第二章 6

 翌朝、王と妃の目覚めが遅くても、誰も訝しく思わなかった。二人とも王の命名日で当日の朝から忙しくしていたし、夜まで動きっぱなしであったから、翌日の休日くらい遅寝でいても、どうということはないとみな寝坊を楽しんだ。

 二人が朝食を食べている間に、シュタムが寝室の片づけをした。敷き布を代えている間に彼女は、あるものの変化に気づいた。

「……?」

 白い敷き布の上に、赤い染みがついていたのである。

「――」

 彼女はそこに立ち尽くし、そして隣の部屋に通じる扉を見つめ、いつものように無表情のまま、また敷き布を黙って代え始めた。

 そして何事もなかったかのようにすまし顔で王と王妃の元へ戻り、ティーアへ向かってこう言ったのだ。

「お食事はお済みでございますか、王妃様」

 何気ない一言であった。

 しかし、物事に敏感な女官たちはすぐにそれに気がついた。

 ねえ聞いた? いま確かに。ええ聞いたわ。シュタム様、確かに王妃様って仰ったわ。

 それはその場にいた数人の女官たちから、すぐさま宮殿中の女官たちに伝わった。

 あの、頑固に姫様呼ばわりしてたアルトゥムからついて来てた王女様付きの侍女が、王妃様呼ばわりしてたって。王妃様? 確かにそう呼んだの? 聞き間違いじゃなくて?  ううん、確かにそう呼んだって。一度や二度じゃないわ。昼の給仕の時もそう呼んでた。 私も聞いたわ。私もよ。確かにそう聞いた。

 噂が噂を呼び、それを聞いた女官が二人や三人ではなくなっていって、とうとうフレイアまでもがそれを耳にした時、噂は噂ではなく真実となってそこに確実に在るものとなっていた。

 そうして、ティーアは真の王妃となったわけである。

 こうなると、ヴュステの王妃としてやることがある。

 十二氏族の娘たちのなかから王妃付きの侍女を選ぶことである。

「王妃付きの侍女……?」

 ティーアは首を傾げた。ヴァリデスはナヴィド水を飲みながらうなづいた。

「王国の伝統だ。初夜を終えた妃は十二氏族のなかから気に入った娘を一人ずつ選び、行儀見習いをさせる。裁縫から刺繍から料理からすべて、身の回りのことをひとりでできるように躾けるのは王妃の役割なんだ。娘たちはそれを身に着けて、今度は自分の部族の娘たちにそれを教える」

「はあ……」

 ティーアは王族の生まれだから、どこに出しても恥ずかしくないようにそういった教養は小さい頃から叩き込まれている。だから、それをするには吝かではない。

「どうした、気が進まないか」

「いえ、そんなことはありません」

 ティーアは両手を振った。

「ただ、恐れ多くて」

 ヴァリデスはさもおかしそうに笑った。

「一国の王妃がなにを言う。恐れ多いものか」

 頼んだぞ、と言うや、ナヴィド水を飲み干すと、ヴァリデスは立ち上がって行ってしまった。

 翌日から、王妃付きの侍女の選別が始まった。

 十五から十九までの娘たちが十二氏族から集められ、大広間にそれぞれの部族ごとに大集合である。

 簡単に部族と名前を告げ、得意なことと好きなことを言う以外は、してもらうことはなにもない。よって、ティーアの好みと独断と偏見だけで決められることになった。

「なんだかそれでは娘さんたちに気の毒みたい」

 シュタムとフレイアにそう言ったティーアに、シュタムは相変わらず無表情に言った。

「それでよろしいのでございます。特権でございます」

「そうですわ王妃様。王妃様付きの侍女というくらいですもの、王妃様のお好みでなくてはどうにもなりませんわよ」

 フレイアもそう囁いた。

「王妃様、猫の目族のメルローズと申します。十六になります」

 前に進み出た娘を見て、あら、とティーアが呟いた。

「お気に召しましたか」

「目の光が違うみたい」

「では羊皮紙に花丸をお付けください」

「メルローズ、と」

「次、巨人族のクーリナ」

 そうして十二人の娘たちが選ばれていった。

 ティーアの毎日は益々忙しくなっていった。

 翌月、六番目の月、青白磁の月となった。

 二度目の『ル・シャ・レル』、死者を弔う祭りが催された。ティーアは亡くなった父を思った。父君の周りに花が降りますように、あちらで寂しい思いをなさいませんように、と祈った。

