第2話
エストレージャ王国にはかつて美麗な歌声を持つ王妃がいたという。小鳥に似たその声は夫や子どもたちだけでなく臣民にも愛され、人々はいつしか王宮のことを彼女の愛称にちなんで〝
「その王妃がいつも歌っていたのが『わがままな太陽の君へ』だそうよ。闇の神が夫である光の神にささげた愛の歌だって父上が教えてくれたわ」
開け放った出窓に頬杖をついて、ナギカは雲一つない青空を飛び回る二羽の茶色い小鳥を見つめた。
二羽は懸命に羽ばたきながら囀っている。話しているというより歌っているような雰囲気で楽しそうだ。二羽はどういった関係なのだろう、友だちか親子か、あるいは。
「分かった! あの子たちは恋人同士ね、父上と母上みたいにすっごく仲良さそうだもの」
じっくり見れば顔の模様が少し違う。どちらも白っぽいけれど、片方は目を横切るように黒い線が入り、片方は喉と頬だけ黒い。恐らく雌雄の差だろうが、どちらがどちらかなのかナギカには判別出来なかった。
「きっと鳥たちの間でも王妃の歌がずっと受け継がれているんだわ。お互いに愛を囁いて、夜は体を寄せ合って眠るの。そして生まれた子どもたちに歌を聴かせて、それがまた次の世代につながっていくのね」
「殿下の想像力は大変豊かですね」
背後から低く落ち着いた声が聞こえ、ナギカは緩く波打つ黒髪を指先でいじりながらもじもじと振り返る。
窓から入る日差しによって、白亜の壁と天井、珊瑚色の絨毯、レモン色の家具一式と、淡い色合いで統一された室内は明るい。その中で光が少し届かず陰になった一画に、宮廷魔術師の証である深い菫色のローブを纏った黒髪の青年が立っていた。
出窓の向かい側、部屋の入り口の脇にある暖炉にもたれかかり、彼は宝石のごとき真紅の瞳でこちらを見つめている。鋭くまっすぐな視線に頬がほわりと赤くなり、顔をそらす寸前でふと違和感を覚えた。
――なんだかいつもの仏頂面じゃなさそうだわ。
なにが引っかかるのかよく観察してひらめいた。口角が普段より上がっているのだ。小指の爪の先ほどの些細な差だが、ナギカには分かる。
――これはもう、今しかないんじゃないかしら。
考える間すら惜しい。窓から入りこんだ風にも背中を押され、ナギカはとんっと軽く床を蹴り、弾んだ足取りで青年に駆け寄った。しかしあと一歩のところで両足が突然床に縫いつけられたかのごとく硬直し、動けなくなってしまう。
「えっ、あっ、ちょっと!」予期していなかったせいで上半身が前後に傾ぎ、ナギカの瞳と色合いが似た若草色のドレスも大きく揺れる。倒れまいと腕を伸ばしてなんとかバランスを取ろうとするけれど、なかなか上手くいかない。「ひどいわ、駆け寄ろうとしただけなのに!」
「それは失礼いたしました。大きく腕を広げて近づいてこられましたので、てっきりなにか企みがあるものかと」
青年は感情の読み取れない声音で述べつつ、ナギカの腕を掴んで動きを止めてくれた。
もう、と唇を尖らせながら見上げた彼の顔は、一流の職人が精魂こめて作り上げた彫像のごとく整っていて麗しい。肌は卵のようにつるりと白く、アーモンド形の瞳に自分が映されていると思うだけで胸が瞬間的に高鳴った。彼の両耳からぶら下がるラベンダー色のピアスが光を受けてきらめくたび、ナギカの鼓動は早さを増していく。
はあ、と無意識のうちに吐息が漏れた。
「相変わらずかっこいいわ、お兄さま。大好き」
「そのお言葉、本日は四度目、今月に入ってからは十七回目でございますね」
青年は照れる様子もなく淡々と数えてすぐにナギカから手を放すと、音もなく横を通り過ぎていく。開けっ放しにしていた窓を閉めに向かったようで、体をひねってどうにか彼の背中を目で追おうとしたが、みし、と脇腹が軋んで叶わなかった。
「全く。不用心に窓を開けてはいけないと再三お伝えしているでしょう。防御の術が張ってあるとはいえ、警戒するに越したことはないんです」
「ごめんなさい、ちょっと外の空気が吸いたくなって、つい。というかあの、ねえ、お兄さま? そろそろ足を自由にしてほしいなって思うんだけど」
「申し訳ありません、俺は陛下から『ナギカが怠けないようしっかり教育しろ』と
「分かった、ちゃんと訓練するしお兄さまの言うことも聞くから!」
「本当に?」
「本当! 真面目にやります!」
必死の訴えが通じたのか、窓を閉める音がした直後にナギカは自由を取り戻した。
やれやれと乱れた髪を整えつつ、部屋の中央に置いてある椅子に腰を下ろす。今回こそ上手くいくと思ったのに、現実は厳しい。ふて腐れて背もたれに体を預けて天井を仰げば自然とため息がこぼれた。
「私はただ、あの小鳥たちみたいに寄り添えたらって思っただけなのに。お兄さまはいじわるだわ、そんなところも大好きだけど」
