パピコ(仮称)
スミ
パピコ(仮称)
等間隔にならぶ街灯が冷たくなった二人を照らしていた。橙田は左手にコンビニのレジ袋を提げて歩く。少し後ろにいる彼女の歩調を伺いながら右手ではネットニュースを眺めていた。今日もスワローズは負けたみたいだ。二桁の安打を残しながらたったの三得点。それに対して横浜は六安打の八得点。これで十三連敗になる。舌打ちを一つ挟んで、スマホをズボンのポケットに差し込んだ。
彼女の足音が早く、大きくなる。少し先にいる野良猫に向かって走り出した。真っ黒な全身に二つ、光った目が浮かんでいる。お腹は大きく膨れ上がっていて、どうやら孕み猫のようだ。サンダルでうるさく音を立てながら走ってくる彼女からそそくさと逃げるように、猫は狭い路地へと入っていった。
「あー、行っちゃった」
猫ごときで大袈裟に項垂れる彼女を見て橙田は思わずため息を吐く。はぁ、と今吐き出した息でさえ白く染まる季節なのに、彼女は脚を大きく出した格好をしている。部屋を出る前に「寒くないのか」と聞いても「女子だから」と一蹴されたが、橙田には到底理解できなかった。最も、そんなふうに聞いたのは彼女の防寒意識について詳しく聞くためじゃなく、交際相手がそんな格好で街に出ることに少しでも抵抗を持ったからで、そんなこともわかってくれない彼女に対してまた一つ、冷たい気持ちが降った。
もうしばらく歩いて、アパートの階段を登った。蛍光灯に張り付いた蜘蛛の巣が影になって壁に写っていた。部屋の前に立ち、悴んだ手でポケットを探る。硬直して上手く回らない指でなんとか鍵を掴み、扉を開けた。部屋に入り、二人並んで冷たい水で手を洗い、うがいをする。橙田はリビングに向かいクッションを枕にするように横になり、彼女はレジ袋を持って窓際のベッドに座った。
どうしようもなく部屋が散らかっていて、床は殆ど見えていない。橙田は手を伸ばしてラジオを手に取り、流し始めた。芸人のくだらない深夜ラジオ、つまらない昭和歌謡、時代遅れの朗読、次々とチャンネルを変えていき、野球のニュースにチャンネルが回ったところでラジオの電源を切った。
「ねぇ、なんかさ。怒ってる?」
彼女が不意に聞く。
「え、なんで?」
「なんとなく、さ」
怒ってない、とはっきり答えなかったのは橙田の心に確かに苛立ちが募っているからだった。それが怒りなのかはわからないが、短いズボンに、脱ぎ捨てたられたセーターに、時々そっけないところに、いや、それだけじゃなく野球のニュースに、つまらないラジオに、そんな一つ一つが彼女に対する蟠りとなって積み重なっていくのを彼は感じていた。八つ当たりだと自覚はしている。それでも、ただ、橙田は今の彼女を丸々愛せなかった。
「あ、そうだアイス食べようよ」
閉じた空気を開け放つように彼女はさっき買ったパピコをレジ袋から取り出した。袋を開けて、向きが違う二つのアイスを割る。はい、と言って片方を橙田の方に投げた。届かずに落ちたパピコを拾って、橙田も彼女の横に座った。
おいしいね、なんて言う笑顔の横で橙田は「冬にアイスかよ」なんて愚痴を吐こうとしたが、下らないと思ったので、チョコの味と一緒に飲み込んだ。
「パピコ好きなんだよね」
また彼女が始める。
「なんで?」
「昔からさ、なんかもらうことが多くてさ」
適当に相槌を打ちながら橙田はぎゅっと、胸が締まるのを感じた。こんな風な昔話が最近増えてきた。きっと、そう、彼女に苛立ちを覚えてしまうのもこの昔話が原因で、ちょっと前まで彼女の服装も、性格も、愛せたはずなのに。
彼女は今二人でパピコを食べながら、昔の人を重ねてるんだろう。それが、分かってしまう。昔話をする彼女の目は、もう僕を見てないから。
そんな言い訳を考えてる僕を見て、彼女が口を開く。
「ねぇ、もう、終わりにしようか」
等間隔に並んだ街灯が、冷えた一人を照らしていた。左手にレジ袋を提げ、右手でネットニュースを見つめながら、橙田は歩いている。今日はスワローズが勝ったらしい。四番の一発で最終回にサヨナラを決めたようだ。
アパートの廊下の蛍光灯はもう消えかけている。鍵をポケットから取り出し、ドアを開けた。手は洗わずにベッドまでいき、レジ袋を放り投げて橙田も座り込む。しばらくスマホを眺めて、窓から満ちた月を見つけた。はあ、と白い息を吐き出し、からっぽになった部屋と向かい合う。
どのくらい時間がたっただろう、レジ袋から水を取り出して一気に飲み干した。ラジオはちょっと前に壊れた。もう暇つぶしもできない。
「アイス、食べよ」
レジ袋から取り出したパピコは、もう溶けていた。
パピコ(仮称) スミ @sumi9_9
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