第4話
右手に携えた杖に寄りかかる彼の背格好は、ヴェルニアとほとんど同じだ。中性的で滑らかな輪郭や、紅を刷いたわけでもないのに桃色に色づいた唇、咲き誇る薔薇の花を溶かしたような紅色の瞳など、顔の造形は違いを見つける方が難しい。
一方で明確な差異もある。光を受けるたびに銀の輝きを帯びる髪色と、ローブと同じ色の眼帯で覆われた左目だ。さらにローブの左袖からは手が覗いておらず、肩から先にあるべき腕の存在が感じられない。
「ダンドリ……え? でもヴェルニアさまとお顔が、ええ?」
男の全身を何度も確認して、ビアナが当惑した。そういえば二人が顔を合わせるのは初めてかも知れない。ナギカは仏頂面で、いたずらっぽく笑う男を手で示した。
「ダンドリオンよ。お兄さまの双子の弟」
どーも、と肩をすくめたダンドリオンに、ビアナは戸惑い半分納得半分といった様子で頭を下げていた。
「それで、なんの用かって聞いたはずだけれど」
「相変わらず姫さんは僕のこと嫌いっぽいなあ?」
敵愾心を隠そうともしないナギカに、ダンドリオンはますます笑みを深める。
「用なんて無えよ。本を探しに来たら声が聞こえて、誰が居るのか気になって見に来ただけ」
「本を探しに? あなたに読書の趣味なんてあったの?」
「あるんだな、これが。意外?」
「いいえ、全然」
見えない火花がナギカとダンドリオンの間で散る。「あのう」とビアナが躊躇いがちに口を挟んでこなければ、言葉の応酬はしばらく続いていただろう。
「失礼を承知でお聞きしますけれど、お二人は仲が悪いんですの?」
「そうね」とナギカがうなずくのと、「全然」とダンドリオンが首を振るのは同時だった。
「なにが『全然』よ! 一度だってあなたと仲良しだなんて思ったことないわ」
眦を吊り上げて抗議しても、ダンドリオンは態度を崩さない。
「一周まわってむしろ仲良しだろ。少なくとも兄貴はそう思ってるっぽいぜ」
「とんでもない誤解じゃない! 早くお兄さまに訂正しに行かないと」
「あーそれは止めといた方がいい。誰かさんがぶっ壊した部屋を直すのに忙しそうだったからな」
ダンドリオンの一言に、ナギカは椅子から浮かしかけていた腰をゆっくり戻した。
――こういうところが苦手なのよ。
昔からそうだ。優しく紳士的に接してくれるヴェルニアとは反対に、ダンドリオンはナギカのなにが気に食わないのか、からかい混じりに痛いところをついてくる。ヴェルニアから何度諫められてもどこ吹く風で、完全にこちらを面白がっているとしか思えない。
口喧嘩で勝てたためしは一度もなく、これから先も適う気がしない。たいした効果は得られないと分かっていても、せめてもの抵抗として睨みつけることしか出来なかった。
「んで、そっちのお嬢さんは誰?」
杖の頭に手を添えたまま、ダンドリオンは不躾にビアナを指さす。ビアナは不愉快そうに一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに立ち上がるとドレスを摘まんで優雅に礼をした。
「お初にお目にかかりますわ。ビアナ・アマティスタと申します」
「アマティスタってあれか、宝石商の」
「ええ、よくご存じで」
ビアナの父は類まれなる審美眼を持つと噂される人物で、たった一代で宝石商としての財と地位を築き上げた。最近では〝宝石に関する相談なら絶対にここ〟と貴族たちが真っ先に名を上げるほどの人気を獲得しており、王族にもたびたびアマティスタ家が関わった宝飾品が献上されている。
「姫さんと結構仲良さそうだけど、学校時代のお友だち?」
「お友だちだなんて畏れ多い! わたくしはただの侍女ですわ」
〝侍女〟の一言に、今度はダンドリオンからすとんと表情が抜けた。数秒前まで笑っていたぶん変化が顕著で、まるで温度の感じられない暗く淀んだ眼差しは死人めいている。
