第二章 7

 王妃付きの侍女の躾が始まっていた。

 ティーアの選んだ娘たちは器量は様々だったが、どれも個性が強く、手先が器用な者もいれば驚くほど不器用な者もいて、一筋縄ではいかなかった。刺繍を教え、掃除の手ほどきをし、縫い物を教えて一日が終わった。

 またある日は華道を教え、紅茶の淹れ方を教えて一服して、そうして毎日が過ぎていった。公務の合間合間にやらねばならなかったから、忙しかった。

 そうして日々が過ぎていった青白磁の末日も近いある日、ゲオルグは宮殿でフレイアを探し出してこう告げた。

「今日は貴女の命名日ですね」

「――」

 扉に寄りかかり、やにわに彼はこう言った。

「お祝いに、たまには城壁の外に出てみましょう」

 いい天気ですよ。そう言って歩き出した彼の歩調は、フレイアのそれに合わせるかのようにゆっくりとしたものだ。まるで、彼女がついてくるのがわかっているかのように。

「よく覚えておいででしたのね」

「記憶力はいい方ですので」

 どこへ行くのだろう――城壁の外だなんて、出たことがない。ヴァリデス様とですら。 そんなことを思っていると、馬場へやってきた。そしてゲオルグは馬房の前までやってくると、馬具をあっという間に揃えてしまい、

「さあ行きましょう」

 と馬の手綱を引いて言った。そして馬にひらりと乗ると、そこから手を差し出してフレイアを抱き上げた。

 風を切って、馬が走り出した。馬上から見る景色は高く、速く、どれもが新鮮だった。 いつも窓から見る砂の景色が、目の前に広がっていた。

「あれが《青の丘》です」

 ゲオルグが指さした先に、砂丘が見える。いつもより、大きく広がる光景だ。渇いた風が、鼻を通る。喉が、ひりつく。言葉が出ない。

「あ……あそこに水たまりがあります」

 フレイアは彼方に見える水たまりを指して言った。

 ああ……ゲオルグはそちらを見て顔を上げた。

「あれは、水たまりではありません」

 行ってみましょう、そう言って彼は掛け声と共に馬を走らせた。砂丘を駆け上り、それをまた下って、やがてその水たまりらしきものにたどり着くころ、フレイアはその正体を目の当たりにした。

 それは、ひび割れた砂の地であった。

 砂の地面がひび割れて、それが日に照らされて反射して水たまりのように見えているのだ。

「――」

 呆気に取られてそれを見ていると、

「時には残酷な幻です。渇いた旅人には特に」

 とゲオルグが言った。そして彼は、

「では、本物の水たまりを見に行きましょう」

 と言ってまた馬を駆り始めた。しばらく走っていると、今度は本当に水のにおいがし始めた。なんだろうと思って目を馳せていると、彼方に緑が見えてくる。

 オアシスだ。

 そこに着くと、ゲオルグは馬から下りてフレイアを抱き上げて下ろした。

「涼しいですね」

 青白磁の月とはいえ、砂漠は暑い。オアシスにいると別世界のように涼しい。

 泉のほとりで腰を下ろして、水に足をつけた。

「水が冷たくて気持ちいいですね」

「喜んで頂けましたか」

「ええ。こんな命名日は初めて」

 フレイアは微笑んだ。それを見て、ゲオルグは口元にうすく笑みを浮かべた。

「それはなにより」

 フレイアはそんなゲオルグを見て、不思議に思う。

 ヴァリデスと恋人であった時は、なにを考えているのかわからない男だと正直思っていた。いつも無表情だし、どこに行くにもなにをするにも大抵影のようにヴァリデスのお供をしていて、およそ二人きりになれた試しなどなかった。

 彼の不思議なうすい青い瞳に見つめられると、それも嘘のように思えてくる。思わず沈黙していると、ゲオルグもすっと目をそらしてしまった。それでなんとなく気まずくなって、フレイアは宮殿の方向に目をやった。

「ここからは宮殿は見えませんのね」

「ええ、見えません。なにもかも、幻のようです。なにもかも、すべて」

 ゲオルグが遠い目になってなにかを呟いたので、え? と言いそうになったが、その目がなにか昔を見るようなものであったので、なんだか聞くことが憚られて、フレイアは尋ねるのをやめた。

「さあそろそろ戻りましょう。あなたが抜け出したのが女官長にばれてしまうより前に」

 ゲオルグはそう言って立ち上がった。

 二人は日暮れ前に宮殿に戻った。

 二人がいなくなったことに気づいた者は、誰もいなかった。


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