第一章 7
ある日の朝食の席で、女官の指がティーアの服に引っかかった。女官はその非礼を詫びなかった。
「……なぜ謝らぬ」
ヴァリデスは、それを咎めた。
「お前たち、なぜ誰もそれを注意せぬのだ」
彼は立ち上がって怒鳴り散らした。
「女官風情が、王妃に非礼があってなぜ詫びぬ! フレイア、お前がついていながらこの様はなんだ。ティーアは王妃、俺の妻ぞ。その妻の顔に泥を塗るような真似をしておいて、お前たち無事でいられると思うな」
顔を真っ赤にして怒り狂うその様は、誰も見たことがないものであったという。そう、ゲオルグでさえも。女官たちは彼のその様子に震えあがった。
「女官長を呼べ! もう一度女官の教育を徹底してやり直しさせろ。一国の王妃に対してあるべき礼をとるよう躾けるのだ。これは命令だ」
あまりのことに驚いて、ティーアがおろおろとしている。女官長がやってきて、女官たちが下がっていった。ヴェルジネがしめしめという顔でにやにやとして、シュタムは相変わらず石のように無表情だ。
「ティーア、すまなかった。ずっと気がつかなかった」
「殿……」
「今まで辛い思いをしていたのだろう。早速約束を破ってしまったな」
「――約束?」
「出会った最初の日に言っただろう。辛い思いはさせないと」
「あ……」
そういえば、そんなこともあった。ただの口約束だと思っていた。あれは本気だったのだ。
身の回りの世話をする女官がいなくなってしまったので、いきなり不便になってしまった。だから、そういったことは専らヴェルジネとシュタムがやっている。二人ではまあまあ手が足りないが、いないよりはましだろう。
フレイアが時々やってきて、様子を見ながら手伝ってくれている。女官たちは女官長の厳しい監視付きで徹底的に鍛えられているらしい。いい薬になりそうです、とフレイアはくすくす笑いながら教えてくれた。
俺はもう忘れた、お前も忘れろと言ったヴァリデスの言葉と今朝の彼の態度にヴァリデスの愛を見たような気がして、ティーアの胸が少しだけときめいた。
しかし同時に心が警鐘を鳴らす、
彼を愛してはならない、兄は恐ろしい男だ。
そして秘かに心が落胆するのだ。自分は本当は自由でもなんでもないと。
ひと月が経って、ぽつり、ぽつりと女官たちが戻ってきた。
彼女たちは、見違えるようにおとなしくなっていた。
そうして九番目の月、瑠璃の月を迎え、砂漠は秋になろうとしている。この頃になると、砂の地の空は深い青になっていく。
「空の国の秋はどのような季節だ」
「海の色が変わります」
「ほう。どのように変わる」
「青から、深い、紫を帯びた青に変わっていきます」
「一度見てみたいものだな」
「わたくしには、砂漠の海で充分でございます」
ティーアは微笑む。渇いた、不毛の土壌という当初の印象はもう、なくなっていた。確かに水と緑は少ないが、その代わりに美しい風紋と金色の砂が広がる土地であった。
「帰りたいと、思うか」
「いいえ、少しも」
本心だった。故郷は確かに美しい。しかし、女には住みにくい国だ。
資源が豊かだが、人心が狭量だ。それに、故郷には兄がいる。兄のいる場所に、心の平和はない。
「わたくしのいる場所は、ここでございます」
殿のいる場所に、いたい。殿といたい。いつしかそう思うようになっていた。それが愛だということには、まだ気がついていなかった。
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