第一章 8

「陛下、塩の精製に問題が生じました」

 ある日ゲオルグがやってきてなにかを報告し、二人して難しい顔をしていたかと思うと、「これは厄介だな」

 とヴァリデスが呟き、どこかへ行ってしまった。こういう時、ヴァリデスのためになにかしてあげたくてもなにもできないもどかしさで、ティーアは歯がゆくて歯がゆくて仕方がなくなる。せめて自分が男であればいいのに、と考えることもないではないが、では男であったのならなにかできるのかと考えてもなにもできる気がしない。

 男女の立場が平等なこの国では、男であったなら女であったならという考えはあまり意味を成さないのだ。

 自分ができることといったら、せいぜい気の休まる酒でも出してヴァリデスを慰めることくらいであろう。ティーアは女官を呼んで、緑人族に言ってその類の酒を出してもらうよう頼んだ。

 そして夜半過ぎにヴァリデスが帰って来るのを待っていると、彼はなにやらとても疲れているようである。

「殿、お帰りなさいませ」

「まだ起きていたのか」

「お酒を用意しておりました」

 ヴァリデスは黙って近くに歩み寄ってきた。

「こちら、に……」

 と、ティーアが言う間に、ヴァリデスはティーアに近づき、その細い身体を抱き締めていた。

「と、殿……」

「少しだけ……少しだけだ」

 ぎゅう、と力が込められて、顔が赤くなるのがわかった。息ができない。

「少しだけ……」

 それを物陰から見ていた人影は、そっとそこから離れていくと、部屋に入り静かに机に向かってこう書き留めていた。

『アルトゥム王国ベルトヒルト・シルヴァ・ヴィノグラートⅤ世殿下

 妹君は着々とヴュステ国王の心を掴むことに成功し、お床入りも間もなくかと思われます。あとは時間の問題です』

 そして手紙を鴉に託すと、窓からさっと放った。

 それを見ていた者は、誰もいなかった。



 国王と王妃には、日々すべきことが色々とある。

 謁見での裁判も、その内の一つだ。それは玉座の間で週の内三日行われる。

 砂漠での揉め事は、国王が裁く。夫婦喧嘩、兄弟の財産分与の取り分、隣近所の騒音の問題から殺人事件まで、それは幅広い。

 市井の犯罪を取り締まる足長族が首都からその外の砂漠の街という街、村という村のあらゆる争い事を持ってきては、玉座の間で国王がそれを裁くのだ。

 それは、若い王にとっては頭の痛い問題でもあった。

 なんとなれば、彼もまた人の子であるから、感情に左右されて時に裁きを誤ってしまうことがあるからだ。

 そんなとき、年上の側近であるゲオルグの助言や長老たちの意見、十二氏族の長たちの言葉がものを言うのはもっともなことであったが、それでも採決が出ない場合、どうしようもない時、国王は困りに困ってこんなことを言うことがあった。

「参ったな……長老たちの意見もごもっとも。長たちの言葉も参考になる。しかし、どうにも俺には決められぬ。……妃、お前はどう思う」

「……わたくし、で、ございますか?」

 一同は驚いて王妃を見る。若干十七歳の、年若い妃である。しかも、まだ床入りをしていないと専らの噂だ。

「そうだ。あくまでお前の意見を聞きたい。参考までに」

「そうでございますね……」

 王妃は、その月桂樹のようなおおきなおおきな瞳を下に向けてしばし考え込み、しばらくして、

「……わたくしは、反対でございます。人命はいつの世も尊いもの。死刑は、やりすぎだと存じます。減刑を望みます」

 おお、とため息が漏れた。おとなしくて、およそ意見などというものとは程遠い印象の強いあの王妃が、このような公の場であれだけ自分の言葉でものを言うとは。

「そうだな。では、裁きを申し渡す。被告人は、罪一等を減じて強制労働十日とする」

 強制労働とは、砂漠奥の日陰もない日の照りつける収容所で一日中させられる労働のことで、どんな強靭な肉体を持つ男でも一日もすれば自分のしたことを悔いるという過酷な労働のことである。それを十日とは、国王も随分味な真似をしたものだ。

 これにて閉廷、と裁きが終われば、あとは宮殿の私室に戻るのみである。

 私室は、寝室を真ん中に挟んでヴァリデスとティーアのものがある。そこで着替えたり、自分の私物を置いたりするのだ。

「今日は助かった」

 ヴァリデスの着替えを手伝いながら、ティーアは言う。

「あれでよかったのでしょうか」

「いいも悪いもない。命は助かったのだ。強制労働を十日もすれば、二度とやろうとはしないだろう。そういうものだ」

「ならばよいのですが……」

 鋼のように鍛えられたヴァリデスの上半身が、むきだしになった。ティーアの差し出した服に袖を通そうとして、ヴァリデスは振り返った。

「殿……?」

「ティーア」

 彼はそっとティーアを抱き締めた。

「殿……」

 ティーア、ヴァリデスは熱っぽく囁いた。公私に亘り自分を支えてくれるこの女が、愛しくてたまらなかった。

「なりませぬ」

「――」

 腕のなかの彼女の身体が、硬い。自分を、拒んでいる。

「なりませぬ」

「……」

 ヴァリデスはすっと身体を離した。

「すまん」

 そして差し出された服に袖を通した。二人はなにもなかったように寝室に向かった。

 シュタムは、物陰からそっとそれを見守っていた。


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