第三章 3

 その寒い日の夕暮れ、宮殿の廊下を歩いていたフレイアは、むこうからやってくる背の高い影に顔を上げた。

「ゲオルグ様」

 思わず笑顔になった。彼はにこりともせずに、なにかを差し出して言った。

「この花を貴女に」

 それは、一輪の大ぶりの白い花だった。フレイアは職業柄花には詳しいが、こんな花は今までで見たこともなかった。それを受け取って、フレイアは戸惑いがちにゲオルグを見上げた。

「……これは?」

「鳥人族の者に聞いて、取って参りました」

「そんな山奥に?」

 真冬である。ましてや、鳥人族が住むような山奥にまで行くとは、正気の沙汰ではない。「では」

「あっ……」

 フレイアが礼を言う前に、ゲオルグはすたすたと言ってしまった。呆気に取られてその背中を見送って、ふと手元の一輪をしみじみと見ていると、茎の部分に赤いものをみとめた。

 ――血?

 フレイアは呆然として廊下のむこうを見つめた。

 そこまでして、なぜ?

 しかし、もうその影はみられなかった。



 三番目の月、浅縹の月がやってきた。早春とはいえ、風はまだ冷たい。

 フレイアは早朝の当番を終えて、遅寝のために部屋に帰ろうとしているところだった。 そこへ、奇妙な声を聞いた。

 なにか、鳴き声のようである。

「?」

 それは、廊下のむこうから聞こえてくるようだ。フレイアは妙に思って、角を曲がった。 すると鳴き声は一層大きくなって、近くなってくる。そこでまた角を曲がると、ますます声は近づいてくるのだ。そうして声を頼りにずんずん角を曲がっていくと、そこには数人の兵士と、困った顔のゲオルグが立っていた。

「ゲオルグ様?」

 彼は困った顔のままこちらを向いた。

「貴女でしたか」

「どうかなさいましたの?」

 ゲオルグは兵士たちにもういいぞ、と言うと、フレイアの方に向き直った。

 彼は、なにかを手に持っていた。フレイアの青い目がそれに釘付けになった。

「――」

 それは、白い仔猫だった。

「ゲオルグ様……これは?」

「配下の者が拾ってきました。城下で迷っていたそうです。母猫を随分と探したのですが、どこにもいなかったそうでほとほと困っているのです」

「にーにー言っていますね。お腹が空いているのでしょう」

「生憎私は猫など飼ったことがないのです」

 普段無表情のゲオルグの顔が、苦々しいそれになっている。フレイアはおかしくなって、くす、と笑った。

「なんです」

「いえ……ゲオルグ様も、そんなお顔をされるんだなと思って」

「笑い事ではありません。私は仕事があるので部屋には寝るためだけに帰るようなものですし、とても仔猫の面倒など見られないのです」

「配下の方は?」

「似たようなものです」

 フレイアはちょっと考えて、それから弱りはてたゲオルグを見やって、

「では、私が」

「は?」

「私が面倒を見ますわ」

「貴女が?」

「ええ。小さいころ猫を飼っていたのでどうすればいいかはわかります。女官なら空いた時間に部屋に様子を見に行けるし、私は一人部屋なので都合がいいですわ。ぴったりです」

「しかし」

「あら、私ではご不満ですか?」

「いえ、そういうわけでは」

「では決まりですね」

 はい、と両手を差し出されて、ゲオルグはおずおずと仔猫を引き渡した。

「まあ、ふわふわ」

 フレイアは笑顔になった。

「あなたは男の子? 女の子? 名前をつけてあげなくっちゃ」

 そしてゲオルグを振り返り、

「どんな名前にしましょうね」

 と言うのだ。

「あ、え、ええ」

「考えておいてくださいね」

 そうしてフレイアは仔猫を抱いて、歩いて行ってしまった。

 ゲオルグは呆気に取られてそれを見送っていた。

 


 戦がいつ始まるかという緊張感が兵士の間にも伝わっている。ゲオルグも、それを敏感に感じ取っていた。緊張というものは、そう長く続くものではない。却って兵士を疲弊させてしまうものだ。