それに気づいた様子もなく、ビアナは「父が国王陛下と謁見した際の縁で」と侍女として仕えることになった経緯をつらつら述べていたが、ダンドリオンは「あっそ」とどうでも良さそうに遮る。その時にはもう、口もとに笑みを張りつけていた。
あまりの変わりようにぞっとして、ナギカは鳥肌が立った腕を軽く擦った。
「ってことは、表にいたワンちゃんと違って姫さんの護衛じゃねえんだ」
「ワンちゃん?」
ダンドリオンの言葉に、ナギカとビアナは顔を見合わせて首を傾げた。
――もしかして。
「エクトルのこと?」
図書館にはエクトルもついてきていた。しかしナギカたちの読書の邪魔になってはいけないから、と中には入ってこず、今も入り口でしかつめらしく待機しているはずだ。
ナギカの問いに、ダンドリオンは「多分そう」と笑う。
「呆れた! 人を犬扱いするなんてどういう神経してるのよ」
「僕がここに入ろうとしただけで突っかかってくるような奴だぞ。敵を見つけてキャンキャン吠える犬と大差ねえだろ。『王族の許可なくここに立ち入ることは禁止されている』って、アホか。親父からちゃんと許可証貰ってるっつの」
ダンドリオンのローブの胸元には星と王冠を模ったブローチが取り付けられている。衛兵や王族の同行が無くても王宮の敷地内はどこでも自由に出歩いていいという、いわば信頼と無害の証だ。
エクトルはそれが目に入らず、図書館の入り口をくぐろうとしたダンドリオンを引き止めたらしい。そこでダンドリオンも大人しくブローチを示せば穏便に済む話なのだが、彼の口ぶりから、真面目に職務に励む若者を大いにからかったと想像するのは容易だった。
「『魔術師風情が調子に乗るな』って、顔真っ赤にして詰め寄ってくるもんだから面白くてさあ。『残念ながら僕は魔術師じゃない』って言っても全然聞かねえんだもん。他にもなんか色々言ってたが、飽きたし時間の無駄になりそうだったから放置してきた」
「……とりあえずあとでエクトルには注意しておくけれど、あなたもあなたで、魔術師の評判を落とすような言動は控えるべきだわ。ただでさえお兄さまとおばさまは苦労してるみたいなのに」
「はいはい、すみませんね」
謝っているとは思えない言い方だが、兄と母を理由に出されたことでダンドリオンは一応反省してくれた。口先だけの可能性ももちろんあるが。
「にしてもエクトルがブローチを見落とすだなんて」
考えられませんわ、ビアナは頬に手を添えて唸る。彼女のドレスの襟にもダンドリオンと同じブローチがあるため、エクトルが許可証の見た目を知らないはずがないのだ。
「まあ、理由なんてなんでもいいから喧嘩売りたかっただけじゃね。貴族なんてそんな奴ばっかりだ」
「そんな、どうして」
「どうしてもなにも、貴族連中は『魔術師なんてろくな奴じゃない』って思ってるからな。あのワンちゃん、確かどこぞの伯爵家の三男坊だろ。魔術師憎しの教えを吹きこまれててもおかしかねえ」
諦めと嘲りが混ざったような吐息をこぼして、ダンドリオンがどこか遠い眼差しで窓の外を見やる。
神が人を作った際の名残と言われるだけあり、
しかしおよそ二百五十年前を境に、文献から彼らの活躍は消し去られ、代わりに別の記録が目立つようになった。
迫害と処刑である。
ある時、一人の魔術師が閃いた。「神が人を作り出したように、我々も命ある存在を作り出せるのではないか」と。
紆余曲折を経て、試みは成功した。伝説や神話に登場する空想上の生物を基にした人工生命体――〝幻獣〟を作り出したのだ。幻獣は神力の塊である〈核〉を心臓の代わりとし、それが摘出か破壊されない限り、半永久的に動き続けるまったく新しい至高の存在だった。
魔術師たちは偉業を成したとして持てはやされた。幻獣の中には民に癒しや実りをもたらしたり、肉体労働に手を貸したりと役に立つ種類もあり、地域によっては幻獣信仰も芽生えたという。
しかし幻獣は無から作り出されるわけではない。料理に食材が必要なように、幻獣も複数の材料から作られていた。
その一つが、人間だった。
