第16話





 無理やり命令して止めたからか、ネイビーは未だに気を失ったままだった。やはり真っ向から意に反する命令は相手に負担をかけてしまうのだろう。そう考えると今まで付き合ってくれたネイビーにまた感謝の念を覚える。包丁を奪い取ってから、力の抜けたネイビーをゆっくりと運んで居間に降ろす。


「大丈夫なのか?」

「気を失っているだけだ。じきに目を覚ますよ」

「……そうか。ならネイビーが気を失っているうちに話させてくれ。少し退屈かもしれないが聞いてくれないか?」


 ここで聞かなければ一生聞く機会は訪れないだろう。胸のうちに渦巻く複雑な気持ちがこぼれないように私は無言で頷いた。彼はさっきとは打って変わって冷静な態度で話し出した。


「妻が死んだのはもう4年も前のことになる。その日も何も変わらないいつも通りの日だった。いつものように『行ってらっしゃい』と見送られたのに、私は二度と『お帰り』という彼女の声を聞くことはなかった。——馬車の事故だった。飛び出した子どもをかばってのことだったそうだ。憎める相手すらいなかった。——彼女はね、私なんかにはもったいない本当にいいひとだった。いつも明るく笑って、困っている人を放っておけない、太陽みたいな女性だった。私にとって本当に大事な存在だったんだ。彼女を失ってから私の世界は真っ暗なままだ」


 そう言うと、彼は眩しそうに目を細めながら気を失ったままのネイビーを見る。その表情はいつもネイビーが私にしてくれているものによく似ていた。


「良い子だろう? ネイビーは」

「ああ、とても子どもとは思えない」

「ははは、君も子どもじゃないか。……ああ、そうか、君は貴族だったな。——今更だが敬語を使った方がいいだろうか?」

「そのままでいい、別に気にしてない。それより続きを」

「……ありがとう。そうだな、私は妻を亡くしてからというもの、それを忘れるために酒に溺れるようになった。勤め先にはもうずいぶんと行っていない。それでも、ネイビーはそんな私のことを励ましてくれて、今だってこうやって働いて私のことを待ってくれている。……本当に、本当に良い子なんだ」

「それぐらい大切に思っているなら、どうして?」

「君も子を持てば分かる。私がいてもネイビーの邪魔にしかならない。もうネイビーは私がいなくても大丈夫なんだ。——ああ、そうだ、ちょっと待っていてくれ」


 そう言うと、彼は立ち上がって箪笥の中から封筒を取り出すと私に手渡してくる。厚みを持ったその封筒は単なる重量だけでない重みがあるように感じた。


「これは?」

「ネイビーが今まで稼いでくれたお金だ。手を付けずにとってある。これからの生活のために、目が覚めたら渡しておいてくれないか? それともう二度とこの家には来るなと伝えてくれ」

「……そうしたらあんたはどうするんだ?」


 何か嫌な予感がして私が彼にそう聞くと、彼はネイビーから目をそらして、小さな声で答えた。


「本当に君は……。そうだな、君には正直に答えよう。妻の居るところへ行くのさ」

「はっ?」


 私は一瞬何を言っているのか理解できなかった。だってそれじゃ、まるで……。


「こんなことを聞かせてすまない。だがもう決めたことなんだ。こんなにもネイビーのことを気に掛けてくれる君がいる。これからは私がいなくても大丈夫だろう」


 私は言葉が出せなかった。何を言えば、何と答えるのが正解なのか分からなかった。そんな私を置き去りに彼は再びネイビーを見て、言った。


「こんな情けない父親ですまない」


 その言葉を聞いた途端ものすごくイラっときた。ネイビーはそんなことのために頑張っているんじゃない。ネイビーが欲しい言葉はそんな言葉じゃないと言わずにはいられなかった。


「俺はまだガキだから浅いことしか分からないけどさ、ネイビーが求めてんのは謝罪の言葉じゃないだろ? 自分のためにしてくれたことにありがとうって言ってそれを肯定するのが親だろうが!」

「……だけど、もうこんな暗闇の中では生きていけないんだ!」

「じゃあ、どうしてそんな目をする? ネイビーもあんたにとっての光なんだろう? あんたはただネイビーと向き合うのが怖くて逃げたいだけだ!」


 そう言うと彼は黙ってしまった。彼が本当にそうなのかは分からない。でも私にはそんな風に見えた。ネイビーのことを思えば、黙っていることはできなかった。そんな風に怒鳴っていたからかいつの間にかネイビーが体を起こしていた。


「お、父さん」

「——ネ、ネイビー、いつから聞いていたんだ?」

「死んじゃうの?」

「い、いや……」

「お父さんが死んだら私も死ぬからね」

「ダメだ! そんなのは」

「ううん、絶対ぜーったいに死ぬから。それが嫌だったらちゃんと生きてよお」


 ネイビーは泣きながらも何が何でも譲らないように見えた。その姿はいつものネイビーからは考えられないほどだったがそれゆえに心に来るものがあった。


「ネイビーにはあんたが必要なんだ。ちゃんと二人で本心で話し合え。でも何があっても絶対に死なせたりしないから」


 私はそう言って二人を残して部屋を出た。二人の話し声が聞こえないように、それでも何かあったらすぐに駆け寄れるように部屋の外にいた。私のしたことがもしかしたら悪い結果につながってしまうかもしれない。それでも、もし何があってもネイビーたちを不幸にはさせないと決意した。










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