第8話

 俺がモノをすり抜ける現実を叩きつけられたその夜。化野 幽と少し話した。

 話したと言っても、ほんの十分もいかないぐらいだ。俺自身困惑してたからな、未知との遭遇も、唐突過ぎれば有難みは湧いてこない。

 俺が地に落ちた缶コーヒーを拾い上げると、彼女は申し訳なさそうに言った。


「す、すみません。缶コーヒーが……」

「ああ、別に構わないさ。見たところ損傷もしてないし、開ける時さえ細心の注意を払っていれば何も」

「ほ、本当は弁償したいんですけど。その、私お金も持てなくて」

「だから良いっての。俺だって試したくてやったんだからな。お相子で終わらせよう」


 それに、今は缶コーヒーどころの話じゃない。確実に、俺の放った投擲物は、彼女の身体をすり抜けて行った。

 夢か幻かと、そう思ってみても俺が感じる寒さ、昂揚感、そして歩いていたことによる疲弊感は本物だ。今はその可能性を検証している場合じゃないだろう。


「なああんた、本当に人間じゃないのか? いや、幽霊なのか? 物がすり抜けるってのはさっきも見たけど、まだ実感が湧かないというか、信じられなくてな」

「えーと、そう、ですよね。信じれるわけないですもんね」


 別に、信じたと言葉にするのは簡単だ。きっとそれで、彼女の心には安らぎと安堵が生まれることだろう。

 ただそれじゃダメなんだ。これは俺の本心と意識の問題だ。折角の非日常のきっかけを、確実に俺は手に入れたいし、大事にしたかった。

 俺の利己主義と都合に気が付くはずも無く、彼女は拳を固めて向き直った。その瞳は、消防士も手が付けられないほどに燃えているように見えた。


「じゃ、じゃあ。もう一回だけやってみせます!! 見ててくださいね」

「え、やるって何を?」

「この滑り台を……」


 言いながら、勢いよく駆け出す化野。この公園唯一の遊具である滑り台。そこに向かって、彼女は走り。

 速度を緩めずダイブした。


「え、は?」


 聞こえてくるのは滑り台に激突する音でも、頭から飛び込んだ化野の悲鳴でもない。地面と人間が擦れ合う音、それだけ。

 ただそれだけで、十分だった。瞬きによる視界遮断も、距離による視力調節も、何も無い。あるのはただの事実だ。化野が、滑り台をすり抜けたっていう現実だけが、その空間にはあった。


「お、おい。大丈夫か……?」


 滑り台に激突はしなかったものの、地面に腹ばいで飛び込んだんだ。心配するなって方が無理だろう。


「ふぐう……大丈夫ですー……」


 いや全然大丈夫じゃ無さそうだぞ。近付いて顔を見てみれば、目を回してるのが丸わかりだ。見て見ぬふりも出来るはずもなく、仕方なく手を差し出す。


「突然走り出すなよな。心配ってほどじゃないけど、一応びっくりしたぞ」

「いやあ、こうでもしないと信じてくれないかなって思ってですね……。すみません、迷惑を掛けちゃって」

「いや、迷惑じゃないけどさ」


 立ち上がった彼女の衣服には、汚れ一つ付いていなかった。そこに俺はついに、驚けなかった。

 いや、慣れたと言った方がこの場合正しいか。どちらにせよ、彼女の行動で俺の常識は無駄と消えた。

 未だ理解し難い部分も少なからずある。ただそれを一つ一つ確認していけば、今日だけでは終わらない。何より一番の不審点である幽霊かそうでないかという漠然とした部分は、俺の中では既に白黒つけられている。


 認めよう、あんたは幽霊だ。

 白い三角巾や着物を着ているわけでもない。ましてや足も人間と同じように生えている。幽霊とみなせる点は少ないものの、実際物に触れる事は出来ていない。

 ……どうして俺は触れるのかは疑問だが。そこはまあ今のところ置いておこう。

 化野 幽は生き物ではない。俺はそれを認めて。

 ……認めて、どうするんだ?


 彼女が幽霊だから、俺の物語が始まるのか?

 目の前のそいつが人間じゃないから、非日常に入り浸れるのか?

 そうじゃないだろう。こいつが人間かどうかなんざ関係無い。つまるところ、それはきっかけの一つに過ぎないんだ。

 確かに、幽霊が視えるというのは一見特別であるかのように見える。それは大多数の人間が出来ないことであるからだ。ならば、特別だから、どうなんだ?

