第3話
失態に気づいた時には遅かった。風は瞬く間に小型の竜巻と化し、調度品を巻きこみながら勢いを増していく。天井のシャンデリアは激しく煽られ、ガラスが擦れあう耳障りな音を奏でた。
このままでは駄目だと分かっているのに、どうすればいいのか頭が働かず、逃げようにも足が竦んで立ち上がれない。正面にいたヴェルニアも風が直撃してしまったはずで、渦の中に捕らわれている最悪の想像がよぎる。とにかく風を止めなければ、と必死に念じた直後、雷が落ちたような音とともに竜巻は内側から弾けて消えた。
「ナギカさま!」
凄まじい音を聞きつけたのだろう。部屋の扉が勢いよく開き、人影が二つ飛びこんでくるのがもうもうと漂う埃の奥に見えた。咳きこんだのちに甲高い悲鳴を上げたのはそのうちの一つ、ナギカと同じ年頃の少女だ。丁寧に巻かれていたはずの長い金髪は激しく乱れ、細く薄い手に覆われた口からは「なんてこと」と動揺がこぼれ続ける。
無理もない。壁には真っ二つになった机がめりこみ、高級感あふれていた絨毯は方々から引っ張られて無残に引きちぎられたようなあり様なのだから。
「ご無事ですか、ナギカさま」視線に気づいたのか、少女はドレスが汚れるのも構わずに机があった場所に膝をつき、おろおろと肩を揺すってきた。そばかすが散る卵型の顔は色白を通り越してもはや青い。「なにかが爆発したような音がしましたけれどなんでしたの? まさか部屋に爆発物か仕掛けられていたとか……いけませんわ、早く安全な場所に避難しなくては。ああでも、他の部屋にもなにか罠が張られていたら……」
「大丈夫だから、落ち着いてビアナ」
自分よりも慌てている誰かが目の前にいると、かえって冷静になれる。ナギカは少女の名を呼んで肩を撫でてやりながら、無事を証明するように笑ってみせた。ビアナはくるりと反ったまつ毛の下で橙色の瞳を不安に染めていたが、やがて全身から力を抜いて床にへたりこむ。
「心配させちゃってごめんなさい。怪我だって、ほら、どこにもないから安心して」
「でしたら良かったですわ……わたくしはナギカさまがまた狙われたのではないかと恐ろしくて……。お部屋もこんな状態ですし、一体なにが起こりましたの?」
「殿下が
はあ、とため息を交えて答えたのはヴェルニアだ。彼は竜巻が発生する前と寸分違わない姿勢と表情で、蜘蛛の糸を絡めとるように指を振るう。途端、土から草を引っこ抜くように机が壁から外れ、宙を舞いながら割れた箇所同士をぴったり合わせて音もなく床に下ろされる。その時には机も絨毯も、元の美しさを取り戻していた。
「最後の最後で気を抜いたでしょう。溢れ出すままに力を解放するのではなく『神力を抑える』想像も必要不可欠なのはご存知ですよね」
冷然とした指摘に「忘れてたわけじゃないのよ」と言い返しかけて、その通りに出来なかった現実を思い出し「ごめんなさい」と素直に非を認めた。
「力をちゃんと使えたのが嬉しかったの。成長してるかもって油断したのがいけなかったのね。そよ風を起こすつもりだったのに、思ってた以上に神力を強く出しちゃったんだわ。消そうとはしたんだけど、慌てるばっかりで竜巻が消えるところをちゃんと想像できなかった」
「反省点を承知しているのであれば結構。俺も一つ謝罪しなければなりません」
「お兄さまが? なにを?」
「殿下の混乱を察しながら、ご自分で竜巻を消せる可能性を考慮して様子見をしてしまいました。すぐに止めるべきでした、申し訳ありません」
「そんな、いいのよ。お兄さまは悪くないわ」
最終的に竜巻を消してくれたのもヴェルニアだろう。彼が止めてくれなければどうなっていたかを考えると背筋が寒くなる。
ナギカは自分の手のひらに目を落とし、開いて閉じてをくり返した。
小鳥たちの関係が恋仲だと語ったあと、ヴェルニアに想像力を褒められたというのに、肝心なところでそれが働かないのでは意味が無い。己の未熟さを痛感して悔しくなり、爪が食いこむほどに拳を強く握った。
「それにしてもお部屋がひどい状態ですわ。あとでお掃除をお願いしておきませんと。ナギカさまのお召し物も埃まみれですし、一度お着替えしましょう」
