第三章 5

アルトゥム軍はヴュステ城門を正面から取り囲んでいた。

 その先頭には、国王ベルトヒルト。不敵な笑みを浮かべ、今長年の野望を実らせんとそこに敢然と立つ。

 その時彼の緑の瞳に、人っ子一人歩いていないはずの首都のむこうから一人の女が歩いてくるのが見えた。

「陛下、あれは……?」

「む……」

 その人影には、確かに見覚えがあった。

 段々と大きくなってきた影が、近づいてくる。

「……ティーアか……」

 あの日送り出した、妹。自分の影に怯え、従うだけであった、妹。従うはずであった、妹。いつの間にかそうでなくなった、かつての妹。

「兄上」

 これがあのびくびくと自分におののいていた妹か。あの震えているばかりであったティーアか。

「お久しぶりでございます」

 このつややかな声は本当にティーアか。私は、幻を見ているのか。

「見違えたぞティーア」

 にやりとして言う。なるほど、惚れた男がここまでお前を変えたのか。

「迎えに来たぞティーア。アルトゥムに帰ろう。塩の利権は私のものだ」

「いいえ」

 勝ち誇る兄に、ティーアはきっぱりと言った。

「わたくしはヴュステの妃でございます。ヴュステと共に生き、ヴュステと共に果てます」

「なに……」

「兄上がヴュステを落とすというのなら、わたくしもまたヴュステと共に落ちます」

「本気か」

「本気でございます」

 ですが、ティーアは続けた。

「兄上がわたくしを妹と思ってくださいますのなら、お慈悲と思ってお願いを聞いてくださいませ」

「なんだ」

「これなる池にわたくしが潜っている間、首都の市民が城外に逃げることをお許しください。そして、逃げた以上は彼らに手出しは無用とお約束ください。その間は、城の人間にも攻撃はしない、とお誓いください」

「随分勝手な言い草だな」

 どうせ女の浅知恵だ。もって三、四分だろう。そう高を括った。

「だが、他ならぬ妹の言い分だ。まあいいだろう」

「約束ですよ」

 言うや、ティーアは側にあった側溝に飛び込んだ。

 その間に、国王からのお触れを聞いていた市民たちは続々と首都から脱出し始めていた。 それを横目に、ベルトヒルトはにやにやとしてティーアが上がって来るのを待った。

 一分、二分……

 彼女が出てくる気配は見られない。

 民はどんどん出ていく。

 元より、潜水の得意であった王妃である。こぽこぽ、と空気の泡が水底からいくつか上がって来るのが見られた。

 三分、四分……

 ベルトヒルトはいらいらとして待ち続けた。市民は次々に街を出ていく。

 五分……六分……

 ティーアはまだ上がってこない。

 そして十分が過ぎ、とうとう首都からすべての市民が脱出してしまったのを見て、

「ええい、なにをしている。誰か、潜って見て参れ」

 ベルトヒルトが怒鳴った。

 そこで配下の者が側溝に潜っていくと、しばらくして戻ってきて、顔色を青くして言った。

「た、大変です」

「なんだ」

「妹君が……」

「ティーアがどうした」

「水底で……」

 王妃ティーアは、水底の灌木に髪を縛ってとうの昔に果てていたというのである。

「なんだと」

 ベルトヒルトは歯噛みした。そして側溝の底を睨みつけた。

「……民を逃がすための作戦か」

 ぎりぎりと音をさせて、奥歯を噛みしめる。

「おのれティーア。兄をたばかるとは」

 そして青い王城を見上げ、

「しかしまだ終わってはおらん。城が残っている。城をもらうぞ。そして王城の人間を虐殺し尽くしてくれる」

「それはなりません陛下。妹君が水のなかにおられる限りは、王城の人間を攻撃しないと妹君と約束されたはずです」

「死者との約束など知ったことか」

 怒鳴るや否や、ベルトヒルトは騎乗した。そして配下に向かって大声で命じた。

「進軍!」

 ドドドドド、という地響きが、宮殿にも伝わってきた。

「来るぞ」

 それを聞いて、宮殿側にも一気に緊張が伝わった。

「ゲオルグ、準備はいいか」

「はっ、油は撒いております」

「そんなことはいい。お前、恋しい女くらいいるだろう。行って別れを言ってこい」

「……」

「どうした。いないのか」

「おります」

「じゃあ行ってこい。遠慮するな」

 では、とゲオルグが頭を下げて行ってしまうと、ヴァリデスは自分の恋しい女のことを考えていた。

 ティーアがこの作戦のことを話したとき、ヴァリデスは反対した。

 しかし、彼女は時間がないと言った。そして、優先されるのは民の命、それのためなら、自分はいつ命を投げ出しても構わないと。

「よそ者のわたくしのことを、ヴュステはいつもやさしく包み込むように迎えてくれました。わたくしはいつの間にか、アルトゥムから来たよそ者の花嫁から、ヴュステの王妃になっていたのです。ヴュステの王妃が、ヴュステの国民を守るのは当たり前のことです」 殿、ティーアは切羽詰まった様子でヴァリデスに言った。

「兄は、容赦のない人間です。ヴュステとの友好など、考えないでしょう。誇り高いヴュステの人々が踏みにじられていくのを見るのは、なにより辛い。殿がそれを見てなにもできないのを見るのは、耐え難い辛苦でございます。もう一度兄の奴隷になるくらいならば、いっそ死んだ方がましでございます」

「ティーア……」

 それはヴァリデスも同じ思いだった。彼は妻の手を取った。

「そこまで言ってくれるか」

 そして彼女をひしと抱き締めた。なにも言うことはなかった。言葉など、必要なかった。



 

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