「殿下のお眼鏡に適い光栄にございます。畏れながら申し上げますが、あの小鳥は
「えっ、そうなの」
「色と大きさがよく似ているので間違われやすいですが、全く別の種類です。恐らく縄張り争いでもしていたんでしょう」
思い描いていた想像と正反対ではないか。喧嘩はいつの間にか終わったようで、窓の外では一羽ぶんの鳴き声だけが響いている。
ナギカは力なくテーブルに突っ伏し、むすっと頬を膨らませた。
「わざわざ夢を壊すようなこと言わなくたっていいじゃない」
「俺は事実を伝えたのみです。それにあの鳥たちを真似る、というのであれば、殿下は俺と言い争わなくてはなりませんが、それを望まれますか?」
「……そっちの方が嫌」
お分かりいただけたのなら良かったです、と青年が小さくうなずく。
――昔はもっと優しくしてくれた気がするのに。
ナギカはテーブルに頬をくっつけたまま、青年の顔を見上げた。
〝お兄さま〟ことヴェルニアとは物心つく前からの付き合いだ。〝兄〟と言っても実の兄ではなく、彼は父方の従兄である。ナギカはほとんど覚えていないが、子どもの頃に侍女と庭園で遊んでいて迷子になり、一人で泣いていたところをヴェルニアが見つけてくれたという。
それ以来、ナギカは七つ年上の彼を兄と慕うようになった。兄弟の存在に憧れていたことに加え、食事をしたり遊んだり、勉強を教えてくれたのが嬉しかったのだ。我がままを言って困らせたこともあるし、やんちゃをして怒られたこともある。悲しくて泣いた時には頭を撫でて慰めてくれ、優しい言葉とともに抱きしめてくれたことだってあった。彼との思い出は他にもたくさんあるが、いずれも色鮮やかに記憶に深く刻まれている。
だからこそ、現在の素っ気なさが物足りない。ヴェルニアとは三年前からほぼ毎日顔を合わせるようになったけれど、その頃から彼はナギカを名前ではなく「殿下」としか呼ばなくなり、話し方も子どもの頃と違って堅苦しくなった。
大人になったゆえの変化、と言われればそれまでかもしれないが。
――なんだか不思議だわ。言葉遣いが変わっただけで、お兄さまが遠いところにいるみたいな感じがするもの。こんなに近くにいるのに。
「さて殿下、そろそろ休憩は終わりにいたしましょう。お顔を上げてください」
間延びした返事をしながら素直に体を起こし、膝の上に両手を置いて背筋を正す。本音を言えばもう少し会話を楽しみたかったけれど、真面目にやると宣言した手前、反抗的な態度を取るわけにはいかなかった。
ふざけてばかりではなく、やれば出来るところもヴェルニアに見せなくては。意気込みながらテーブルの下でくるくると足首を回して、「そういえば」とナギカは首を傾げた。
「さっき足が動かなくなったのって、どうやったの」
「
「神力を使ってるだけでじゅうぶん特別じゃない」
はるか昔、神が人を作った際の名残だとされる不可思議な力――神力は誰もが持つものではなく、むしろ持っていない者の方が圧倒的に多い。ヴェルニアは神力を代々駆使する魔術師の家系に生まれており、同じ力を持つ母親とともに才能を存分に活かしながら宮廷に仕えている。
ナギカの言葉に彼は「なにを仰いますか」とかすかに眉を寄せ、肩を軽くすくめた。
「殿下も俺と同じ力をお持ちでしょう。その気になればあの程度の拘束、簡単に解除出来ていたかと」
「そう、かもしれないけど!」
ヴェルニアが指摘した通り、ナギカの体には神力が流れている。家系によって流れる神力の質や扱える術の傾向に変化があると教わっているが、ナギカとヴェルニアのそれはよく似ているどころかほとんど同じらしい。
しかし自在に扱えるかどうかは別の話だ。
「お兄さまみたいに子どもの頃から力の使い方を習ってきたわけじゃないもの。うっかり加減を間違えて自分の足ごと傷つけちゃったら大怪我しそうだし」
「ですから俺が教えているんでしょう、殿下が危惧した通りのことが起きないように。せっかくですから試してみましょうか」
「試してみる? なにを?」
ナギカの問いに答えるより先に、ヴェルニアがテーブルの上に右手を乗せる。その刹那、彼の手から肘までが赤く輝く淡い光に覆われた。蛍が無数に集まったような光の幕の向こうから、しなやかな指と、中指と小指にはめられたアメジストの指輪がうっすら透けている。
「先ほど殿下に施した拘束を可視化したものです。殿下にはこれを今から解除していただきます」
「え、でもどうやって?」
「神力は『力を使った時になにが起こるのか』を頭の中で明確に想像して、いかに発現させるのかが重要です。殿下が『拘束を打ち消したい』と具体的に考えれば、神力は
ヴェルニアが空いた片手で拘束されている方の手首を指さす。このあたりを掴め、ということか。ナギカは身を乗り出して恐る恐るそこを両手で包むように掴み、深呼吸を二、三度くり返して緊張を吐き出してから手のひらに意識を集中させた。