「初めはそんなに問題にならなかったんだぜ。材料にされた人間ってのが奴隷とか身寄りのない子どもだったからな」
杖の先をぐりぐりと回して、ダンドリオンは外を見つめたまま滔々と語る。
「けど、ついに貴族の中から幻獣の材料にされた奴が出てきた。それまで自分たちが材料にされるはずがないって余裕ぶっこいてた連中は慌てるよな。『魔術師は危険だ、排除すべきだ』って叫び始めた」
結果、魔術師たちは次々に捕らえられ、ろくな裁判も無しに処刑台に送られた。運よく逃れた者たちも一家離散に追いやられ、かつて十あった高名な家系は二つにまで減り、魔術師たちは表舞台から姿を消した。
エストレージャ王国にいるゼクスト家は、残った家系のうちの一つだ。ゼクスト家は魔術師として名を馳せる以前から薬師としての腕を認められており、幻獣は作成したものの人間を材料に用いなかったのを理由に、現在に至るまで存続を許されている。
「貴族ってのはずいぶん怖がりらしい。今でも『幻獣の材料にされるかもしれない』って怯えてるからいちいち突っかかってくんだよ。面倒くせえ」
ナギカもそんな場面に何度か遭遇したことがある。王宮に出仕している貴族たちはヴェルニアやダンドリオン、彼らの母を敵視していた。無言で睨みつけられるのは日常茶飯事で、すれ違いざまに露骨に文句を吐く者も少なくない。ナギカがそばにいると気づかずに、ヴェルニアに下品な言葉を投げつけた大人もいたが、その顔があまりにも醜悪で血の気が引いたものだ。
ダンドリオンが鼻を鳴らして締めくくると、「あら」とビアナが目を瞬いた。
「でもダンドリオンさまは先ほどご自身を『魔術師ではない』と仰っていませんでした? ヴェルニアさまとご兄弟なのに」
「単純な話だ。僕は魔術師の資格を失ってるってだけ」
ばさばさとどこからか羽ばたく音が聞こえた。風を強く叩くようなそれは重みがあり、窓がかすかに振動する。
程なくして、本棚の群れの奥から一羽の鳥が現れた。見た目と大きさは鷲に近いが、羽毛は夜明けの空を映したかのような鮮やかな曙色。とろりとした飴色の嘴は先端に黒い斑点が散り、獲物を見定める鋭い瞳は右が鉛色、左が紅色の輝きを湛えている。
しなやかな筋肉がたくましい脚の先には黒曜石のような爪が備わり、ひと蹴りしただけでいとも簡単に肉を切り裂けそうだ。その印象とは正反対に、両足で丁寧に本を二冊も挟んでいる。
突然現れた鳥に、悲鳴を上げたのはビアナだけだった。鳥は通路をするりと飛びぬけて三人の頭上で舞うと、ナギカの腕よりもさらに大きな翼をはためかせて慎重にダンドリオンの傍らまで下がってきた。
「やっと来たな。本に傷はつけてねえな? よし、偉いぞ」
ダンドリオンが杖を擦りつけるようにして鳥の頭を撫でる。くるる、と甘えるように鳥が喉を鳴らした。
「な、なんですの、この鳥は」
「ダンドリオンが飼ってるのよ」
襲われるのではと怖がるビアナに、ナギカは苦笑しつつ教えた。
「ラサラスっていうの。ダンドリオンと違って誰彼構わず喧嘩を売ったりしない賢い子よ」
「おいおい、僕が片っぱしから喧嘩売ってるみたいな言い方だな」
ダンドリオンの苦言を無視して、ナギカはビアナに挨拶するようラサラスを促した。ぺこり、と頭を下げる仕草はなんとも愛らしい。
「鷲……ですかしら、ずいぶん珍しい色をしていますけれど」
「そりゃそうだ。こいつ、幻獣だから」
さらりと言ってのけたダンドリオンに、ナギカは額を手で押さえ、ビアナの表情があからさまに強張った。幻獣の話題が出た直後に本物が目の前に現れたのだ。愕然とするのも仕方がない。
「理由もなしに飛びかかったりしねえから、安心しなって」
「そ、そう言われましても。だって幻獣ということは――」
人間を材料にしているのでは。
ビアナははっきり言葉にはしなかったが、言わんとしていることはダンドリオンに伝わったようだ。彼は「さあな」と面倒くさそうに首を横に振る。
