第8話

目を覚ますと時計の針は十一時を指していた。真っ暗になった僕の部屋。カーテンの隙間から見える外の風景は暗闇となっている。そういえば、帰ってきたときも外は暗かったような気がする。部屋の静けさがここで何があったのかを思い出ださせる。


「そうか、あのまま寝ちゃってたんだ……」


僕はボソッとつぶやいてしまった。思い出したくもない記憶をこの脳はまだ覚えている。楽しい記憶はすぐに忘れるくせに忘れたい記憶はずっと残っている。人間という生き物は面倒くさい。


「はぁ……」


大きなため息とともに体を起こそうとするがなんだか体が重たい。しかし、空腹感には打ち勝つことができず、重たい体を引きずりながらリビングに向かった。


降りなれた階段は電気をつけなくてもへっちゃらだが、いつもは癖で電気をつける。でも、今日は電気をつけていない。リビングのドアはすりガラスの部分があるため、階段からリビングの電気がついているかが分かる。母さんはいつも早めにベッドに入るため、こんな時間まで起きていることなんてめったにないのに、今日はリビングの電気がついている。


「…………」


リビングのドアの前に着いても、ドアノブに手を伸ばしたが躊躇してしまう。ドアの前で足が動かない。頭の中に困らせてしまった母さんの顔が浮かぶ。罪悪感に苛まれそうになるが、悪いのはあっちの方だ。頭を軽く左右に振り、そう心に誓って僕はリビングのドアを開けた。



「あっ!起きた!」


母さんの声はいつもの元気な声だった。


「うん………」


母さんは起きてきた僕を見て、キッチンへ入っていった。僕は内心驚いた。母さんは何も聞いてこない。僕はドアを開けた瞬間に尋問が始まると思っていた。でも、母さんは何も聞かなかった。ドアの向こうにいたのは、パジャマ姿でテレビを見ながらくつろぐ、いつもの母さんだった。


「今日はハンバーグだけど、いい?」


母さんはキッチンから手を動かしながらこっちを見ないで聞いてくる。


「うん…」


僕はそう答えながらダイニングテーブルに座った。僕の前に続々と料理が運ばれてくる。ご飯にハンバーグ、オニオンスープにサラダ、デザートもある。


「今日はたくさん余ってるからたくさん食べてね!」


母さんの言葉を聞かなかったことにして僕は手を合わせる。


「いただきます……」


か細い声であいさつをすると、勢いよく料理を掻き込んだ。母さんは寝る準備を終えると、ダイニングテーブルの僕の前に座った。何も言わず、僕を見ている。テレビでも見ていればいいのに、律儀にテレビも消して。僕にしゃべりかけるでもなく。僕も話したくないので良いのだが、いつも元気でおしゃべりな母さんが喋らないのはこんなに気持ちの悪いものなのか。そんなことを思いながら食べ進めていると、母は満を持したかのように口を開き始めた。


「…けんかしたの?」


食べるのに必死になっていた箸を持つ右手は急に動きを止める。僕の首だけは反射的に縦に動いていた。


「そっか……」


母さんの声は悲しそうだった。こんな悲しそうな声聞いたことがないほどの。この逃げ出したくなるような沈黙の余韻。その余韻はお風呂場から流れてくる追い炊きの完了した音によって終わりを迎える。


「どっちが悪いか分からないけど、ちゃんと仲直りしなさいよ」


タイミングよく鳴った湯沸かし器の音に背中を押された母さんが、一言いい残して風呂場へと向かって行った。一人になったリビング。動き始めた箸がお皿に当たる音だけがリビングに響いていた。



母さんが戻ってくる頃には皿の上の料理はほとんど残っていなかった。


「お風呂、追い炊きしておいたから、ちゃっちゃと入っちゃって!」


僕は皿をキッチンの流しに持っていき、お風呂場へ向かった。お風呂場にはすでにタオルと僕のパジャマが準備されている。お風呂場のドアを開けると、浴槽にためてあるお湯の湯気が一気に飛び出してくる。一人だけ湯気に逆らうようにお風呂場に入った。


「はぁ………」


お風呂場に入っても、頭の中は澱んだまま。リビングのドアを開けてから、母さんの手の上で転がされているようで、いつの間にかため息がこぼれていた。いつものように、まずバスチェアに座ってシャワーの温度を四十度に設定してシャワーを出す。いつもは四十度ぐらいになるまで待つけれど、今日の僕は洗い始める。シャワーはまだ冷たいまま。



一心不乱に洗っていると、ふと足元に目がいく。


「……………」


足元には日焼けでできた靴下跡。僕の努力した結果はここにある。頑張ってきたものにしかない、努力の結晶が。あんな奴らに負けたくない。あんな奴らに会うために強豪校に言ったわけではない。そう自分を鼓舞していると頭に一つの笑顔が浮かんできた。


「楓………」


強豪校に行けたのは楓が勉強を教えてくれたからではないのか。テニスのことだって、学校のことだって、いつも気にかけてくれたのは楓だったかもしれない。僕の近くにはいつも楓という大きな存在があったのかもしれない。その言葉たちが楓の笑顔とともに頭の中をぐるぐると駆け回ってくる。泡を流し終わっても流れ続けていたシャワーの音でハッと我に返った僕は頭を切り替えようと湯船につかる。今日の湯船はいつもよりぬるく感じる。頭の中には楓の顔が……どうしても離れることがなかった。


「楓が悪いんだ……」


口に出してみるものの、心では少しの罪悪感が次第に大きくなっていった。


「もうどうすればいいんだ……」


ぎゅっと握りしめた拳で水面を叩いてみるが、心は何も晴れない。はやめに湯船から上がり、頭で何も考えないように素早くパジャマに着替える。ドライヤーも歯磨きも何もかも頭を使わない、本能の赴くままに手を動かす。


「今日はもう寝ちゃおう……」


そう心に決め、脱衣所のドアを開ける。いつもだったらとっくの昔に寝ている母さんはまだキッチンで作業しながら起きていた。その母さんの隣を素早い早歩きで通り過ぎる。


「じゃあ、おやすみ……」


その言葉だけリビングに言い残して、自分の部屋へ入る。僕の部屋は真っ暗だった。僕は電気もつけず、そのままベッドの中に入った。



「僕が悪かったのかな……」



さっき寝ていた分、全く眠くない。それでも無理やり目を瞑って、時間が過ぎるのを待っていた。この時の僕の頭の中には課題があったことなんて、これっぽっちも残っていなかった。

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