第5話
「……ありがとう、ございます。おかげで何となく、分かりました」
粗方言い終えた俺に、彼女は腰を折ってお礼を述べた。
これでようやく、解放されたのか。頭を上げて満足した表情を浮かべる彼女を見て、そう思えた。
このタイミングがこの場を離れる絶好の機会。そう思って、俺は。何故か口を動かしていた。
「なあ、あんた。本当に、誰にも視えないのか?」
再三彼女自身が言っていることを、もう一度口に出してしまっていた。違うだろう。俺がしたかったことはこの場から離脱すること。こんな電波な女性に、これ以上構うわけにはいかない、のに。
俺は、化野の返答を待っていた。頭では分かっていても、身体が言うことを聞かない。
あるいは。
本当に、これが。自分が取りたかった行動なのかもしれなかった。自分自身に問い掛けてみるも、正答を得ることは叶わない。
だから勝手に俺の意志を決めつけるとするなら。
俺は化野の発言を裏付ける何かが欲しかった。彼女が本当に見えない存在である証拠を見つけたかったのだ。
「はい。私の姿は誰にも見えないみたいで……。一応、幽霊……なんですかね? 自分でもよく分からなくて」
やがて口を開いた彼女は、苦々しく笑って見せた。
どうして笑えるんだろうか。
もし仮に。誰にも認識されないっていうのが本当なら、笑っている場合じゃないだろうに。そんなもの全然全く、人間らしくない。
人間というのは自らの不運を嘆き悲しみ、その不幸をなすり付けるかのように境遇そのものを悪く言うものだ。
ならば、この化野 幽という女性はそれに当てはまるかと言えば、答えはノー。まるで嘆き悲しんじゃいない。あまり接点が無かった親戚の葬式よりも、反応が薄く見える。
「その、すみません……。多分あなたの方が戸惑っているはずなんですけど、本当のことなんです。信じて貰えなくても構いません。誰にも視えないっていうその事実が消えたこと。私にとって、それが一番大事なんです」
信じてもらわなくてもいい、と。
その言葉が本心である保障は無いものの、しかし俺としてはその漏れた想いを信じるより他は無い。感情どうこうじゃなくて、俺が彼女に対して思えることなんてそれぐらいなわけで。
幽霊そのものがどうとかっていうのはひとまず置いておくとしてだ。
「あんたが幽霊だって証拠は、あるのか? 例えばさっきあんたも言ってたけど鏡に映らないことだとか。そういうので良い。信じて欲しくないって言うなら、別に無理強いはしないけどさ」
何か証明書のようなものがあれば一番分かりやすいんだが、幽霊にそんなものは無いだろう。
というか、もしあったとしたら嫌過ぎる。他人からそれを教えられるとか、死んでも受け入れられない。
「証拠、ですか?」
きょとん、と。
化野は小首を傾げた。思いもよらなかった風な口振りだ。
まさか彼女は、その口から出た発言だけで信頼を勝ち取ろうとしていたのか。もっと色々と方法があるだろう。
それこそ手鏡でも持ち歩いて、そこに自分が映っていないアピールをすれば、上手くいけば騙すことも出来る。
少なくとも、信憑性ゼロから二十パーセントぐらい上乗せられるはずだ。
アホか、アホなのか。それか君子も驚くほどの語彙力があるとでも錯覚しているのかもしれない。
残念だったな化野。短い時間だが俺の見立てでは、その話し方だとクラスでの発表も難しい、ってことは分かる。少なくとも誰かの心を動かすような、そんな偉人ほどじゃあ無い。
だからこの場合、人に何かを信用してもらいたいときは、物的証拠をチラつかせればいいんだ。
案外信じざるを得なくなるかもしれないからな。
「証拠、になるのかどうか分からないですけど。幽霊っぽいことなら出来ます」
「幽霊っぽいこと?」
何だろうか。白装束に早着替えか、それとも人魂でも出せるのかもしれない。まさか恨めしいポーズでは無いだろう。
俄かに期待をしている俺に、化野はその指を突きつけた。俺に、ではなく俺が持つビニール袋に、だ。
「ごめんなさい。お手数だと思いますけど、その袋、私に投げてもらっても良いですか? 剛速球で」
「は? 投げる?」
「はい。投げて下さい」
突然で、意外な申し出に俺の口から空気が漏れた。
何を言い出すんだろうか、彼女は。よもやこれからキャッチボールをするつもりでもないだろうに。
困惑する俺を、真剣そのもので彼女は覗き込む。
「本当に良いのか? 中身は別に問題無いけど、剛速球って……」
「大丈夫です。思いっ切りやっちゃって下さい!!」
何やら意気込んでいるものの、俺の心の準備が出来ていない。
というかいきなりモノを投げろと言われて、はいそうですかと二つ返事で了承する人間こそ俺は見てみたい。
しばしの葛藤と、化野の根拠無き文言を浴び続け、俺が断るはずも無く。気が付けばビニール袋を投げやすいように丸めていた。
「……じゃあ、行くぞ」
「いつでもどうぞ!!」
深夜の公園で何をやってるんだなんて、今更過ぎる一歩退いた感想を浮かべながら、俺は手に持ったそれを放り投げてやる。さすがに全力は危ないので、下投げで弧を描くように、それを手放した。
缶コーヒーが入った袋は山なり、いや丘ぐらいの放物線を描いて化野の元へと向かう。対する化野は受け取らんとする気満々で、構えていた。
やがて投擲物が彼女の手元に収まろうかという段階で、それは起きた。
「あ……!?」
思わず、そんな奇怪な声を上げてしまっていた。
音が響いた。
それはビニール袋を化野がキャッチした音でも、缶コーヒーが開いた音でも、俺が出した声でも、ましてや全く無関係な音なんかじゃない。正真正銘、今までの流れから生じる音だ。
それは丸めた袋と缶コーヒーが、地面に激突する音だった。
なんてことは無い、突然その投擲物が野球選手のようなフォークを掛けられて下方へと落ちた、とかそういった現象は起きていない。有り得るし起こり得る。
その袋が化野の背後で落ちただけだ。
ただし、それは彼女が取りこぼしたという前提があっての話だ。この場合は当てはまらない。ではどうなったのか。
端的に説明しよう。
ずばり俺が投げたその袋は、化野の身体をすり抜けた。
見間違いだと、なんど目を疑ったか。
それはもう瞼の構成色素が剥がれるほどに擦ったさ。夢じゃないかとつねってもみた。当然頬には圧迫感のある鈍い痛みが残るだけで、脳裏に焼き付いたその光景そのものが消え去ることはなかった。
目の錯覚を利用したトリックの可能性もあったが、しかしそれを確かめる術は俺にはなかった。
だからつまり、非常に短絡的結果を導くとするなら。
「あんた、本当に……」
「はい……。幽霊、なんですよね……」
困ったようにはにかんだ彼女は、俺の常識という名の脳細胞をかき乱すのに、一役も二役も買って出てくれるほど、輝かしく嬉しそうに映った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます