第一章 10
気まずい空気が二人の間に流れ続けた。二人はほとんど話さず、目も合わさず、玉座の間で語り合うことはあっても、あくまで政務に関して必要なことを話すのみで、儀礼的な会話だけが続けられた。
「どうもおかしいな。陛下はどうされたというのだ」
ゲオルグが首を傾げ、
「なんだか姫様のご様子がおかしいわ。ねえ、そう思わない?」
と、ヴェルジネがシュタムに尋ねる。女官たちがひそひそと噂話に興じるようになり、フレイアまでもが眉を寄せるようになった。
二人の間に会話がなくなってひと月、十番目の月、紺青の月となった。
ティーアは故郷から画材を取り寄せて、せめて心の憂さを晴らそうと絵を描くことにした。本を読んでも集中できないし、文字を読んでいてもあの夜のヴァリデスの瞳が思い浮かべられてしまってどうにもならないのだ。
もうだめだ。すべてだめだ。そしてだめにしたのは自分だ。わたくしが、殿をご不快にさせてしまったのだ。あのお方は深く傷ついた。わたくし達は、もう終わりだ。
でも、これでいい。少なくともこれで、兄の野望は阻止できる。計画は失敗しましたと言うことができるだろう。
政務のない日は一日中私室に籠って絵を描き続けた。
そんなある日、ある一報がもたらされた。
「姫様、大変でございます」
ヴェルジネが書簡を持って走ってきた。
「どうしたというのです」
髪を振り乱したそのあまりの有り様に、ティーアは驚いて振り向いた。
「何事ですか」
「お父上様が……」
「――え?」
その書簡には、ハルステン・ヌアザ・ヴィノグラートⅧ世逝去の報が記されていた。
「父君が……」
健康であられたのに、なぜ? ティーアは青くなった。嫌な予感がした。父王は、高齢であったというわけでもない。
兄だ。
直感した。
兄がやったのだ。
あの恐ろしい兄なら、それくらい平気でやる。間違いない。兄だ。
「ティーア」
知らせを聞いて、ヴァリデスもやってきた。
「殿」
「聞いたぞ。お父上のこと、残念だ」
「ありがとうございます」
「葬儀、行くのか。手配するぞ」
ぎゅっと拳を握った。
「……いいえ。帰りません。わたくしは、この国の妃でございます。いくら父王が亡くなったとはいえ、一国の妃がみだりに国を出るものではございません。わたくしは、ここに残ります」
「ですが姫様」
「残ります」
「そうか。お前がそこまで言うのなら、止めはせん。好きにするがいい。……ん?」
ヴァリデスは傍らにあったものに気づいた。
「これはなんだ?」
「ああこれは……」
ティーアもそちらへ目をやる。
「故郷の風景の一部でございます。殿が、見てみたいと仰っていたので……せめて絵だけでも描いてみようと思って」
それは、大判の蓮の葉の群れを下から見た絵であった。葉を下から見ているので、水面も下から見ていることになる。つまり、水底からの視点というわけだ。
蓮の花が咲き、蛙が泳いでいる。船が渡り、水面に輪ができている。
「不思議な光景だな」
ヴァリデスは呆然としてその絵に見入っている。
「こんな不思議な場所なのか、アルトゥムという国は」
「このような場所も、ございます」
「面白い」
ヴァリデスはにやりと笑ってティーアを見た。
「ティーア、もっと描け。俺はアルトゥムをもっと見たい。海も描け。船も描け。俺の見たことのないものを描くといい。もっと俺に見せてくれ」
「は、はい」
「アルトゥムには王妃は帰らぬという書状を送っておく。それでよいな」
「はい」
「では行く」
言って、ヴァリデスは自分の執務室へ行ってしまった。その背中を見つめながら、ティーアは気づいていた、彼とまともに話すのは、一か月ぶりだと。
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