌で握って消火し、携帯灰皿に押し込む。そしてまた次の葉巻に火をつける。
一本ごと、微妙に香りが違う。
そのとき僕は、叔父さんの右腕切断面に奇妙な違和感を感じた。傷口はふさがって血も出ていない。
それはいい、叔父さんは色々と反則だから、傷くらいみるみるうちに治るんだろう。
問題は、その切り口でなにやら、ザワザワと動くものを目にしたことだ。
「あの日、私は完膚なきまでに負けて、あろうことか彼女の背に負われて帰ることになった。姉さんが化学者人生の粋を凝らして作り上げた世界最強の私が、だ。それもひとえに、私の心が弱いゆえに招いた敗北だ」
お構いなしに話を続ける叔父さん。僕の意識は耳よりも目に集中し、うごめくものの正体を見極めた。
手だ。今度こそ本当に、人間の手が再生してきた。
安心するべきポイントなんだろうけど、むしろ僕の心は極端に不安定になった。
なぜならものすごく小さい、白くて可愛い手が、叔父さんの右腕から何百本と生えてきたのだ。
そんなに生えるな、気持ち悪い!
「私が持っていた自信や誇りは、単なる傲慢でしかなかった。心に油断や隙を生むそれらは、生きるうえで弱さでしかない。改造される前の私は、そんなことは当たり前に分かっていた。強くなったと浮かれていた私は、そんな単純なことも分からなかった」
ごめんなさい叔父さん。ぜんぜん聞いてません。
僕の目は、腕に生えてしきりに動く、小さい手の群れに釘付けだ。
小さな手は僕が見ている間に、少しずつ大きく成長している。それにしたがって、一本が自由に動ける面積は小さくなる。
腕の切断面は人口過密の難民キャンプさながらだ。
大きくなって、動きに窮屈を感じた彼ら(?)は、互いに互いを攻撃し始めた。
押したり殴ったりつねったりと様々だ。
「彼女はそんな私の弱さを見抜き、うわべだけの強さを根本からへし折ってくれた。心が弱くては騎士も紳士もあったものではないことを思い知らされたよ」
あっ、と僕は声を出しそうになった。
生えてきた手の一本が、他の手に引きちぎられて地面に落ちてしまったのだ。
他にも攻撃の応酬がエスカレートして、プチプチと音を立ててちぎれ落ちて行く手が何本も出てきた。
ここは俺の居場所だ、他の手は出て行きやがれ、そんな生存競争を見ているような気分になる。
「アキラくん、私はね、あの日あのときの弱い自分を清算したい。人間らしく謙虚に、そして何ごとにも動じない紳士を目指して生きていた、若き日の自分に償いたいのだ」
最後の勝者が決まり、とうとう叔父さんの腕に残った手は一本になった。いや、筋としてはそれが正しいのだろうけど、その過程がすさまじすぎる。
生物同士の生き残りが競争なら、体の細胞一つ一つもまさに戦っている。そんな壮大なメッセージすら感じた僕は、心が震えて呆然としてしまった。
「長く話しすぎてしまったな。わけのわからない話で退屈だったろう? そろそろ失礼させてもらうよ。アキラくんも、冷えるといけないから早く帰りなさい」
叔父さんの話は半分も聞いていなかった僕だが、退屈はしなかった。
一本だけ生き残り、悠々と育っていく叔父さんの手を見て、なんだかありがたい気分になった。
自分の体も、細胞一つ一つまでもが、生きるために戦っているんだ。
そう思うと、生命全体への深い慈しみや愛情を持てそうだ。
「いやあ、なんて言うのかな。とにかく感動しました。気をつけて帰ってくださいね」
「うむ。君がウイスキーを飲める程度に大人になった頃、この続きを肴にゆっくりと飲み明かしたいものだ」
ビートルズを鼻で歌いながら、アルバート叔父さんはベイサイドへ帰って行った。
「ああそれとな、アルゼンチンのサッカー選手には、国際大会の大事な試合、ハンドでゴールを決めた奴がいる。それが審判にばれなかったからと、恥知らずにも英雄扱いされてイイ気になっているような男だ。応援するならやはりイングランドだよ」
去り際にそんなことを言い残していた。詳しいことはあとで調べてみよう。
過去の試合映像に対して、応援も何もないけどね。
冬の陽が駆け足で落ちてゆき、山々を薄い橙色に染めはじめる。
叔父さんも、叔父さんの腕も、がんばれ。
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