一。朝のリリィ。
今日はとても天気が良い。僕が住んでいるのは、かつて日本と呼ばれた国。
武州多摩という地名が我が家の住所だ。
武州多摩には僕とリリィしか住んでいない。要するにド田舎だ。
二月はまだまだ寒いけど、このあたりの冬は湿度が低く雨も少ないので、雲ひとつない青空が毎日のように続く。
「散歩をしてお腹をすかせれば、その後の食事やお風呂がいっそう楽しくなりますよ。眠っていた心身も引き締まりますし」
リリィでもまともなことを言う時がある。いつもそうだと嬉しいんだけど。
と言うわけで、僕は勧められるままに朝の散歩を楽しんでいる。人っ子一人いない丘陵と森林の散策だ。
樹木の葉は落ちているし、獣たちも冬眠から覚めていないのか、あまり見かけない。さっきタヌキを見たかな。
風と小鳥の多重奏。遠くの山々にかかる白い雪。どこまでも続く青い空と真っ白く光る太陽。
それを見て歩いているだけで充分気持ちが良い。
ニ百年ちょっと前、二十一世紀のはじめ頃までは、この辺りは人間が何百万人も住む大都市だったと言うのが嘘みたいだ。
草原の代わりにアスファルトが敷かれ、コンクリート建築の林が立ち並ぶ。
その隙間を、鉄の体と化学樹脂の足を持った交通機械が列をなして疾走していたらしい。
それはそれで見てみたい気もするけど、あまり人間がたくさんいるのも疲れそうだ。
リリィ一人を相手してるだけで、正直いっぱいいっぱいなのに。
もっとも、リリィは人間じゃなくロボットだけど。
情報端末で検索すれば、その時代の文化や習慣が表面的にだけど、あるていど分かる。
リリィがメイドさん仕様なのも、きっと古い時代にできた価値観の名残なんだろう。
周囲を一望できる丘の上に立ち、つれづれにそんなことを考えて僕は散歩を切り上げた。
「ただいまー。晴れてたから富士山が見えたよ」
大自然の中に、場違いに建っている武家屋敷の自宅へ帰ると、リリィが門の前で出迎えてくれた。
頭にフリルカチューシャを載せ、長袖ロングスカートの黒いワンピース、それに白いエプロンドレスが組み合わさった、まごうことなきメイド服を着ている。
ただ、僕の帰りが遅かったから暇をもてあましていたのだろうか。鶏の卵を四つも使ってお手玉遊びをしている。
せっかくの駆動制御能力をそんなバカなことに使わないで欲しいなあ。
リリィの躯体改造にどれだけのお金がかかってると思ってるんだ。
「お帰りなさいませご主人様。富士山が見えましたか? いつも端末ばかり見てるのに、アキラは目がいいんですね」
野生動物以上の視力や動体視力を誇るリリィに言われてもあまり嬉しくない。
僕の健康管理なんかも、リリィの仕事なのは理解してるけどね。
「リリィ、お前それ、どう見たって主人を出迎える態度じゃないだろ。お帰りなさいませご主人様、って言えばいいってもんじゃないぞ」
「まあまあ、堅いことは言いっこなしですよ。お仕事に抜かりはありませんから。ご飯にします? それとも、先にお風呂にしますか?」
「丘に登って汗かいたし、寒かったからお風呂に入りたいな。ご飯は何?」
「おにぎり、野菜の煮物、あとはワカメのお味噌汁です。食後のデザートには、ピチピチのメイドを召し上がっていただきま」
「なすびの漬物も出しておいてよ」
後半部分のタワゴトをスルーして、僕はお風呂に入ることにした。
今まで着ていたダウンジャケットを、自分の部屋に放り投げる。
過去の映画を見ると、主人が外出から帰ってきたとき、メイドに上着を預けるシーンがあったりする。だけど僕はそこまでしたくない。
それは衣服の脱着に関して、リリィを僕の体に近づけたくないからだ。
理由は目覚めの一件でも分かっていただけると思う。
脱衣所にしっかりと鍵をかけ、僕は服を脱いでお風呂場へ入った。
石畳とヒノキの浴槽という、純日本風の浴室は暖かい湯気が立ち込めていた。
家の大部分が、何百年も前の日本式建築で占められているのは、ここを建てた僕の母さんの趣味だ。母さんは和風レトロ好きなのだ。
