第一章 9
ある日の午後、刺繍をしているティーアのもとへ、ヴァリデスが尋ねてきた。
「ティーア、これをやろう」
差し出された箱は、驚くほど小さかった。
「これは……?」
「開けてみろ」
ティーアが恐る恐るそれを開けてみると、なかには小粒の緑の石が入っていた。
「……」
「石の国から取り寄せた。気に入るといいのだが」
「きれいな石ですね」
「気に入ったか」
「はい」
「そうか。よかった」
ではな、と言い、彼は公務がある、と告げて出て行ってしまった。驚くほど短い訪問であった。
「あんなにお忙しいのに来てくださって……」
「でしたらもうちょっといてくださればよろしいのに」
ヴェルジネが不満そうにぶつぶつ言っている。彼女は、いつもティーアの味方だ。
「それにしても、これはなんという石でしょう。きれいな緑です」
「これは、翡翠でございます」
横から、珍しくシュタムが口を挟んだ。無口なこの女にしては滅多にないことだ。
「翡翠……?」
「ろうかんという、珍しい種類のものでございます。若竹色のものが最良とされていて、この大きさのものでは稀にしか見られません」
「まあ」
「どれくらいの価値があるのかしら」
「お金のことは詳しくはわからないけれど、金貨百枚は下らないでしょう」
ヴェルジネと話すシュタムの言葉に、ティーアは驚いて言葉が出ない。
そんな価値のあるものを、なぜ……? とにかく、失くさないようにしなければ。
しかし、小さい石のことだし、紛失の恐れは多分にある。それでよくよく考えて、加工して指輪にすることにした。そうすればいつも見ることができるし、失くす心配はないというものだ。
鏨族の者に頼んで、指輪を造ってもらった。
すると、どういう意匠のものがようございますか、と聞かれ、そんなもののことは考えてもいなかったティーアは慌てて、
「どうすればよいのでしょう」
とヴェルジネとシュタムに聞く羽目になり、シュタムが、
「このような意匠ではいかがですか」
といくつか描いてくれたなかから気に入ったものを選び、鏨族に渡して製作してもらうことにした。
「助かりましたシュタム」
「恐れ入ります」
「そういえばあなたはルドニークの出身でしたね」
「薄暗い国です。地下にあるので日が射さず、そのため目が悪い者がほとんどです」
「でも宝石や金がたくさん採れるのでしょう。行ってみたいわ」
ヴェルジネがうっとりとして言うと、
「想像とはかけ離れた場所です。暗いし、埃っぽいし、人は陰気です」
だからシュタムも石のように陰気なのか、とは言えなかったが、しかし石の国の三国における役割は大きい。通貨を担い、産業に大きく貢献している。金の鉱山を持っているから、その資金力を後ろに黄金騎士団という、ヴュステに次ぐ軍隊をも持つ。
「出来上がりが楽しみですね」
「そうね」
謁見の合間政務の合間、ティーアは指輪ができるのを楽しみに待った。王妃の注文だというので、製作はなにを置いても優先されて造られた。それでも、出来上がりには三週間がかかった。
そうして出来上がった指輪は白金の覆輪で囲われた、なんでもない単純な造りのもので、それでいて細部は実に丁寧に造られたものに仕上がっていた。
ティーアはそれをとても喜び、鏨族に礼金をはずんだ。そして右手の薬指にそれをはめて、ずっと眺めていた。
ヴァリデスは、夕食の時にそれに気がついた。
「……おや、その石は見覚えがあるな」
はい、ティーアは顔を上げて微笑む。
「鏨族の者に造ってもらいました」
「俺が贈った石か」
「大層価値があるものと聞き、驚きました」
「なに、お前の瞳の色に近いものを探したのだが、なかなか見つからなくてな」
ティーアの瞳の色は、月桂樹の葉を日に透かしたような緑だ。
「お気持ち、嬉しく思います」
ティーアは微笑む。ヴァリデスはそれを眩しげに見た。
その夜、寝室でヴァリデスはティーアにせまった。
「ティーア」
強く、熱く彼女を抱き締め、その耳に囁きかける。
「お前を抱きたい」
「――」
腕のなかで、ティーアが硬くなる。
「殿」
いつもなら聞く制止も、彼の耳には届かない。自分を抱き締める腕が、一層強くなる。 頭から額へ、ヴァリデスの唇が落ちてくる。やがてはそれが、唇の端に触れる。
「……と、殿」
「ん、くちづけしような」
とてつもない甘さを伴った声色で言われてしまえば、逆らえる訳もない。甘い誘いを受け入れてしまって、口を開けろと何度も唇を舌先でなぞられる。
素直にそれに従えば、今度は舌が絡みとられるようなくちづけが始まる。心臓が痛いほどにときめく。
でもやっぱりだめだと唇を離そうとすると、
「もう少しだけ」
「ほら。続きしよう。……な?」
なんて言われて、ヴァリデスはまったく止まってくれない。このまま身をまかせたい、愛する男に抱かれてしまいたい――脳が甘やかな痺れにとろけそうになったその瞬間、あの恐ろしい声が響く。
ティーア、忘れるな。お前の立場と使命を。
ぽろり、涙がこぼれた。
ヴァリデスは、それに気づいた。彼は身体を離した。
「……泣くほど俺が嫌か」
「あ……」
「……もういい」
そして寝室を出て行ってしまった。
「殿……」
ティーアは絶望のあまり、そこに立ち尽くした。
そして一人、声もなく泣いた。泣き続けた。
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