第18話
静寂が降りる。
本だけが散らばり、椅子と机が不自然に整理された教室。灯かりは点いていない。ただ差し込む光は、月光だけ。
異様だった。異質だった。異空間のようで、フィクション世界のようだった。無音で、幻想的。まるでここだけが切り取られた別次元であるかのような、そんな錯覚さえ覚えてしまう。
……実際は。
本当は夢から覚めた心地だったけどな。
「行っちゃい、ましたね……」
ぽつり、と。一つの音がその空間を満たす。まるで波紋を作るように、声は広がり、そして再び収束し消えた。それのおかげか、呆然とした思考も、次第にまとまっていく。
「なあ、化野」
「……はい」
一つ一つ、確認するように音が漏れ、不思議な空気に慣れていく。なんとなく、この空間は壊せなかった。
「……本当に、お前は俺の妄想、なのか?」
声に勢いはない。周りの空気にほとんど吸われてるんじゃないかと、それぐらいに小さく、弱かった。
自分自身認めるのも辛いってのに、俺は何を訊いてんだか。いや、妄想なら辛くないのか。その辺りのことは、よく分からなかった。ただ雰囲気が幾らか変わったからか、さっきまで動かなかった口は、よく動いた。
「……えーと。正直よく分かんないです。幽霊である証拠なんて持ってませんし、妄想という可能性だって、ありますから」
「……だよな」
叱翅に言われたことを吟味する間もない。俺たちは理想を見るだけで現実を見ようとはしてこなかった、と。そう言われてしまえばぐうの音も出ない。
あるいは、やはり。
どうしても分かりたくなかっただけなのかも、しれなかった。
「でも、ですよ? 本物なんですよ」
「……なにがだ?」
「私の思い出は、多分あなたの妄想なんかじゃないです。あなたと公園で話をしたことも、それ以前に星を眺めていた毎日も。全部、あったことなんです」
なかったことなんかにはなりません、と。息を荒く化野は主張した。
そうだよな。化野の言う通りだ。俺たちの経験だけは、消えない。
主人公らしくそんなありきたりな科白を謳ったところで、けれども現実はどこまでも非情だ。それで都合良く奇跡が起こって、化野が幽霊として傍にい続けるんだったら。
俺はいくらでもそんな科白を吐いてやる。
……ああ、そうか。そういうことだったんだな。
「俺さ、フィクションが好きだって話、したよな」
「はい。憧れてるんでしたっけ?」
「そうだ。別にあの時のことを語り直すつもりは無いけどな、あの時気休めの嘘を吐いたつもりなんてない。ありのままの俺を述べさせてもらった。だから、非日常への憧れだって今でも強い。幽霊であるあんたとも接点を保とうと必死だった。……フィクションの中で、俺も生き続けたかったんだ」
「……えと、はい。それに似たことも、言ってましたね……」
化野が僅かに目を伏せる。
確かに初めは、そのつもりだった。言った通り、ただ幽霊が視える今の環境をどうにか続かせたかった。そのきっかけ作りとして、成仏の手伝いもしてたわけだしな。それで叱翅にも協力を仰いだわけだ。
そう、まさか。こうなるとはこれっぽっちも思ってなかったんだ。もっと普通に終わるんじゃないかって、そう期待してた。特に思い入れも感慨なんかもなく、終わっていくんじゃないかって、そう考えてた。
「けどな。俺の本心はどうにも違うらしい」
「……え?」
俺は一つ咳払いをし、それから右手を差し伸べた。
こういうことを言うのは、今後これっきりにしたいものだ。
「俺は、単に友人が欲しかったんだ。……それでだな。よければ、友達に、なってくれないか」
「え、あ……。そん、な……」
さぞ迷惑な話だろう。会って三日の男子に、そんなことを言われれば、戸惑うのも当然だ。現に彼女は差し出されたその手と俺の顔を、困った表情で交互に見やり、そして最終的には俯いてしまった。
分かっていたさ。そもそも触れもしない人間と幽霊だ。成立しようにも、ちぐはぐだ。それにフィクションを盲信する友人なんて、化野から願い下げだろうしな。
