第86話
「ま、待てっ!」
急に様子のおかしくなった彼を追おうとして、足を踏み出した瞬間、冷たさが足から伝わり、自分の今の姿に気づく。流石に、このままの姿で人目のつく場所に行くことはできなかった。
「くそっ」
柄にもなく、悪態をついてしまう。そんなことをしても意味はないことは分かっていたが、抑えられなかった。彼の叫びに感化でもされてしまったか。はあ、何やってるんだ、私。一拍遅れ、冷静な思考が戻ってくる。風邪をひく、か。脱がせた本人が何を言う。
だが、その言葉に嘘はなかった。これで風邪をひけば、それこそ愚かというものだ。急いで、脱ぎ捨てた服を拾い、再び着なおす。冷たい外気に晒されていた衣服は、その冷たさを纏っていたが、着ないよりはましだ。何より、生徒会長本人が風紀を乱してはならんからな。
相当に時間が経っただろう、服の乱れを整え、部屋の外に出てみれば、案の定そこには誰の影もなかった。ともすれば夢かとも思えるさっきの出来事は、されど体に感じる冷たさがそれを現実に押し上げていた。
「とりあえず、帰るとするか」
考えなくてはいけないことはいくつもあったが、まずは寮に帰ってからでも遅くはないだろう。誰もいない寂れた校舎を一人歩く。頭の中を占めるのはやはり、彼のことばかりだった。
寮に戻り、いろいろとしなければならないことを終えれば、後は寝るだけとなった。そこでようやく先ほどの出来事について考えることにした。
途中までは良かった。いや、良くはないのだが、理解はできた。なるほど、彼は真正の悪人であり、私の躰を貪らんとした、と。演技がかったようなセリフも自分の悪行に酔っているとするなら、理解できた。
しかし、アランが来てから変わった。剣術大会で2位に入るほどの実力の持ち主、それでありながら、どこか抜けているところが見て取れた。そんな彼があの場に現れてから流れは変わった。あの時、まだ私は決定的なものを脱ぐ前だったので、かろうじて助かったと思ったものだが、もしかするとそれすらルイスの策略だったかもしれない。
アランとルイスの間には、確かに信頼があった。それは一方的なものではなく、両方向のものであり、彼らは互いに、相手ならこうするはず、といった信頼があった。アランのような人間は得てして直感が鋭い。彼のものが善か悪か、誰に教わらずとも分かるというものなのだ。そんな人間がルイスのことを信用していた。それがどういうことか。
アランが去ってから、——いや、アランが去る前からそうだったのだが——より一層彼はおかしくなった。邪魔者がいなくなり、ついに身を捧げなくてはと考えていたところで、彼はそれを止めた。あのときは私も切羽詰まっていたから、気づけなかったがよく思い出せば、その時点で彼は不満そうな顔をしていた。
上手くいかなかったとはどういうことだろうか? アランが来たとはいえ、あの様子ならそのまま続けることはできただろうに。やはり、真なる目的は私の躰ではなかったことになる。とすれば、彼は何を求めていたのだろうか?
……いや、考えても答えの出ないことを考えるのはよそう。今の私の手札では予想することすらできない。それより、彼の言った我が領の問題の方を考えるべきだろう。彼の叫びは真に迫るものがあった。あれが演技だというなら、彼はその道に進むべきだ。
確かに我が領は紅茶に頼っているところがあった。いや、平年通りであれば、それで良かったのだ。自らの領内でほとんどが完結し、他に必要な細々としたものを買うための資金は紅茶を売って賄えば良かった。それでも足りなければ、ルドベック家が身銭を切り、危機を乗り越えてきた。
だが、きっとそれではだめだったのだ。それまで私は、というか私の家は、商売というものを軽視していた。いや、蔑視していたと言ってもいいかもしれない。表立って言うこともなければ、商人たちを非難することもかった。ただ、必要以上に利益を得ることは卑しいことだと、きっと心のどこかでは思っていた。
しかし、それは間違っていたのだ。余裕があってこそ、正義は為せるのだ、と今回の件でよく分かった。もし、彼があそこで手を引いてくれなければ、私はあのまま彼に身を捧げることになっていた。一度でも悪に屈してしまえば、一生それを引きずることになっていただろう。今改めて思えば、彼はそのことを私に身をもって知らせるために忠告してくれたのかもしれない。
私の家が危機に陥っているのは間違いない。だが、それは私たちの落ち度であり、責任であり、彼を責める権利を私たちは持ち合わせていないのだ。
そうだ、一度領に戻ろう。授業態度や諸々の事情を勘案してもらえれば、学期末のテストにさえ出席すれば進級はできる。それまでの間に、領に戻り改革をしなくては。領主側の意識が変わらねば、民たちもついてはきまい。まずは、私の家族から、それから民へ。彼に言われた対策やそうでないものも、顔を突き合わせれば出てくるものもあろう。
懸念はある。彼のことをもっと知らなくてはならない。彼にまつわる噂のことも彼の真意も。ただ、まだ時間はある。彼はまだ1年生で、私もまだ2年。後1年は猶予がある。
大丈夫、私はグロリア・ルドベック。目標さえ定まってしまえば、どんな目標も乗り越えてきた。その自負が私を支える。今回もきっと乗り越えられるはずだ。決意を新たにし、私は目を閉じた。
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