父さんも母さんも仕事が忙しくてここには住んでない。僕も仕事を始めたら多摩から離れることになるのかな。
この家も、周りの山々も大好きなんだけど。大人になるって憂鬱だ。
寒い朝の暖かいお風呂は何にも勝る快楽。
これがドジっ子ロボメイドの手にかかると、浴槽がマグマのように煮えたぎっているだろうけど。
リリィはこういう仕事でヘマをしたことがない。気温や僕の体調に合わせて、絶妙にお湯の温度を調節してくれてるのがわかる。
朝ごはんもきっといつも通り美味しいんだろう。リリィが来てから僕の肉嫌いが直ったし、なにより体が引き締まって丈夫になった気がする。
……リリィが僕の裸を凝視して楽しむために、僕を健康体に成長させている、という考えは持たないでおこう。
「リリィのエロ暴走が、なんだか年々、強力になってる気がするなあ。ロボットにも欲求不満とかあるのかな」
頭を洗った水が目に入りかけたので、僕は目を閉じたままヘチマや桶を引き寄せようと手を伸ばす。
そのとき、お風呂場にこんなものあったかな、と疑問を持つような、やわらかくて弾力のある感触を手のひらに感じた。
「んん、なんだこれ。リリィがお風呂のスポンジを新しいものに変えたのか?」
「あん……。アキラってば、いきなりそんなところ触るなんてせっかちですね。最初は肩や背中とか首筋を優しく、ですよ?」
薄目を開けると、僕の手に体を揉みしだかれ、アホなことを言ってるリリィがそこにいた。
「おい! どうやって入ったんだよ! ちゃんと鍵はかけたはずだぞ!」
「私がお風呂に入ってたのに、後から来たのはアキラじゃないですか。そんなに我慢できなかったんですね。言ってくれればいいのに」
こいつ、先回りして湯気の中に忍び込んでやがったな。もっとも、リリィがその気になれば鍵を無音で開けることなんて造作もないけど。
むろん、主人のプライベートキーを無断で開けるようなメイドロボは即刻スクラップ送りだ。
だからって先回りして忍び込んでまで、こんな意味不明の嫌がらせをするな。
「せっかく一緒に入ってるんですから、洗いっこしましょうよ、アキラ。もちろん、お互い向き合って……ハァハァ」
「お前の体を洗う意味なんかないだろ。新陳代謝しないからアカもフケもないじゃないか」
「アキラが散歩に行っている間、お庭の掃除をしてホコリをかぶっちゃいました。ルックス五パーセント低下ですよ。アキラ、洗浄してください」
何を基準に低下と言ってるのか、さっぱり意味が分からない。
結局、僕はリリィの頭にお湯をかけて浴室から追い出し、落ち着かない気分のまま体を洗って、貴重なお風呂タイムを終えた。
せめてお風呂くらいゆっくり入らせてくれよな。情報端末で昔の映像をあさるのと同様、僕の数少ない楽しみなんだから。
「アキラはいつもお風呂が長すぎます。一日に四回も入るときまであるじゃないですか。いくらなんでも体に悪いですよ?」
リリィが作ってくれた鮭おにぎりをほおばりながら、僕はそんな小言を聞かされるハメになった。
「でも、冬は寒いから温まりたいんだよ。この後も外で運動だろ? また汗をかくじゃないか」
リリィは僕の運動不足を懸念してか、暇があれば外で体を動かせと指図する。
放置されると、僕は一日中でも端末の画面にへばりついて画像あさりをしちゃうから。映画なんて見始めたら石のように動かない。
「冬の間、端末遊びは一日一時間」
なんてことをリリィが言い出したとき、本気でスクラップ送りにしようかと思った。
父さんに連絡したときは、笑って相手にされなかったけど。
父さんは完全にリリィの味方だから仕方ない。
「外が寒いなら、お部屋の中で私と運動しましょう。気持ちのよい汗とか色んなものをいっぱい出しましょうね。まずは服を脱いで……。あ、全部脱がなくても、前をはだけるだけで」
「ごちそうさま。庭で遊んでるよ」
一人で勝手に服を脱ぎだしたリリィを置き去りにして、僕はサッカーボール片手に庭へ飛び出した。