「そうする。そうだ、ビアナたちはずっと廊下で待っててくれたのよね。そっちはなにごともなかった?」
「ええ、特に異常はございません。だから余計に驚きましたの! 物音がしてすぐに部屋に入ろうとしたんですけれど、扉がびくともしなくて。エクトルなんか剣で扉を叩き壊そうとしていましたのよ」
「そうだったの?」
ナギカが驚いていると、ヴェルニアの背後に控えていた軍服姿の青年――エクトルが無言でうなずく。後ろに撫でつけられたシナモン色の髪や、顕わになった額の下の太い眉、髪と同じ色の三白眼は生真面目な性格を象徴するようにきりりと引き締まっていた。
「体当たりも試してみたのですが歯が立たず、緊急事態と判断して剣を抜こうとしました」
抜いた、ではなく、抜こうとした、ということは、実行に移す前に竜巻が消え、風圧による障害が無くなって扉が開いたようだ。木の幹にも似た体格で何度も扉にぶつかり続けていたとなると、ひょっとすると一部が凹んでいるかも知れない。どっしりと低く重みのある声でそれを謝罪してから、「しかし」とエクトルはヴェルニアに歩み寄って軽蔑が滲む眼差しで睨みつけた。
「ヴェルニア殿。貴殿は先ほど『様子見をしてしまった』と仰っていましたが、その結果、重大な被害が出ていたらどうするつもりだったのですか。今回はナギカさまにお怪我もなく、被害も今のところこの一室のみと考えて良さそうですが、それは運が良かっただけでは? ガラスもいくつか破損が見受けられますし、万が一シャンデリアが落下していたら軽傷では済まなかったでしょう。我々も室内で待機していれば巻き添えを食らっていたはずです。他の部屋や外にも影響が及べば被害はより深刻になるとは考えなかったのですか」
「もちろん頭にありました。ですからそうならないよう、対策もじゅうぶんしております」
「対策していたとしても危険です。ナギカさまが混乱していると察していたのであれば、なおのこと様子見をしている場合ではなかったのでは」
肌の表面がぴりぴりと痺れるような、剣呑さを孕んだ空気が二人の間に漂う。口を挟むのも躊躇われる時間が十秒近く続き、「エクトルさまの危惧はもっともですね、申し訳ありません」とヴェルニアが頭を下げたことで、エクトルもひとまず納得したのかそれ以上は苦言を呈さなかった。
「ひとまず今日の訓練はここまでに致しましょう。殿下、お体に不調はございませんか」
「特になさそうだわ。指が痺れたりもしてない」
神力は無限に使えるわけではなく、体に流れるぶんを使い切ってしまうと回復するまでの期間、心身に様々な支障をきたす。立ち眩みや吐き気だったり、幻覚や幻聴に襲われたり、異常な眠気に逆らえなかったりと個人差はあるが、ナギカの場合は指先の痺れが全身に広がる傾向があった。
今日は休憩前と後とで合わせて三時間ほど訓練していたが、調子は悪いどころか普段より良い気がした。
「だからもう少しだけ訓練出来たらなって思うのだけど」
「無理はいけません。あれだけの竜巻を発生させたのですから、それなりに神力を消費している恐れもあります。神力切れの症状が遅れて出る場合もありますので、今日は激しい運動などなさいませんようお気を付けください」
「……分かった。お兄さまは今からどうするの?」
「俺はいったん部屋を片付けます。まだ壁とシャンデリアの修復が済んでいませんし、他にも破損しているところが無いか確認しなくては」
「じゃあ私、そのお手伝いがしたいわ」
部屋を損壊させた責任は自分にある。やるだけやってあとは放置なんて、整理整頓を知らない子どものようで居心地が悪い。勇んで申し出たナギカに、ヴェルニアはゆるゆると頭を振った。
「破片で手を傷つけては危険です。お気持ちだけありがたく頂戴いたしますので、ここは俺にお任せください」
「でも……」
「ビアナさま、殿下をお願いできますか」
「かしこまりました」
行きましょう、とビアナに背中を擦って促され、ナギカは渋々立ち上がった。エクトルも扉を開け、退室の準備を整えてくれている。
