第12話

「おかえり~思いっ切り雨に降られたね~」


家に到着して玄関のドアを開けると、雨に降られた僕を笑うような楽しそうな声を響かせながら母さんがタオルを持って玄関に出てきた。


「うん……」


僕は無造作に畳んだ折り畳み傘を母さんに渡し、差し出されたタオルを使って折り畳み傘で防ぎきれず濡れてしまった鞄を拭いた。


「あと、よろしく……」


折り畳み傘の片付けが終わった母さんに吹き終わったタオルも渡して、そそくさと自分の部屋に入った。少し湿っぽいラケットケースをいつもの定位置に置き、鞄を片付けた。そして、自分の部屋を出る。身体はいつも通り動くのに、僕の頭は『ある事』でいっぱいだった。準備されている夕食を食べて、お風呂へ向かう。『ある事』、それは僕の頭の中を支配していった。お風呂から上がった後は明日の準備をして早めにベッドに入る。明日は大切な校内選考。今日は早く寝なきゃ。頭では分かっているけど、眠れない。明日が不安で眠れない。楽しみで眠れないわけではない。僕の肘は悲鳴を上げていた。


「痛い……」


変な打ち方になったサーブの時に感じた違和感は痛みに変わっていた。動かさなければ痛くない。でも、動かすと痛い。



「どうして……明日は大事な校内選考なのに……」


真っ暗な部屋。どうしてこんなときに。落ち込み方を忘れてしまったように僕の身体は壁に背中をゆだね、座り込んで動かない。ふと思い立って重い体を起こし、テニスの動きをして痛みがなくなっていないか確認する。それの繰り返し。どうしても受け入れられなかった。これまで頑張ってきたのに……。練習の邪魔をした雨雲は満足してどこかへ去っていった。悪しき雨雲に隠されていた月は顔を出し、まぶしい月明かりを輝かせている。その月明かりはカーテンから差し込み、励ますように僕を照らす。いや、嘲笑っているのか。いつの間にか僕の目からこぼれて床に落ちていた水滴は、気づかないうちに蒸発したのか、跡形もなくなっていた。




 僕はそのまま床で寝てしまっていた。カーテンの隙間から差し込んでいた月明かりはいつの間にか八月のギラギラした日差しに変わっていた。いつ寝たのか分からない。重さに耐えられなくなった頭はいつの間にか床に落ちて、うつ伏せになっていた。


「寝ちゃってた……」


ふわふわした頭が現実に戻ってきたとき、ハッとしたように思い出す。


「肘……」


ゆっくり、腕をあげる。ゆっくり。とてもゆっくり。僕はじっと腕から目を離さない。あげるだけでは痛みはない。このまま、お願い。祈りながら僕はテニスの動きをしてみる。僕の右肘は悲鳴をあげているかのように痛みが走った。




「こりゃ~ひどくやったね……おそらく肘が炎症を起こしてる。」


僕の前の白衣を着た白髪のおじいちゃんは淡々と僕の肘のことを話している。朝、監督に電話して相談すると、「病院に行きなさい」と言われた。僕の校内選考はここで終わった。そして、ここは診察室の中。


「これじゃあ、一か月は肘を大きく動かしちゃいけないよ」


このおじいちゃんは淡々と僕の心を踏み荒らしていく。このおじいちゃんは悪くない、悪いのは怪我をしてしまったのは自分だから。


「やっぱりそうでしたか……前にも一度同じところを痛めているのでなんとなく予想はしてたのですが……」


最初の違和感の時には雨のせいで気づかなかったが、押し寄せる痛みで徐々に過去の苦い思い出が蘇っていた。僕は中学の時に同じところを怪我している。


「そうだったのか~。まあ、日常生活に支障はない程度だと思うから腕をつることはしないけど、テニスは無理だね。」

「………はい……。」


口から絞り出すように返事をすると、膝に手を置いて「よっこらせ」と言わんばかりに重い腰を上げて立ち上がる。看護師さんが開けてくださっている診察室の出口から身体を出して、振り向く。


「……ありがとうございました……」


蚊の鳴くような小さな声はおじいちゃん先生の耳に届いていたのだろうか。一応、形式的なお礼はしておく。けれど、今の僕にはどうでもよかった。




「肘の炎症でした……」


自宅へ戻ってから監督に電話で報告する。


「そうか………まあ、今日は安静にしておけ。」


どうせ、監督からしてみれば期待もしていなかった奴の怪我なんてどうでもいい話だ。せっかく頑張ったのに……。こうなるのなら頑張って練習しなければよかった。サボっていた奴らは今、僕を笑っていると思うとどうにも怒りがこみあげてくるが、最後には怪我した僕が悪いと思うと、怒りもなんだか悲しみと変わって考えるのをやめてしまう。僕はリビングのソファで座り込み、目の前にある真っ暗なテレビの画面を見ていた。いや、見ていたのではない、ただ目線がそこにあっただけ。リビングにあった時計はもうすぐ十一時を指そうとしている。高校に入ってからはテニス強豪校ということもあり、平日は毎日部活、土日もほとんど一日中部活であったため、こんな時間に家にいることさえ、珍しい。


「なんで怪我しちゃったんだろう……」


そうつぶやいたとき、中学で怪我をした時の記憶が蘇ってきた。



あの時は、部活に顔出すと生意気な後輩にいじられたんだっけ?


「せんぱ~い、今日は練習しないんですか~?」

「知ってるだろ。怪我したの!」

「大変ですね~」


あいつ、怪我した僕に半笑いでしゃべりかけてきたんだった。怪我のこと知ってるくせに「練習しないんですか~」って。


そういえば、同級生にもからかわれたっけ?


「蒼、突っ立ってないで練習しろよ!」

「だから、練習できないの!」

「そんなんじゃ、あの子に振り向いてもらえないぞ!」

「うるさいな~……」


テニスコートに入れず、後ろから見ていた僕に向かって同級生みんなに言われたんだ。あの時は、部内の仲間みんなにいじられてたんだ。あの時は「めんどくさいやつらだな~」としか思っていなかったけど、今の僕にそんなこと言ってくれる人なんているんだろうか。僕は何のためにテニスを頑張ってきたんだろう。中学の時は「この仲間と全国大会に出場したい」という明確な理由があった。今はどうなんだろう。僕のテニスへのやる気はここで完全に切れてしまった。

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