第13話

それからというもの、学校に行っては授業を受けて帰ってくるだけの毎日。テニスという数日前まで眩い光を放っていたものは、僕の心の隅っこにガラクタとなって転がっている。もう、輝きなどない。僕は誰もいない教室にただ一人。他のクラスメイトは部活にでも行ったのだろう。僕のこれからの真っ白の予定とチョークの汚れが少し残っている黒板。僕は窓から見える真っ青な空を見ても何も感じない。ただ、高校生という人生のたった一日が過ぎ去っていくだけ。


「……帰ろう………」


とっくの昔に片付け終わったまっさらな机とにらめっこしていても何も起こらない。僕は重い腰を上げて立ち上がった。


部活にはあれ以来、行っていない。部活に行ったって僕ができることは何もない。そう思ったら、部活に顔を出すことさえ面倒くさくなった。監督やコーチに怪我をしたと伝えると、「しっかり治してこい」と言われただけ。「部活に来い」とは言われていない。僕の燃え尽きた灰の色をした脳みそはそう解釈した。


僕は高校の玄関から外へ出る。もうすぐ夏も終わるというのに暑い。僕はまぶしい日差しを手で覆いながら上を向いた。僕の高校はスポーツに力を入れているためなのか他の高校より少し早く授業が終わる。今までは何とも思ってなかったが、今となっては不都合に感じる。


部活の騒がしい声を聞きながら僕は帰宅の途に就く。正門を抜けると、まだ活気のある街の中。公園では学校終わりの子供たちが元気に遊んでいる姿が見える。商店街ではおばさんたちが井戸端会議。僕ぐらいの人なんていないだろうな。そんなことを思いながら足は前へと動いていく。こんな時間の通学路なんて数日前まで歩いたことなんてなかったのに、慣れというのは単純で、ものの一週間で見慣れた景色へと変貌していった。



早く家に帰っても特にやることはない。強いて言えば勉強だけど、課題以外はやる気が出ない。課題だって、先生にとやかく言われるのが面倒くさいからやっているからであってやる気でやっているわけではない。それに、スポーツに力を入れている学校だから苦になるほどたくさんの課題なんて出ない。今の僕には暇つぶしぐらいにはなっているだろう。


今日の分の課題を終わらせた僕はここ一週間、ずっとベッドの上で、夕ご飯までゴロゴロする。ゴロゴロしたいわけではないけれど、他にやることもない。新しいことに挑戦するなんて面倒くさい。今の僕より公園で見た野良猫の方が忙しいだろう。


「そういえば、公園にキョロキョロしながら歩いている猫がいたっけ……」


考えることもなくなった僕の頭は突然、脈絡のないことを思い出す。確かに、帰りの公園に周りに警戒しながらキョロキョロ歩く猫がいたことを思い出す。それが何だというわけではない。ただ記憶の中にいただけ。記憶に残っていた理由は「やるべきことを持たないで自由に生きている猫が羨ましかった」ということにしておこう。天井にはシーリングライトの白と壁紙の白。何の変哲もない真っ白は僕を眠りへと誘っていった。



「蒼~ごはんよ~」


ドアの厚さ分だけ小さくなった母さんの声で目を覚ました。カーテンの閉めてない窓の外は真っ暗になっている。


「……寝ちゃってた……」


僕は目をこすりながらベッドから立ち上がる。今日は学校へ行って授業を受けただけなのに体が重い。まだ焦点の合っていない目を頼りに真っ暗な部屋を歩き出す。家に帰ってきてから何をやってたっけ。ドアを開けると、階段のまぶしい灯りが僕の開いた瞳孔に飛び込んでくる。


「眩し……」


そうつぶやいた僕の頭には数分前の疑問なんて残っていなかった。



リビングのドアを開けると、母さんはまだキッチンで何か作業をしている。ダイニングテーブルには二人分の食事。あとご飯だけがない。


「寝てたでしょ!」


母さんはキッチンから真っ白のごはんで山盛りになったお茶碗を持って出てくる。


「…うん………」


僕はうなずきながら重たい体をダイニングテーブルの椅子にまかせる。


「さあ、食べましょ!いただきます!」

「…いただきます」


エネルギーの消費していない体にはすこし多すぎる量の夕食を食べ始める。味はおいしいのに。


「そういえば、お父さんから連絡あったよ!単身赴任もう少し伸びそうだって…」

「そっか…」


僕の父さんは単身赴任をしている。中学二年ぐらいの時からだからもうすぐで三年目だろうか。僕の父さんは何でも肯定してくれる人だ。テニスを始める時だって、高校を決めたときだって、「自分が思うようにやりなさい。」って笑顔で言われた。


「あと、高校のテニスはどうだ?って言ってたよ!」

「…………………」


僕は答えを探している。もくもくとご飯を口へ書き込みながら。一生懸命考えている。それでも頭の中は真っ白だった。もしかしたら、真っ黒なのかもしれない。元気よく僕に聞いてきた母さんの口角が下がってきた。タイムリミットだ…。僕は急いで口の中をいっぱいにして小さくうなずいた。


「…うん……」


僕には精一杯の答え。何も言わないのは違う。でも、今の僕にはうなずくことしかできなかった。今日のリビングはいつもより冷たい。窓の外は風が吹いているのかもしれない。僕は箸を止めずに夕ご飯を黙々と食べ続ける。しかし、母さんの疑問は止まらない。


「ねぇ…最近部活、行ってるの?」


事実、最近部活には行っていない。けれど、高校に入って部活が一週間も休みだったことはない。母さんは気づいているはずだ。でも、母さんの顔は不安そうな顔をしていた。僕は心配させているのか。どうすればいいんだ。頭の下でぐるぐる考えたが、何も出てこない。僕の口はつい、思っていることが出た。思わず、ポロっと。


「行っても無駄じゃん……こんな肘で…」


表情や声のトーンなんて何も考えず、ただ思っていたこと。今部活に行っても冷やかされるだけ。あんなに張り切ってたのに直前になって怪我。それなのに、のんきに部活にやってきて、見てるだけ。そんなこと……僕にはできない。


「でも……体力作りとかあるんじゃない?」


母さんは声のトーンを上げて提案する。そう母さんは僕を励まそうそしているんだ。頑張ってたテニスが大切な試合の前にできなくなったんだ、落ち込んでるって思っても不思議じゃない。もう、全部言っちゃったほうが楽かな。そう思って、僕は手を止めた。



「今は、テニス…見たくない……。」



僕の言葉は真っ黒だった。やさしさを粉々に打ち砕くほど。でも、今の僕は、もう僕をだますことができなかった。


「そう……」


母さんはそれだけ言って、ご飯を食べ始めた。




「ごちそうさま……」


僕は食べ終わった食器を片付けて自分の部屋に向かう。心の奥でドロドロになっていたジレンマは決心へと変わっていく。そのまま自分の部屋の机に座り、退部届を書いた。



『退部理由:なんでテニスを頑張っているのか分からなくなったから。』



 僕は書き終わった退部届を丁寧にクリアファイルに閉じて、学校の鞄に入れる。もう今日は何もしたくない。身支度を早めに終わらせて、ベッドに入る。


「これでよかったんだろうか。」


真っ暗な部屋。窓の向こうの夜空はどんな色をしているのだろうか。黒なのか青なのか、それとも白なのか。今の僕には断言できない。綺麗な夜空は僕の部屋からは見えない。僕を励ましている無数の星たちは無意識に光っている街の明かりでかき消されている。それでも僕はベッドに横になったままカーテンの隙間から、星を探した。そこに何かあると感じるから。

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