洗濯とレンズ

スミ

洗濯とレンズ

 生温い風に髪を揺らした君がベランダから帰ってきた。梅雨のような夏のような、まだ少し春の匂いがする曇りの日だった。ジメジメするこんな日はどうにも洗濯物の乾きが遅いようで、彼女はこの一、二時間で五回も外に出て洗濯物の乾きを確認していた。そんな頻度で確認するのも意味がないような気がするが、(と言っても、洗濯物が乾いていく速度なんて彼は知らないのだが)どうせこんな意味のない土曜日だ。彼のようにラジオを聴いたふりしながらタバコを吸って過ごそうが、生乾きの洗濯物がまだ生乾きのままでいるか確認しようが、持て余した時間をどんな風に過ごそうと大して変わらない。

 彼は自宅の洗濯機をどうやって回すかも知らなかった。外出する日は適当に部屋を見渡して服を拾い上げ、帰ったら適当に服を脱ぎ捨てた。ただ、今この部屋に服は転がっていない。決まって毎週金曜日に泊まりに来る彼女は、彼が土曜日に起きるといつも洗濯物を乾かしていた。だから、土曜日の昼下がりはいつもより少し部屋が広かった。

 部屋に入ってきた彼女は窓を閉め、机のカメラを手に取った。彼はレンズが自分の方に向けられているのを一瞬確認してから、目を逸らしてタバコを口に運んだ。

「ふふっ」

 彼女が笑った。

「…なんだよ」

「尚人ってさ、カメラ向けるとカッコつけるよね」

「は?」

「カメラ向けると急にすんっとするんだもん。わかりやすくさ」

ニヤニヤして、満足げな顔で君は言う。多少覚えがある分、ムキになって反論すると「はいはい、カッコよく撮れてるよ」なんて、まるで子供を煽てるように笑った。

「隠さなくていいよ。私は尚人のことも、尚人の考えてることも、全部分かってるんだから」

「どうだか」

実際、彼女は全部は分かっていないのだ。彼女が決して見せようとしない写真フォルダの中に、寝たふりをした彼の顔がいくつも入ってること。シャッター音で目覚めた演技をすると、慌ててカメラを隠すこと。彼女が秘密にしているいくつものことを、彼は本当は知っていた。ただ、いつも勝ち誇ったかのような表情で「おはよう」なんて言う姿を見ると、秘密を知っていることは、秘密にしておこうだなんて、そう思うのだ。

「あ、そうだ。それジーンズのポッケに入ってたよ」

テーブルの上にある毛玉みたいな白い物体を指して言った。

「ああ、これ」

 いつか無くしたイヤホンだった。きっと粗雑にポケットに突っ込んだのだろう。がんじがらめに絡まっている。手に取って、最初の数分はなんとか丁寧にそのイヤホンと向き合ってみた。そして、諦めと飽きが彼の中で充分に満ちてからはちぐはぐに指を動かし、無理やり解き切った。普段はヘッドホンばかりなのでイヤホンが見つかっても大して使わないだろうが、一縷の達成感に満たされた彼は自慢げに彼女を見つめる。そんな彼を見て彼女はまた笑った。

 すると彼女は何か思いついたように立ち上がり、自分のカバンからタブレットを持ってきた。

「イヤホンあるんだしさ、二人で見よーよ」

 タブレットにサブスクのホーム画面を映しながら彼女ははしゃいで言う。二人で見るのにわざわざイヤホンを使う意味も無いような気がするが、やる気を出した彼女にそんなことを言う方がそれこそ意味を持たないだろうと彼は諦め、イヤホンを彼女に手渡した。

 左に座った彼女は、右のイヤホンを。右に座る僕は、左のイヤホンを。そんな風につけられたイヤホンは二つに分かれるその分岐点で一度捻れる。聞いたこともない題名の洋画を流し始めて、彼はイヤホンが壊れていることに気付いた。ポケットに入れた時か、さっき解いた時か、とにかく彼の左耳には時々漏れる彼女の笑い声しか聞こえてこなかった。聞こえなくなったのは、こちらの片方だけみたいだ。彼は、ただ黙りながら、音のない世界で繰り広げられるアメリカ人の恋愛を見続けた。

 どれくらい時間が経ったか、彼女は映画に入り浸って何も気付かない。でも、彼はそれでよかった。映画はおそらくクライマックスで、架空に生きる男女は永遠を誓い合う。

「面白かったね」

「そうだね」

 今度は目に涙を浮かべている君の横顔を眺めて、機能を棄てたイヤホンを耳から外す。一生なんて信じちゃいない。どうせいつか、君も笑い飽きる。

箱からマルボロを取り出して口に咥えた。火はゆっくりとタバコを侵食し、短くしていく。意味のないこんな日がずっと続けばいいと、切なく願って煙を吐いた。

「この匂いがあなたの香り」

 君はまた笑う。

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洗濯とレンズ スミ @sumi9_9

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