 この月は首都落成の月でもある。去年は先王の喪中であったため大した祝い事はできなかったが、今年はその分盛大になるだろう、ヴァリデスは窓の外を見ながらそう言った。「首都落成の月は特別なんだ」

「先年は特別なにもしませんでしたね」

「いいものが見られるぞ」

「なんでしょう」

「内緒だ」

 それに、青白磁の月はククル・ハクティの月でもある。ククル・ハクティとはこの月独特の祭りの呼び名のことで、この月に生まれた赤子はどれも、特別な占いをすることで知られている。

 この月に生まれた赤子は、色とりどりの紙で飾られた鳥籠のなかに入れられる。すると文房具や本、鏡などの様々な品物が赤子の前に現れるのだ。

 赤子はそのなかから一つを選ばなければならない。選んだものは赤子の将来の趣味や職業を象徴するものと信じられている。

 さて、首都落成の祭りの日が近づいてきた。

 この日の夜は色々な色の紙の提灯に燈火を灯して、それを空に放つ。ヴュステの空が一番明るく、美しくなる晩だと言われている。

 ティーアはそれを宮殿の窓から眺めて感嘆の声を上げた。

「きれいですね」

「美しいだろう」

 千差万別の色の燈火の光が、ヴァリデスとティーアの顔を照らしている。光が映えて、色が顔に映る。ヴァリデスはティーアの横顔を惚れ惚れと見つめた。

 彼女がヴュステに来て一年、ティーアをこんなにも愛しく思うとは、予想だにしていなかった。

 その顔にそっと指を這わせ、愛しげに肩を抱く。

「殿?」

 そしてたまらずに抱き寄せる。その力が強くて、ティーアは息ができない。

「――」

 そのままベッドに倒れこみ、吐息を絡ませる。手と手が重なり合い、肌が重なり合う。「ティーア、知っているか。俺がこうすると、お前の白い肌はうっすらと蓮の色になる」

「ああ……殿……」

「俺だけが知っている」

「……殿……」

 その頃、城下ではフレイアとゲオルグが首都落成の夜を共に歩いていた。ゲオルグに誘われて、フレイアが外出許可を取ったのである。

「宮殿から見るのと実際に歩くのではまた趣が違いますね」

「そうですね」

 フレイアは普段宮殿から出ることは滅多にないので、出歩くことができて楽しそうである。それを横目で見ながら、ゲオルグは何気なく言った。

「青白磁の月は貴女の命名月でもありましたね」

「あら」

 フレイアはゲオルグの長身を見上げた。

「よくご存知ですね」

 しかし、よく考えみればゲオルグとはヴァリデスと恋人の頃から知り合いである。ヴァリデスには命名日を祝ってもらったこともあるし、それでゲオルグが自分の命名月のことを覚えていても不思議ではない。

「あなたがククル・ハクティで選んだ品物はなんでしたか」

 ゲオルグが尋ねると、フレイアは笑顔になった。

「本だったそうです。両親は女なのに学者になるのか、とがっかりしたそうです」

「それは手厳しい。女性でも優秀な学者は大勢いるというのに」

「どうせなら鏡のほうがよかったのに、と嘆いたそうです。でもまさか、女官になるとは思ってもみなかったでしょうね」

「花嫁、という品物はないのでしょうね」

「――え?」

「あれば、私も見てみたかった」

 雑踏のざわめきがうるさくて、その呟きまではフレイアには聞こえなかった。


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