 そうであるだけなら、決して俺の望む日常はやってこない。彼女が幽霊であると、それが分かったところで俺の日々に変化なんて訪れるはずもない。

 ならばどうするか。答えは決まり切っていた。


「あ、あの……? 大丈夫ですか? ぼうっとしますけど……」


 心配そうな顔で覗き込む彼女は、まるでそこで生きているようじゃないか。普通の女子高生のように、俺の役に立たない視覚はそう捉える。

 先程から思っていたことだけども、随分と近い。この化野という女性にはパーソナルスペースの概念が存在しないのか。……幽霊だから無いのかもしれない。

 ともあれ、俺の次の行動は、彼女が幽霊だとして、俺はどうすればいいのか考えることだ。

 あれこれ考える。成仏させてやれるか。一緒に遊んでやるのか。毎晩ここを訪れればいいのか。どれが最適で、どれが正しいのか、生憎そういう経験を求めていたのに、導き出せない。


「あの……」

「あ、ああ。いや悪いな、ちょっと考え事をしてて。とりあえず、あんたは幽霊ってことで良いよな」

「……え? み、認めてくれるんですか?」

「他にらしい答えも見当つかないからな。一時的な落としどころとして、そう思っておくだけだ。あんま期待するな」

「いえ、いえいえ……っ。それでも、嬉しいです、私」


 首を振って、そして嬉しそうにはにかんだ。本当に、嬉しそうだ。恐らく、誰にも認められて……いや、そもそも話さえ聞いてもらえなかったんだから。そりゃあ認めてくれれば、顔を綻ばせるだろう。

 彼女の幸せそうな表情を見ていると、毒が抜けるというか。自分を中心とした考え方が小さく思えて仕方がない。

 笑う時は笑い、申し訳なさそうにする時は、それ相応の態度を取る。はっきりし過ぎていて、羨ましいぐらいだ。


「良かったです。認めてもらえるだけで、私としてはもう十分ですね……。成仏とかしちゃいそうです」


 声音を上げて呟いたその言葉を、目と鼻の先にいる俺が聞き逃すはずも無い。

 奇しくも、それは俺が先程考えていたこと。今こうして出会った、その次のステップの話だ。


「あんたはさ、成仏がしたいのか? 幽霊なんだからそういうのもあると思うんだけど」

「えーとですね。私自身どうしたいのか分からなくて。とりあえず、誰かに注目して欲しいなって、そう思っていましたから」


 願い事は叶ったということか。しかし彼女が消える所作は見えない。だとすれば、まだ別の心残りでもあるのか。そういうのに、詳しくないから、適当なアドバイスも浮かばないが。


「成仏は、多分したいのかなって。そう思いますけどね」


 何故か照れたように、化野は言った。

 何故そうしたいのか、俺は聞かない。誰にも認められない世界というのを、想像も出来ない、というよりもしたくない。きっと酷く無感情な空間なんだろうなと、そう思うだけで、それ以上に理解が及ばない。

 ずっと独りでいるなら、この世から消えたい、というのが彼女の心境なのかもしれないし、特に理由は無いのかもしれない。

 幽霊はどうあるべきなのか。俺には分からない。けれどしかし、こうして知り合えたわけだから、俺にも何か出来るんじゃないか。

 楽観的かもしれないけどな、俺はそう思っちまった。


「じゃあ、俺が……」

「……? なんですか?」

「いや、なんでもない」


 ふと携帯を確認してみれば、既に草木も眠る時間帯だ。長居し過ぎたようだな。


「あ、ごめんなさい……。引き留めちゃって……」

「いや、いい気分転換になった」


 勉強なんかよりも、俄然気になる出来事と出会えただけで、俺としては満足だ。

 ただ良い頃合いだ。

 ここから先、朝までこの公園で居座り続けられる自信が無い。

 俺は彼女に背を向けて、公園の出口へと足を向ける。


 家に帰って、それからこの夢を覚まそうじゃないか。きっと、多分。現時点ではうだうだと彼女の言う事を信じ続けてきたけど、やはりどこかで現実じゃないと、そう思えてしまっているんだ。

 この一夜が、夢が作り出した物語であると、そう信じた方が遥かに楽で簡単だから。


 砂地から黒いアスファルトへと変わる。光源から少し離れただけで、全てが闇に呑まれたような、そんな感覚に捉われた。

 良い思い出として、今日のことは忘れないだろう。夢なんざ久しく見た憶えも無いけど、こういうもんなら大歓迎だ。化野 幽という女性とも、もう会うこともないんだろうな、と。

 そう、思っていた。彼女の言葉を聞くまでは。


「あ、あの!!」


 振り返る。随分と歩いたように思っていたが、未だ彼女の姿がはっきりと見える位置だ。だから、戸惑っている化野の表情も、見て取れた。


「もし、良かったらなんですけど。もし、お手数じゃ無ければですけど……」


 一つ一つ確かめるように言葉を並べる。


「明日も、来てもらえませんか? その、忙しかったら良いんです……」


 冬の空気は澄みきっている。水の中のような、不純物一つ残らない、そんな世界が広がっていた。そんな空間だからか、俺は彼女の小さい声が聞き取れた。

 聞き取れたからには、返さないといけないだろう。

 口を開く。声と、それから白い息が、漏れて流れた。そしてそれから、踵を返す。

 冬の空、透明な夜。明るい公園から、暗い夜道に視線を戻すその視界の端。俺は化野 幽の輝いた表情を、瞼に焼き付けながら。気持ち足を弾ませて帰宅した。

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