外で遊ぶ時はたいがい、サッカーの練習をしている。一人でもできるし、道具も少なくて済むからだ。
ルールとか基本の技術は、過去の映像を見よう見まねでなんとか覚えた。
ボールはリリィの手作りだ。器用にも程がある。
なんだか、リリィのエロ嫌がらせに上手く操られてる気がするなあ。
朝も早く起きてる。長風呂や動画あさりも減った。何より外にいるほうが落ち着く。
家の中だと、いつリリィのセクハラ攻撃を食らうかと気が気じゃない。
冬、外に出てさえいれば、リリィが僕の服を脱がせたりということは、とりあえずない。
これが夏だとどうなるんだろう。今から不安だ。
いまいち集中しきれないまま、リフティング五十回達成の目標にたどり着けず、何度もボールを落とす僕。
日も高くなり、気温も少しは暖かくなってきた。先週は雪が降って寒かったのにな。
そのせいか、動いていると汗がじんわりとにじみ出てくる。
門のところまで転がってしまったボールを追いかけたとき、そこに見慣れた人が立っているのに僕は気付いた。
その人はつま先で器用にボールを蹴り上げる。
リリィお手製の逸品を手に持ってしげしげと眺め、低めの良く通る声で話し始めた。
「サッカーはいい。英国が生み出した文化の極みだな。そう思わないかアキラくん」
「こんにちは、アルバート叔父さん」
母さんの弟で僕の叔父にあたる、アルバート叔父さんが遊びに来てくれたのだ。
母さんと叔父さんの血筋をたどれば、イングランドと日本の混血系に行きつくらしい。
そのせいか、叔父さんは母さんとは逆にレトロ英国趣味なのだ。
サッカーは英国発祥だから詳しいかもしれない。今度教えてもらおう。
叔父さんはいつもどおり、襟の大きい濃紺のスーツをビシっと着こなしている。
もみあげから顎につながっているヒゲも、男らしくてかっこいい。
「アキラくん、大きくなったな。もう十八歳だったか」
「叔父さん、その話は先週もしたよね」
「親族同士が再会したときに行われる、他愛ない世間話だ。常套句と言ってもいい。何事にもセオリーと言うものがあるのだよ」
叔父さんは笑いながら葉巻を取り出し、ダンヒルのライターで火をつけた。
バナナみたいな甘い香りがふわっと広がる。
僕の住む多摩丘陵を越えて西へ行った海辺に、アルバート叔父さんは一人で住んでいる。
昔の地名で言うと、武蔵の国とか横浜とかいう地域だったはずだ。
叔父さんが住居登録をする時には「オリエンタルベイサイド」って名前で届出をした。
多摩からベイサイドまでの間には、他に人間が住んでいない。だから一応、お隣さんということになる。
東京、横浜という街があった時代は、この辺り一帯は世界でも有数の人口過密都市圏だったそうだ。
僕の足では、ちょっと歩いて行ける距離ではないと思う。
それでも叔父さんなら、本気で走れば五分くらいだと言ってた。
単なる英国かぶれの中年男に見えるアルバート叔父さん。
その正体は生命科学の最高技術を、その体に嫌と言うほどぶち込まれた、おそらく人類最強の改造人間なのだ。
ちなみに改造したのは僕の母さん。最初の改造手術後、叔父さんは本気で自殺を考えたらしい。怖い話だ。
「それではアキラくん、私が来た用件はわかっているだろう。毎度の事で申し訳ないが、今日も人質になってくれるかね」
「いいですよ。でも叔父さんも大変ですね。いくら母さんの命令、いや頼みだからって」
僕がそう言うと、叔父さんは思いつめるように、葉巻の煙を大量に吐き出した。目に見えるため息だ。
「古来より今まで弟と言う存在は、姉に対してかくも無力なものなのだよ……」
兄も姉もいない僕にはわからないけど、叔父さんを見ているとわからなくてもいいような気がした。
僕と叔父さんはサッカーの話題に花を咲かせながら、丘をひとつ越えた平野まで歩いた。
僕がアルゼンチンの選手ばかり誉めていたら、あまりいい顔をしなかったけど。なぜだろう?
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