諦めて、それから手を引こうとして。
静かな教室で。彼女の声を、耳にした。
「私、ずっと一人でした……。こうなってから、そんなに日は経ってませんけど、一年は、こうだったと思います」
一年。彼女はずっと独りぼっちだった。
今更どうこうなんて、思わない。それは同情する資格が俺に無いからじゃない。
多分、彼女がそれを望んでないからだ。
「星のおかげで、退屈しないで済みました。でも、やっぱり。一人は、寂しくて……。あの、ですから」
化野の髪が跳ねた。一本一本。線の細い黒髪が、彼女の眼前を躍る。
そのヴェールが外されて、俺はようやく彼女の視線を直視した。
「あの……、はい。喜んで!!」
化野 幽は真っ直ぐだと、そう思う。良くも悪くも、だ。特に、頻繁に笑みを溢す。
今だって、彼女の柔らかい笑顔が、薄暗い教室に咲いている。
卑怯だろ。そんな表情、浮かべられると。こっちまで笑ってしまうじゃないか。色んな、考えなくちゃならないこと、確認しないといけないこと、そんなものが煩雑としているが、とりあえず。
今は後回しだな。
「あ、改めて自己紹介しますね。化野 幽って言います。……その、今更過ぎますけど」
そっと。恥ずかしげに彼女も右手を差し出した。
そう言えば。彼女は一度名乗ってくれたが、俺の方はまだ名前さえ明かしてなかったんじゃないか?
そう思い直して。改めて俺は、彼女に向き直る。
「俺は、空絵桜真。空白の空に絵画の絵、夜桜の桜に真実の真。遅くなって悪かった。これから、よろしくな」
差し出された化野のその手を取る。取ろうと、した。
よくある例で考えてみよう。
これがフィクションの始まりで、冒頭第一話だったなら。これが普通の高校生がフィクションに巻き込まれて、その出会いの結末だったなら。不安も苦労も何も無く、ここでの一幕は終わっていたのだろう。
平和的に、これ以上話の山場も大したオチもなく、手を握り合って、それから俺たちの未来はこれからだって、そんなエンドもあったはずなんだ。
俺にぴったりじゃないか。フィクションに憧れすぎて、妄想まで視ちまう奴に、これ以上ないサプライズだ。
例え触れなくたって構わない。幽霊でなくたっていいんだよ。ただでさえ少ない俺の友人が、また一人増えるんだからな。
結果として。
俺がその手を取ることは、無かった。
「はい!! よろしくお願いしますね」
化野はそう笑った。次の瞬間には。
消えていたのだから。
姿形、天辺からつま先まで。俺の前からその全貌を焼失させた。
一瞬だ。余韻を与える間も感傷に浸る間も。別れを済ませる暇なんてあるはずもなく。
一度の瞬きで、夢が醒めた。
「……はは、そりゃそうだよな」
納得して笑って見せても、反応を返してくれる存在は、いない。誰に届くはずも無い乾いた声は、やがて哀しく周囲に溶けた。
考えてみれば、いやよく考えなくても。俺に主人公としての才覚があったわけがない。ありふれた高校に通う、ごく普通の一般男子生徒であるところのこの俺が、物語の中心として機能するはずもなかったんだよ。
もしもそんな世界があったなら、やはりそれがフィクションというものなのだろう。
まったく、俺がどうしようもない間抜けみたいじゃないかよ。一人で舞い上がって一人で握手を求めてさ。結果ずっと一人でしたってオチじゃねえか。
やれやれ、とんでもなく恥ずかしい毎日を送っていたわけだ。とんだ道化師だぜ、イヤになる。
「……ちくしょうが」
だから。変わらない。
俺が何を言ったって独り言。何をしたって独りぼっち。
そこに化野 幽は、もういない。
その事実を、俺はしばらく噛み締めていた。
誰一人としていなくなった教室で。
夢の終わりを痛感しながら。
ぼんやりと。その場に立ち尽くすことしか、出来なかった。
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