第三章 2
1
新年の祭りの時期が近づいてきた。毎年白縹の月の十五日は、新しい年を盛大に祝う日だ。
それは白の地区から始まって、水色の地区に続き、緑の地区まで次ぎ、最後には宮殿で締められるというものだ。
二回転半ねじれた、アクルという不思議な角を持つ黒い山羊を引き連れて街中の通りという通りを練り歩くのである。どんな裏路地であれ、例外はない。
鳥人族がこの日のために山からひときわ大きなアクルを探してくる。
この祭りは、太陽神が創世の折りに山羊に戦車を引かせて世界を回った逸話に基づいているのだという。アルトゥムにはこんな話はない。
この日祭りの警備のために街に出ていたゲオルグは、大きな黒い山羊が人々に連れられて行くのをみてやれやれとため息をついているところであった。そこへ、なにやら怪しげな人影が街角へ入っていくのがみられた。
見咎めてついていくと、どうやら女の手を掴んでいるようである。嫌がる女を、連れ込もうとしているのだ。
「おい待て。なにをしている」
その手を逆手に取って止めると、間に割って入る。どうやら男は三人連れのようだ。
「あっなにしやがる」
「それはこっちの台詞だ。嫌がっているだろう。手を離せ」
「余計なことをするんじゃねえ」
「ゲオルグ様……!」
知った声に目を向ければ、女はなんとフレイアである。ゲオルグは目を剥いた。
「貴女でしたか」
「ちっ、なんでいお前ら知り合いかよ」
「つまんねえな」
「ちゃんと見張ってな」
「おい行こうぜ」
三人連れは道に唾を吐きながらどこかへ行ってしまった。
「こんなところでなにをしているのです。護衛はどうしました」
「お使いを頼まれて、人込みではぐれてしまって」
「とんでもない能無しがいたものですね。後で叱っておきましょう」
それにしても、とゲオルグは腕を組んだ。
「しょうがないひとだ」
「え?」
「貴女というひとは、まったくもって目が離せない。あの日から」
「――あの日?」
「そうです。女官選定のあの日から、まったくもって目が離せない女性でした」
「――」
ゲオルグの目が、遠いものを見る目つきとなっている。
「十六で宮殿に上がったあの日、貴女は誤って壺を割ってしまって、大騒ぎになりましたね。見ていた私もひやひやしていたものでした」
「いらしていたんですか……」
「あの時、まだ父は生きていて、私は一介の警邏隊長に過ぎませんでした」
あの日から、私の目はあなたに釘付けになっていた。
その言葉を、ゲオルグはすんでのところで飲み込んだ。
しかし、そのうす青い瞳はまっすぐにフレイアを見つめていた。
二番目の月、露草の月となって、寒い日が続いた。
雪がちらつくある日、ヴァリデスはティーアを遠乗りに連れて出た。
城壁を出ると、そのまま砂丘を昇ってゆく。彼方に目を馳せると、雪ではない、なにか白いものがかたまっていた。
「アーモンドの花だ。この季節に咲く」
「こんなに寒いのに……」
その、雪のように白い様は、吐く息のようだ。
「桜に似ています」
「桜?」
「はい。アルトゥムでは春に咲きます。桜が咲くと、春の訪れです。みな、冬の終わりになると桜が咲くのを心待ちにしているのです」
「どこに行っても人の心はそう変わらないものなんだな」
ヴァリデスはしんみりと言った。
なのに、なぜ争いなどが起きるのだ。
そう言いたげな彼の横顔が、却って悲痛に見えた。ティーアはなにも言うことができなかった。
宮殿に戻ると、ヴァリデスはティーアを抱き締めてきた。こういう時、ティーアは彼を拒めない。表へ出て冷え切った身体が、暖炉の前で抱き合って温かくなる。肌を合わせていると、時間を忘れた。
「冬のアルトゥムには、花は咲かないのか」
「梅という花が咲きます」
「どんな花だ」
「多くは白い、香り高い花でございます。赤いものや、薄桃色のものもございます」
「薫香族に言って香の物を作らせてみるか」
