第5話

僕の最後の大会は終わった。今、帰りの車の中。運転手は母さん。僕は後部座席に座っていた。少し空いた窓から入り込む風が僕の汗と帽子でぺったんこになった髪の毛を乾かす。僕が負けた後の決勝戦は何とも見ごたえがある試合だったらしい。大会すべてが終わった後、みんなで輪になって顧問から最後のありがたいお話も聞けたらしい。今の僕の頭の中には曖昧な記憶として残っている。しかし、一日中炎天下に置かれていたうちのワンボックスカーの中は異常な暑さを醸し出していたことだけはしっかりと覚えている。



「蒼にしてはよくやったんじゃない?」


母さんはハンドルを握り、前を向いたまま。いつも笑顔がトレードマークのおちゃらけることが好きな母さんでも今日はなんだかしんみりした声をしている。母さんなりの励ましは少し空いた窓から入ってくる風の音に邪魔されているが、僕の耳にはしっかり届いている。


(そう、僕はやり切ったんだ。)


頭の中では解決しているのに、その言葉が口から出てこない。後部座席の背もたれは汗が染み込んだシャツが背中にくっついてしまうのが気持ち悪いため使わない。前かがみで足元を見つめている。今はそれを見つめることで精一杯だった。


「もしかして楓ちゃん、今日も蒼の部屋でお留守番してたりして?」


元気づけようといつものおちゃらけたテンションで放たれたその言葉はなんだか僕の心の中に溶け込んでいった。


(楓…)


僕にとって楓は『いつも僕の部屋にいる奴』。でも、今は違う。話したい。今日あったことすべてを話したい。灼熱の炎天下で試合をやったこと。全力で戦ったこと。僕のことを応援してくれた仲間のこと。母さんからおちゃらけたテンションで元気づけられたこと。そして、負けて悔しかったこと。今日は待っていてほしい、いつもの僕の部屋で。


頭を上げた僕にはなんだかフロントガラスの先の景色がぼやけて見えた。



家の前の駐車場に車が停まる。僕はラケットバックを肩にかけ、サブバックを右手に持つ。後部座席のドアを開け、ゆっくりと外に出る。いつも通り。普通の自分を演じながら。はやくドアを開けたい自分をグッと押し込みながら玄関へ向かった。もう空は夕焼けのオレンジ色。いつも帰ってくる時間と同じぐらいだ。いつもと違うのは今日が土日だって言うことだけだ。


うるさく動き続ける鼓動を誰にも悟られないように、僕はギュッとドアノブを握る。


(いつもこんなに丁寧に握っていないのに。)


そんなつまらないことを考えて、自分を保っている。僕はいつもより慎重にゆっくりとドアノブに力を加える。


『ガチャン』


甲高いドアの悲鳴だけ。楓はいなかった。ドアには鍵が掛かっている。当たり前だ。だって、僕の家族は今、全員外に出ているのだから。僕は鍵のかかったドアの前で動きが止まってしまっていたかもしれない。いつもだったら、心配かけないように元気に振舞おうとするけれど、今日はもうそんな元気はない。僕の感覚ではずいぶん長くのまま立ちつくしてしまった。



「はい!鍵!」


びっくりしたと同時に振り返ると、元気な母さんの声とともに鍵が飛んできた。母さんの下投げから放たれた鍵は二人の間を弧を描くように僕の方へ向かってくる。母さんとの距離はそれほど離れていないのに。


「あっ…うん!」


僕は慌てて両手で受け取る形を作る。鍵は家の鍵だけでなく車庫の鍵など三つぐらいまとまっているため、「ガシャン」と音を立てて、僕の手のひらに乗った。


「ナイスキャッチ!」


母さんはのんきなことを言いながらこちらにグットポーズをしている。僕は「うん」とだけ無理やり作った笑顔で言ってドアを開けた。今日の母さんはいつもより元気に振舞っている。落ち込んでいるのがバレていたのだろうか。今の僕にはそんなこと考える余裕なんてない。


自宅へ入ると一直線で自分の部屋に向かい、ラケットを定位置に置き、サイドバックは後で片付けるため床に無造作に置いた。汗でびっしょりだったユニホームは時間とともに乾きつつある。中途半端の生乾き。それが一番気持ち悪い。汗臭い体を洗い流そうと僕はお風呂へ向かった。


お風呂は一階に降りてリビングを通った奥にある。母さんはササッと着替えを済ませて夕食の準備を始めている。僕はその姿を横目で見ながら脱衣所に入った。うちの夕方の脱衣所は小窓からまぶしすぎるほどの夕日が差し込む。こんな早い時間にお風呂に入るのは午後部活が早めに終わったときか大会終わりぐらいだ。ふと気がつくとそこにはタオルと着替えが準備されていた。母さんにはテニスから帰ってくると一番にシャワーに向かうという僕のルーティンが見透かされているらしい。汗臭いユニホームを脱ぎ去り、お風呂場へ入る。浴槽にお湯をためているわけではないため、カラッと乾いたお風呂場。お風呂場特有の小さめのバスチェアに座ってシャワーを出す。設定温度には達していないお湯とはいいがたい水。火照っていた僕にはちょうど良かった。頭から勢いよくシャワーを浴びる。何もかも洗い流すように。


「僕はやり切った……のかな……」


シャワーの立てる水しぶきの音にかき消されそうな小さな声が僕の口からこぼれた。うつむきながらシャワーを浴びる僕の髪の毛から落ちる水滴一つ一つが思い出に見える。テニスを始めたとき。テニスで初めて勝ったとき。部活の仲間と一緒に切磋琢磨した日々。初めて悔し涙を流したとき。



「僕は……まだ、テニスがしたい」



僕の目からいつの間にか流れていた涙は誰にも見つからないようにシャワーの水に隠れていた。試合が終わってからずっと胸につかえていたモヤモヤした気持ちが流れていったような気がした。


「もう出よう…」どれくらいシャワーを浴びていたのか僕にはもうわかっていなかった。お風呂場を出ると体の力が一気に抜けたように疲労感が襲ってきた。部屋着に着替えて自分の部屋に戻った僕はサイドバックの片付けもしないでベッドに横になった。夕食の時間まで何をしようか。そんなことを考える前に僕の瞼は重力に逆らうことをやめていた。

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