熟練の魔術師であればただ立っているだけでもあらゆる術を使えるそうだが、その域に至るには何十年もの歳月がかかると聞かされた。神力は手のひらから放出されていると考えるのが一番扱いやすいそうで、魔術師のほとんどは術を使う際には必ず手を使うらしく、ナギカもその方法で力の操作を学んでいる。
赤い光は時おり立ちのぼる泡のように一部だけふわふわと浮遊して、音も立てずに弾けて消える。欠けた箇所は瞬きの合間に補修され、それが何度もくり返されている。光はヴェルニアに触れている場所からナギカにも伝ってくるけれど、肘のあたりに辿り着くまでに薄くなって消えるため、こちらまで拘束される恐れは無さそうだ。
――『拘束を打ち消したい』と具体的に考えるってお兄さまは言っていたけれど、意外に難しいわ。
光には感触どころか温度も香りも無い。本来は色も無いはずだが、それではどのように力が働いているかナギカが理解しきれないと判断して、ヴェルニアはわざわざ赤く光らせているのだろう。
――糸とか蔓みたいな形だったら、
なにかしら名案が思いつくのを期待して、意味もなく天井や床を見やって唸る。
最後に左側の壁に顔を向けて、ナギカは目を瞬いた。
そこには数分前にヴェルニアがもたれかかっていた暖炉がある。季節は夏から秋に移り変わる狭間にあり、当然ながらまだ薪はくべられていない。
――……揺れる赤い光……。
――なんだかこの光って、ちょっと炎に似ている気がする。
視界の端で光の泡が弾けた。それに引き寄せられるように手元に視線を戻せば、淡い揺らめきがますます炎に似て見える。
では炎はどうすれば消えるか。暖炉であれば自然に消えるのを待つことがほとんどだが、火事が発生した際など大急ぎで消したい時は水をかければよく、ロウソクに灯されたものであれば息を吹きかければそれで済む。
――それなら!
ナギカは両手により強く力をこめた。全身に巡る神力が全て手のひらに集まり、風となって飛び出しながら光を散らすさまを想像する。
ふわ、と前髪が揺れるのと同時に風を感じた。窓はヴェルニアによって閉じられたため、外からのものではない。
扇でゆったり仰いでいるようなそよ風は、確実にナギカの手元から発されていた。
「! お兄さまっ」
抑えた声でヴェルニアを呼べば、彼は「まだですよ」と首を横に振る。
そうだ、まだ風を起こせただけで拘束は消えていない。ナギカは咳払いをして散りかけた集中力を呼び戻した。
風は少しずつ、けれど着実に効果を発揮しているようで、立ちのぼる光が時間を追うごとに増えていく。光の幕はいつの間にか肘から手首まで範囲を狭め、拘束を解除するまであと一息なのは明白だ。
風の勢いを増そうと手首を掴む力を強めて、ナギカはヴェルニアの様子を窺った。
――あ。
彼も拘束の解除が間近なことを察しているのだろう。光に目を落としたまま微動だにせず、ナギカが顔を上げたことに気づいた様子もない。
その唇は、柔らかくしなる弓のような弧を描いていた。
角度のせいでそう見えるのかと思ったけれど間違いない。長いまつ毛の下の瞳は慈しみに満ち、きりりと引き締まりがちな眉からも明らかに力が抜けて眉尻が下がっている。
子どもの頃から何度見ても飽きたことのない、ヴェルニア本来の穏和な表情がそこにあった。
「殿下。……殿下?」
「へぁっ」声をかけられたのと、とんとんとテーブルが振動した音でナギカは我に返った。「な、なに?」
「終わりましたよ」
どこかぼうっとしたまま、ナギカは掴んだままだったヴェルニアの手首から手を放した。拘束の残滓はどこにも見当たらず、彼は解放された手の感覚を確かめるように指を動かしていた。
「終わった……終わった?」
何度か呟きをくり返すうちに、ようやく実感がわいてきた。ナギカは自分の両手をまじまじと見ながら「終わった!」と歓喜の声を上げた。
「出来たわ! 私ちゃんと神力を使えたのね! ねえ見た? お兄さまの拘束をぜーんぶ消せたの!」
「ええ、よく頑張りましたね。集中力もお見事でした」
褒められて嬉しくないわけがない。部屋中を飛び回りたくなったのを堪える代わりに、腹の底からあふれ出す喜びのままナギカは絨毯を踏み鳴らした。
「光が炎みたいに見えたから、初めは水をかけて消すのと、風を吹きかけるかで悩んだの。でも水だと加減が難しいし、失敗したら部屋が水浸しになっちゃうでしょう? だから風の方にしたの」
こんな風に、と胸を張って、ナギカはヴェルニアに両手を向ける。
その動きに合わせるように、白く渦を巻く風の塊が机を弾き飛ばすほどの勢いで手のひらから放出された。
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