第3話 忘れられない想い
イザベルと両親の間にある溝は、イザベルが赤子の頃から一切埋まっていない。
両親を怖がり火が付いたように泣くイザベルに、まずは父親が、次に母親がさじを投げたのだ。
この子は、自分たちを受け入れない……と。
その後、二人の関心は翌年生まれた弟と、更に二年後に誕生した妹に向けられることとなる。
イザベルに対しては愛情の欠片もないが、それでも公爵家の娘として恥ずかしくないようにと教養だけは身に付けさせた。
金と権力、貴族としての教養だけが与えられたイザベルは、将来は家にとって有益である家門に嫁がされる。
公爵家の道具として育てられた。
普通の令嬢であったならば、心を閉ざし、悲嘆したかもしれない。
我が儘に育ったかもしれない。
人の心の痛みが分からない、冷たい人間に育ったかもしれない。
けれど、イザベルは小夜としての記憶を持っている。
今世で両親からの愛情はなくても、前世で両親に愛してもらった記憶がある。
イザベルにとって今世での両親は、衣食住を整え、教養を与えてくれる、血が繋がっただけの存在であった。
本邸へと数カ月ぶりに足を踏み入れたイザベルは、父親が何を言うのか分かっていた。
(本当に、父上が呼ぶ時はろくなことがない)
どんなに嫌でも、従う以外の選択肢はない。
長い廊下を歩き、着いた一つの部屋。
ため息をつきたい気持ちも、逃げたい気持ちも、深く吐いた息とともに追い出していく。
(呪われた時に比べれば大したことはない。大丈夫じゃ。乗り切ってみせる)
ノックをすれば、すぐに扉は開かれた。
出迎えてくれた執事の指示に従い、ソファへと腰を掛ける。
「直に終わる。少し待っていなさい」
「分かりましたわ」
朗らかに微笑み、イザベルは執事の出してくれたお茶を飲む。
「リュナイツ王国のルーヘッドの茶葉ですわね」
「流石、イザベル様でございます。よろしければ、こちらのハチミツもご使用ください」
「そちらはどこのハチミツですの?」
「アザルーノでございます」
イザベルは執事の申し出を断った。
執事の勧めてくれたアザルーノ産のハチミツでは、鉄分が多く含まれており、紅茶が濁ってしまうからだ。
父親からのチェックは既に始まっている。
気を抜けば、また大切な誰かがイザベルの元から奪われる。
「イザベル、お前に大事な話がある」
待たせたことへの謝罪もなく、目の前のソファにどかりと座り、尊大な態度で父親は言った。
不快に思いながらも、イザベルは真剣な表情を作る。
「お前も知っていると思うが、今度のパーティーはルイス殿下の婚約者の選定をするためのものだ。必ず、お前が婚約者になれ」
「……畏まりましたわ」
「公爵家は
「はい、お父様」
「期待しているぞ」
イザベルは笑みを貼り付けたまま、重い気持ちで部屋を出た。
(嫌じゃ。今世こそ、穏やかな人生を送りたい。殿下の婚約者に選ばれてしもうたら、また呪われるやもしれぬ)
何か案はないかと考えを巡らせるが、まったく思いつかない。
それもそのはず。父親が求めているのは、マッカート家にとって有益な嫁ぎ先。ルイス殿下以上の嫁ぎ先など、存在していないのだから。
イザベルは顔色悪く別邸まで戻ると、心配するミーアのために安心させる言葉を紡ぐ。
そして部屋に一人になった途端、ベッドへと倒れ込んだ。
(……嫌じゃ。嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃ嫌じゃ!! 殿下の婚約者じゃと!? そんなの、鼻から
イザベルはどうにもならない苛立ちを持て余し、手足をバタつかせた。
だが、あることに気が付くとピタリと動きを止める。
(そもそもじゃ、こんな
皇太子ともなれば、ご令嬢を選び放題。よりどりみどりだ。
もしかしたら、既に心を通わせている相手がいるかもしれない。
(父上は、われが婚約者になると言っておったが、それは父上個人のお考え。客観性を欠いている可能性も十分考えられる。ということは、われがすべきことは婚約者に選ばれなかった時の言い訳の用意じゃな)
自分の方が客観性を欠いている可能性を
「安心したら、お腹が空いてきちゃったわ」
ベッドから起き上がると、直す気にもならなかった前髪をいそいそと戻す。
目の前に前髪という名のカーテンを作り、イザベルは部屋を出た。
目指すは調理場だ。
(ハチミツたっぷりの紅茶でも飲みたいのぅ。うむ。天気も良いし、皆と庭で飲むとするか……)
なぜなら、両親の息がかかった使用人は、すべて理由をつけて追い返してしまったから。
だから、ハチミツで少し濁った紅茶を飲んでも、使用人たちとお茶をしても、廊下を思いっきり走っても、誰も何も言わない。
「いつまでもここにいられないことは分かっているわ。それでも、少しでも長くみんなと一緒にここにいたいと願うのは、我が儘かしら……」
誰の耳にも届くことはない、独り言。
誰かに聞いて欲しいわけでもない。
それでも言葉にするのは、そう遠くない未来に向けて、心の整理をするためだ。
イザベルが家のために嫁ぐ日は、必ず来る。
もうすぐ開かれるパーティーで、ルイス殿下の婚約者がイザベル以外に決まったとしても、すぐに別の婚約者を父親が用意するだろう。
イザベルの未来は政略結婚という道しかない。
「恋じゃなくていい。信頼し合える関係を一緒に作ってくださる方がいいわ。無理でしょうけど、できれば権力のない方が……」
イザベルは前世で焦がれた帝を思い出す。
愛していた。いや、今もなお愛している。
(きっと、われにもう恋はできぬ……)
平凡な恋に憧れていた。
優しい恋愛をしてみたかった。
けれど、イザベルは彼を忘れていない。
生まれ変わった今、二度と会うことは叶わない。
それでも、心が彼を求めてしまう。
「幸せになってくださったかしら……」
確認のしようもない過去を想う。
過ぎ去った時を願っても、意味などない。
そんなことは分かっている。
分かっていてもなお、イザベルは願う。
(どうか……。どうか満ち足りた人生を歩んでおられますように……)
「イザベル様‼」
名前を呼ばれ、振り向けばミーアが立っている。
「天気もいいですし、庭でお茶になさいませんか?」
ティートロリーの上には、ポットやカップ、クッキーといったお菓子にハチミツまで乗っている。
(気を遣わせてしまったようじゃの)
申し訳なく思うのに、気遣ってくれる心が嬉しい。
自然と唇が弧を描いていく。
「いいわね。ちょうど、私も同じことを考えていたの。もちろん、ミーアも付き合ってくれるでしょう?」
明るい声だった。
前世で帝が聞きたいと願っていた、憂いのない声だ。
まだ屋内にいるというのに、どこからともなく、ふわりと柔らかな風が吹く。
その風は、イザベルの頬をなでていった。
一方その頃、ルイス・ファビリアスは、藤色の瞳を細めて窓の外を眺めていた。
「やっとだ。やっと会えるね、小夜」
ルイスは自身の左手の薬指へと視線を落とすと、愛おしそうに指先を優しくなでた。
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