「ラサラスの材料がなんだったかなんて僕はどうでもいい。一人でいるこいつが寂しそうで可哀そうだったから手元に置いてる。そんだけだし」
心の底から本気でそう思っていると分かる、突き放すような言い方だった。
今にも凍りそうなほど冷ややかな空気が、三人と一羽の間に漂う。カア、と外で鳴くカラスの声だけがどこか間抜けだ。ナギカは視線を彷徨わせて、ふとラサラスが掴んでいる本に目を据えた。
「その本、子どもの頃に読んだことあるわ」
ずっしりと重厚感のある革の表紙に見覚えがあった。中には庶民の間で語り継がれてきた昔話や教訓が百題以上も収められ、毎晩眠る前に一編ずつ読み聞かせてもらったものだ。
他でもない、亡くなってしまった侍女に。
懐かしさが湧きあがり、ナギカは「ちょっと見せて」とラサラスから本を受け取った。時間の流れには抗えなかったのか、記憶の中にあるよりいくらか古ぼけて痛んでしまった部分もある。ざらりとしたページの質感は変わらないままで、一枚ずつめくるたびに耳の奥で侍女の澄んだ声が響いた気がした。
「一日一話ずつ読んでいきましょうねって言われたのに、次の話が気になって早く読んでってよくねだったものだわ。せっかく読んでもらったのに途中で寝ちゃって朝までぐっすり、なんてこともあったけど」
ありがとう、とラサラスに本を返そうとして、ナギカは目を瞠った。
ダンドリオンの瞳に、薄っすらと涙が溜まっていたのだ。唇は笑みを浮かべていたものの意地悪なそれではなく、慈しみすら感じられる。
表情を失くした時とは違った驚きに言葉を飲みこんだ。よく確かめようとしたが、それを避けるようにダンドリオンに顔を逸らされてしまった。
「……ところでさあ、姫さん」
「え? ああ、なに」
「ワンちゃんって姫さんの護衛なんだよな?」
「そうだけど……」
自身に神力が流れていると判明して以降、ナギカの周囲では不穏な動きが相次いだ。
ダンドリオンが評するところの「怖がりな貴族」たちに命を狙われたのだ。
神力がまたいつ暴走するか分からず、その制御を指導しているのはゼクスト家の魔術師だ。力を扱えるようになったとして、それを良からぬことに――幻獣作成に使うのでは、といささか突拍子もない危惧を抱く者が一定数存在している。
ある時は食事に毒を盛られたし、またある時は出かけた先で拉致されかけたこともあった。そんな不届き者の魔の手からナギカを守るべく護衛についているのがエクトルなのだ。
「どうせ僕が言ったところで聞かねえだろうから、姫さんから伝えといてほしいんだけどさ」
ダンドリオンがおもむろに杖を掲げ、その頭を窓の外に向ける。いきなりなんだ、とナギカは眉を寄せて杖の先を目で追った。
空はヴェルニアと訓練していた時から変わらず、青く晴れ渡っている。そこを飛んでいるのはやはりカラスだ。ギャアギャアと忙しなく何度も鳴いて、図書館の周りを行ったり来たりしている。
よく見れば、カラスの体にはなにかがまとわりついている。
――黒い、霧?
「護衛っつーのはさ、姫さんのそばにずっといてこそだと思うわけ。扉の横に突っ立って威嚇してるだけじゃ、そりゃただの門番だ」
誰が鍵を外したわけでもないのに、ダンドリオンの言葉に合わせて窓がひとりでに開いていく。それを待ち構えていたように、カラスの嘴が急にこちらに狙いを定めた。速さは本を運んできたラサラスよりも鋭く、弓から放たれた矢のような勢いだ。
同時に、きゅい、と甲高い音が鼓膜を揺らし、刹那、落雷じみた閃光が視界を覆った。目が慣れて元の景色が戻ってくると、カラスが頭を下にして無抵抗にひゅるひゅる落ちていくのが見えた。
なんだ今のは。背中に冷たい汗を感じた矢先に、木を焦がしたようなにおいが鼻をくすぐり、ダンドリオンの
「だからこんな風に襲撃されても、姫さんを守れねえんだよ」
かつん、と床を叩いた彼の杖からは、白く薄い煙が立ち上っていた。
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