「それが、不思議なことに、梅の香りの香の物は、作れないものだそうです。梅の香りは一瞬のもので、作ろうとしても作れないのだとか。ですから、成分はわかっていても、決して人の手では作れないものなのだとか」
「不思議だな」
「はい」
パチ、と暖炉の薪が爆ぜた。ティーアの背中から、ヴァリデスが抱き締める。いつまでも、こうしていたい。いっそ、時間が止まってくれたら。いっそ、このままなにもかも忘れて、逃げ出せたら。
戦の重圧は重く、若い二人にはあまりにも負担が大きかった。
それでも、ヴァリデスはなにも言わずに今日も執務室へ向かう。王として、砂の国の誇り高い首長として。
開戦の緊張状態にあっても、市民の争いごとは普通に起きる。日常の裁判は続けられた。 その日の訴えは、酒場で眠ってしまったばっかりに金を盗まれてしまった男の裁きであるという。
「……なんだと?」
国王は書状を読み上げた宰相に聞き返した。
「酒場で眠ってしまったばかりに金を盗まれてしまったそうです」
「……それは自業自得というやつではないのか」
「そうかもしれませんがどうも訴えは違うらしいのです」
「では男の言い分を聞こう。連れてこい」
訴え人が入ってきた。彼の言い分はこうだった。
「申し上げます。私は先日、《樫の樹》通りの酒場で飲んでおりました。瓶で言いますとニ、三杯も過ごしたでしょうか。いい気分になってそこで眠ってしまったのです。そして気がついたら夜半過ぎ、懐は空っぽで、誰も私を起こしてはくれず、店主に支払いができず、主は私を不払いで牢屋に入れると言うのです。あんまりでございます」
「ふむ。もっともな訴えだな」
「せめて、支払いを待ってもらい家に帰って金を取って支払うくらいの猶予はほしいのです。私は正直者です。逃げるなんて真似はしません」
「ふむ」
国王は肘をついた。
「酒場の店主の訴えはどうなっている」
「主を連れてこい」
宰相が声を張り上げると、今度は反対側の扉から太った男が連れてこられた。
「申し上げます。この男の言うことは嘘八百でございます。この男は料金踏み倒しの常習犯で、ツケをしては踏み倒すのでほとほと困っているのです」
「~~」
ヴァリデスは頭を抱え込んでしまった。
どちらか一方の言うことが、真実だ。しかし今それをここで見抜くことは困難である。「宰相、どう思う」
ヴァリデスはゲオルグに意見を求めた。
「決闘でもさせますか」
「そんな。私は平和主義です。決闘だなんてとんでもない」
「長」
「はて、真実を言う薬でもあればよろしいのですが」
「長老」
「困りましたな。双方一歩も引きませんことには」
ヴァリデスは弱りに弱って、横にいるティーアを見た。王妃はにこにこと笑ってこう言った。
「訴え人の方は、お金を盗まれてしまって今までのお金を払えそうにもない。でも、家に帰ればひとまず昨晩の料金は払うことはできる。ならば、とりあえずそのぶんのお金は払うべきでしょう」
「今までのツケはどうする」
「それは、今回の争点ではありません。あくまで論点は昨晩の支払いです。ツケのことはツケのことで、酒場のご主人と訴え人の方がもう一度話し合えばよいことです」
「そんな!」
「それで揉めたのなら、またここに来て訴えればよいだけの話です」
「なるほどな」
国王はにやりと笑った。不満そうにぶつぶつ言う酒場の主人に、
「聞いたか。王妃はこう言っている。国王もそれに賛成だ。ツケのことは、お前の責任で大人と大人、よくよく話し合って決めるがいい。それで解決しなかったらまたここに来ることだ。公正な裁きを下してやろう」
これにて解散、と国王が声をかけると、裁判の席はこれで終わりとなった。私室に戻って着替えていると、ヴァリデスは笑いながらティーアに言った。
「まったくもってあれは愉快だったぞ」
「出過ぎた真似だったでしょうか」
「そんなことはない。助かった」
そしてティーアの白い顎に指を這わせ、
「賢い妻で俺も嬉しいぞ」
といたずらっぽく言ってくちづけした。
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