 それはよいものではない。士気が下がることを懸念して、ゲオルグがそっとため息をついた時、ゲオルグはあちらからフレイアが歩いてくるのをみとめた。

 そしておや、と思った。

 彼女の顔色が、いつもと違ってなにかよくないことに気がついたからだ。平生ならすぐに自分に気がついて顔をあげるところが、うつむきがちなのも気になる。

「……」

「あ、ゲオルグ様」

 やっと気がついたか。ゲオルグは怪訝に思って、どう声をかけたらいいかと懸念していた。

「どうかなされたのですか」

「大丈夫ですか」

「え?」

「顔色がよろしくないようですが」

「そんなことはありませんわ。お気のせいですわよ」

 しかし、とフレイアを伺うと、やはり血色がよくない。

「いえ、誰かに診せましょう」

 と、彼女を止めようとしたとき、フレイアの身体がぐらりと揺れた。

「!」

 ゲオルグは咄嗟にそれを抱きとめた。

「誰か、緑人族を呼べ」

 ゲオルグはフレイアを抱き上げて、そう叫んでいた。



 フレイアを彼女の部屋に運びベッドに横たえると、なんとなく辺りを見回した。そこはかとなくいい香りがして、無駄なものがなくて、小さな水盤があり、植物が飾られていて、書き物机と本棚がある。彼女らしい部屋だった。

「――」

 ふと、机の上になにかをみとめた。

 ――これは?

 歩み寄って見てみると、白い花の押し花だった。そこで、緑人族の者がやってきて、フレイアの具合を診始めたので、ゲオルグは部屋を出た。

 そして検診を終えた緑人族が出てくると、彼はフレイアの様子を尋ねた。

「どうだ?」

「あれはピラ熱ですな」

「……というと、過労でなる」

「そうです、働きすぎです。一週間は安静にしているように言いました。まあ、せいぜい精のつくものを食べて、静養することです」

 ゲオルグは扉の方を見つめて緑人族を送り出すと、部屋のなかに入った。フレイアは起き上がっていた。

「ゲオルグ様」

「フレイア殿」

「お聞き及びですか?」

「働きすぎだそうですね」

「ピラ熱だとか」

 ゲオルグは呆れたようにフレイアを見やった。

「貴女というひとは……」

「――え?」

「まるで他人事だ。少しは自覚なさい」

 腰に手をやって自分を叱るゲオルグを、フレイアは目を丸くして見ている。そしてくすくす笑いながら、はい、と言うと、

「仔猫、元気ですよ」

 と笑った。

「名前、ミラにしたんです。女の子だったので」

「誤魔化してもだめです」

「一緒に寝てるんです」

「聞いてるんですか」

「大分大きくなりました」

 にこにこと続けるフレイアに、ゲオルグが根負けした。

「まったく……」

 そしてちらり、と机の方を見ると、彼は言いにくそうに切り出した。

「ところで、」

「はい?」

「……あの押し花は」

「押し花?」

「どうしたのですか」

「ああ……」

 フレイアはなんのことだろうかという顔をしていたが、ゲオルグの視線を辿っていってそのことかという表情になって笑ってこたえた。

「頂いたお花、枯れる前に押し花にしたんです。そうしたら、いつまでも手元に持っておけると思って。それに」

「――それに?」

「それに、そうしておいたら頂いた方のことも思い出せるでしょう?」

「――」

 胸に差し迫る、なにか。

 そのなにかの正体が掴めなくて、ゲオルグは言葉に詰まった。言葉に詰まって、困り果てた。困り果てて、仕方なく立ち上がった。

「……もう戻らなくては」

 言うや、彼はフレイアの顔も見ずにさっさと行ってしまった。

「あら……」

 フレイアはそんな彼を見て、またくすくすと笑って、それから白猫がベッドに飛び乗って来たので、その背中をやさしく撫でた。

 それからも、ゲオルグはまめにフレイアを見舞いにやってきた。緑人族が精のつくものを、と言っていたのを真に受け、

「猟に行ってきました。獲物です」

 と料理させた鳥を持ってきたり、

「この薬草がいいと聞いたので、煎じさせました」

 と言っては肉と共に運ばせたりしてきた。フレイアはその度礼を言うのだが、ゲオルグは決して長居をしたりせず、そそくさと部屋を出ていってしまって、ろくに彼女と会話をしないので、話という話もできなかった。

 そうして一週間が過ぎ、フレイアも床を払うことができ、無事復帰となった。

 世話になった礼をしようと、フレイアはゲオルグの執務室を訪ねた。

「……貴女ですか」

 相変わらず無表情の彼は、少し困ったように言った。

「今日から復帰したのでお世話になったお礼に参りました」

「それはなにより」

 呟くように言ってまた書類に目を落とすそのうす青い瞳に、変化はない。

「ゲオルグ様」

「はい」

「その帯、使って頂いてるんですね」

「――肌身離さず、使うと言いましたから」

「嬉しいです」

 じゃあ、と言って、フレイアは執務室を後にした。呆然と自分の背中を見つめているゲオルグの視線にも、気がついていた。


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