重い足取りで廊下に出つつ振り返れば、扉が閉まる隙間から、指を振って修復に勤しむヴェルニアが窺える。ガラスの破片が天井に上る中で佇むその姿は、日差しを浴びる朝露のごとく流麗に煌めいていた。
自分に神力が流れている、とナギカが知ったのは三年前、十四歳の秋だった。
その頃のナギカは王都の郊外にある学校の生徒だった。高祖父の代までは王宮に家庭教師を招いていたそうだが、曾祖父が王立学校を新設したのをきっかけに王族の子どももそこで歴史や伝統、礼儀を学ぶ方針になり、ナギカも国王夫妻の一人娘として十歳を迎える年にその敷地を踏んだのである。
緊張しながら門をくぐれば、王宮には及ばないにしても広大な敷地といくつもの建物が目に入って息をのんだ。手入れが行き届いた芝生や花壇に、小魚が泳ぐ広い池。学年ごとに分かれた校舎の間には真っ白な石畳が敷かれ、用途によって使い分けが為されるであろう庭も三つあった。厩舎や温室、礼拝堂も完備されているだけでなく、もとからあったという森の中には遠方から通う生徒のための寮が設けられるなど、どれだけの施設があるのか把握するのに半年以上かかった。
学校には国内外の有力貴族の子息や令嬢が通っていた。初めは誰もが不安そうに距離感を測りかねていたけれど、一週間もすれば空気に馴染んで親しい相手が出来始め、それはナギカも例外ではなかった。
父は諸事情でそこへ通った経験がなく、学校の雰囲気についてはほとんど伯父――ヴェルニアの父――が事前に教えてくれた。同年代の子どもたちと朝から夕方まで過ごした経験が皆無に等しかったナギカにとって、学友たちと受ける授業や行事など、どれも話で聞いた以上に楽しく、充実していたと断言出来る。
だが学年が上がってすぐの頃、学校でいつも通り過ごしていたナギカのもとにある報せがもたらされた。
当時、ナギカの身の回りの世話をしてくれていた侍女が亡くなったのだ。
事故だったという。高所から転落して全身を強く打ちつけ、発見された時にはすでに息絶えていたそうだ。報せを受けたナギカは急いで王宮に戻ったけれど、遺体の状態がひどいからと侍女の顔を見ることは叶わず、飾り気のない質素な棺に縋りついて
さらに埋葬の前日、遺体を安置していた侍女の家から火の手が上がった。消火活動も虚しく炎は黒煙を生み出し続け、やっと勢いが衰えた時には全てが炭になり果て、侍女の骨は一片も残らなかった。
――さっきみたいな竜巻を起こしたのって、あの火事以来じゃないかしら。
ナギカは
「どうしましたの、ため息なんてナギカさまらしくない」
対面の椅子に腰を下ろしながらビアナが首を傾げる。胸には本を数冊抱え、自分の手元に一冊だけ残してあとは全てナギカの前に積まれた。いずれも今読み進めていた物語の続きだ。
気分転換がてら、ナギカはビアナを伴って図書館に訪れていた。王族の住居と回廊でつながったそこには古今東西の膨大な書籍が保管されており、天井ほどの高さがある本棚が一階から三階まで森のように並んでいる。各階の窓際には読書用の椅子と机が用意され、どこに座るかはその日の気分次第だ。今日はなんとなく二階にした。
明らかに浮かない様子のナギカに、ビアナは心配そうな眼差しを向けてくる。
「本がお気に召しませんでしたかしら。申し訳ありません、すぐに別のものを取ってまいりますわ」
「あ、待って違うの。本はすごく面白いの! ただその、ちょっと思い出しちゃっただけ。前に竜巻を出しちゃった時も、今日みたいに部屋の中だったなあって」
「前に……ああ、学校に通われていた頃ですか」
そう、となるべく明るく答えるつもりだったのに、いざ発した声は思っていた以上に低い。
侍女の死と火事はナギカに衝撃を与えた。彼女との関係はヴェルニアと会う以前から続いていたものであり、そばにいて当たり前だった人物を
王宮には彼女の存在を感じさせる品々がいくつか残っていた。ともにお茶の時間を楽しんだティーカップ、幼少期に何度も読み聞かせてくれた本、「ナギカさまに似合うと思って」と誕生日に送ってくれた髪飾り。侍女の生きていた名残がそこかしこにあるだけに、ナギカは凍える真冬に上着無しで外に放りだされたような心細さに苦しんだ。
けれど日常は続き、学校にも通わなければならない。落ちこむナギカを励まそうと学友たちはあれこれ言葉をかけてくれたのだが。
「伯爵家の子に『また新たな侍女を呼べばいいじゃない』って言われたのよ。『おもちゃが壊れたんだったら、新しい物を買ってもらえば良いでしょう』って提案するみたいに。それで頭に血が昇っちゃって、なにか言い返そうとした時には、教室の中で竜巻がぐるぐる回ってたの」
「無意識に力を使ってしまっていた、ということですの?」
「多分。でもあの時は私に神力が流れてるなんて誰も――私自身も知らなかったから、ただただ逃げ回るしかなかった」
竜巻の勢いは衰えることなく、教室を飛び出し校舎を破損させながら大きくなるばかりで、教師も生徒も避難に必死だった。そこかしこから悲鳴や怒号が響き、負傷者も時間を追うごとに増えていく。
竜巻は発生から二時間後に消えた。事態を聞いて駆けつけた宮廷魔術師――ヴェルニアの母が消してくれたのだ。彼女は疲弊したナギカを見つけてすぐ、なにが起こったのか悟ったようだった。
「私に神力が流れてるって分かってから、なるべく王宮の外に出るなって父上に厳しく言われたわ。力がちゃんと制御できないとまた誰かを傷つけてしまうもの」
「それでヴェルニアさまがナギカさまに力の使い方を指導するようになったのですよね、そのあたりは聞いたことがありますわ」
神力の指導は魔術師以外に務まらないが、エストレージャ王国内にいる魔術師はヴェルニアの母の実家である〝ゼクスト家〟のみだ。その中で神力の扱いに長けた人物は片手で数えられるほどで、特にヴェルニアは母に優るとも劣らない能力を有していると囁かれていた。ナギカと面識がある上に歳も多少近いとなれば、彼が指導役に抜擢されるのは当然の流れであった。
「お兄さまのおかげで神力は制御出来るようになってきたけれど……今日だって途中まで上手くいっていたのに、あとちょっとのところで油断したわ」
「ですが成長はなさっているのではなくて? 部屋は確かにめちゃくちゃでしたが、他に被害は出ていませんでしたもの」
「違うのよ。お兄さまは『防御の術を張っている』って言っていたから、万が一さっきみたいに暴走しても被害を出さないための対策をしていたんだと思う。それが無かったら学校と同じことが起きてたはずだわ。あーもう、お兄さまがあんな顔するからいけないのよ」
顔ですか、とビアナが不思議そうに目を瞬く。ナギカは己の頬を人差し指でつつき、唇が少しだけ引きつるように押し上げた。
「こんな感じで笑ってたの」
「……それは本当に笑ってますの? 見間違いではなく?」
「笑ってたわよ、絶対にそう。ちょっと嬉しそうにも見えたもの」
「ヴェルニアさまの笑顔なんて……まったく想像できませんけれど、でもあのお顔で微笑むとなれば、さぞ麗しいのでしょうねぇ」
「それはもう! 普段が仏頂面なぶん、笑顔の破壊力って凄まじいのよ。だから余計に『うわーかっこいい』って驚いて、すぐあとに褒められたりしたからもっと気が抜けちゃって」
熱く語ってから、いや、とナギカは頬を軽く叩いて本に目を落とした。
「お兄さまのせいにしちゃいけないわ、神力を抑えきれなかった私が悪いんだから。もしまた竜巻を起こしても自分で消せるくらいの一人前にならなくちゃ、いつまで経っても『ナギカさまは成長しましたね』ってお兄さまに思ってもらえないわ。神力を使うには想像力が大事だって何度も教わってるし、まずはそれをもっと鍛えないと!」
「その意気ですわ、ナギカさま。わたくしも出来る限りお手伝いをいたします!」
「うんうん、さすが姫さんは張り切り方が
ビアナの声援に、飄々とした口調が続く。
声の質はヴェルニアによく似ているどころか、まるきり同じだ。机の脇では深い菫色のローブの裾が揺れ、それを纏う主が何者か察したナギカの唇が山の形に歪む。
「……なんの用かしら、ダンドリオン」
ゆるゆると顔を上げれば、こちらを見下ろしてニヤニヤと笑う白髪の男と視線がぶつかった。
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