第五話 公爵令嬢の心変わり


 元来、アルトリオンとツヴェルクには、天と地ほどの権力差がある。


 前者は伯爵家。

 貴族としての階級は中の上といったところ。


 これに対して、ツヴェルクは公爵家。

 貴族としての位は最上位となっており、王族の親類筋であることも相まってか、国内における発言権は絶大なものであった。


 伯爵家と公爵家。

 両家の子息、令嬢が婚約に至るといったことは、基本的にありえない。


 であればなぜ、そのような状況になったのかといえば……

 アルトリオンは伯爵家でありながらも、国庫の三割を占めるほどの財力を有しているからだ。


 どの時代、どの世界においても、カネを制する者は強い。

 ゆえにアルトリオンは伯爵家でありつつも、公爵たるツヴェルクにとって無視出来ぬ存在であり……


 これを味方に付けられたなら、貴族社会での立場は安泰となる。

 ツヴェルク現当主はそのように考えた。


 アルトリオンの現当主たるヴィクターもまた、公爵家との強い繋がりは多大な利をもたらすと結論付け……


 その帰結として、両家の子息、令嬢の婚約が本決まりとなったわけだが。


 しかし。

 この政略結婚について、ソニアはさしたる不満を抱いてはいなかった。


 彼女にとって重要なのは、相手方の能力であって、容姿や家柄などは関係がない。


 ソニアの中には信仰心にも似た、強さへの憧憬がある。

 それを思えば。

 ローグ・アルトリオンは彼女の眼鏡にかなう存在であった。


 同年代最強と謳われし実力は間違いなく本物で。

 ゆえにこそソニアは彼を夫とし、将来的にはそのたねを受け入れる覚悟も出来ていた。


 ……されど。

 そんな彼女は今、当惑と共に、失望の底へと落ちつつある。


 なぜか?


 それは目前にて。

 ベッドの上に横たわりながら治療を受けるローグの有様が、原因であった。


「クソッ……! クソッ……! あいつ……! どんな卑怯を、働きやがった……!?」


 意識を取り戻してから、ずっとこの調子だ。


 弟がなんらかの卑劣な手段を用いた結果が、自らの現状を招いたのだと、そんなふうに延々とのたまっている。


 端から見れば。

 単なる実力不足でしか、ないというのに。


(……ゼクス様)


(才覚を腐らせている弱者であると、そのように聞き及んでいましたが)


(どうやら彼は、なんらかのきっかけを経て……大化けした、ようですわね)


 彼が身に宿した《テイム》というスキルは、使い手次第で強弱が大きく異なるものだ。


 これまでのゼクスはローグが度々語ってみせた通り、生粋の弱者であったのだろう。


 だが、何かの拍子でそれが一変し……


 今や、同年代最強と誉れ高き、ローグ・アルトリオンすらも超えた存在へと、大化けを果たしている。


(一目見た瞬間、衝撃が走りましたわ)


(その疾さ)


(その強さ)


(思い出しただけで……身震いが、止まらない)


 今やソニアにとって、意中の相手とすべきは、ローグなどではなかった。


「報復してやるッ……! オレをコケにしやがったことッ……! 死ぬほど、後悔させやるッ……!」


 口ばかりで、まったく動こうとしない。

 こんな男との婚約など、早急に破棄すべきだとソニアはそう考えた。


(要するに、我が家とアルトリオンが血縁で結ばれれば良い、と)


(そういった話、ですから)


(わたくしと結ばれるのがローグ様でなく、ゼクス様であったとしても)


(何一つ、問題はありませんわね)


 と、そんなふうに結論付けた瞬間。

 ソニアは席を立った。


「っ……! お、お帰り、かな? ミス・ソニア」


「えぇ。しかしながら、お見送りはけっこう」


「も、申し訳ない。ダメージがまだ、少しばかり残っていて――」


「あぁ、いえ。別に貴方様を気遣っての言葉ではございません」


「――えっ?」


 ソニアは強さという概念の信奉者。

 ゆえに発言すべき内容に対して、迷いを抱くことはない。


 そんな彼女はローグの目を真っ直ぐに見据えながら。

 次の言葉を、叩き付けた。


「ローグ様。わたくしは常々、力ある者であれば、自分が結ばれる相手は誰でも良いと考えておりました。そうだからこそ……貴方様のような心根の醜い殿方が婚約者であっても、我慢が出来ると、そのように捉えておりましたの」


 これを受けて、ローグは「ぽかん」と阿呆のように口を開いた。

 その無様な姿を目にしたことで、ソニアの心はさらに冷え込んでいく。


「しかして今。わたくしは自らが結ばれるべき存在をしかと、見定めるに至ったのです。その御方の名は……」


 ゼクス・アルトリオン。

 その名を口にした瞬間、ローグはカッと目を見開いて。


「ふ、ふざけるなッ! オレが、あいつに劣るっていうのかよッ!」


 怒髪天をつくような剣幕に、しかしソニアは微塵も怯えることはなく。

 むしろ堂々と、次の言葉を紡ぎ出した。


「はい。貴方様は何から何まで、ゼクス様に大きく劣っております。人格面は当然のこと、見目の麗しさや実力に至っても、もはや貴方様には何一つとして勝るところは――」


 滔々と断言する、その最中。


「黙れぇえええええええええええええええええッッ!」


 衝動に身を任せる形で、ローグは右手を振り上げ――

 ソニアの頬へ、張り手を見舞った。


 バチンッ! と、乾いた音が室内に鳴り響く。


 彼女が受けた痛みと衝撃は実に強いもので、純白の美貌にはアザが刻まれ、鼻腔から血が溢れ出てくる。


 どうやら奥歯も砕けたようだが、しかし。

 ソニアは堂々たる姿を崩すことなく、対面の愚かな男に対して、言い放った。


「お礼を言わせていただきますわ、ローグ様」


 先刻の一撃は、避けられなかったわけじゃない。

 あえて、避けなかったのだ。


「これにて、貴方様と縁を切るための口実が出来ました。まっこと、感謝の至りに存じますわ」


 ここまで言ってから。

 ソニアは口内を動かし……


「ぺっ!」


 血の混じった奥歯の一部を、床へと吐き捨てる。


「謝礼の品として……わたくしの体の一部を贈呈いたしましょう。貴方様にくれてやるのは、それで十分。我が身、我が心は……今や、ゼクス様のためだけにある」


 呆然と固まったローグへ、ソニアは冷ややかな眼差しを向けながら。


「では、ごきげんよう」


 優雅に一礼してから、傍仕えの者達と共に、部屋を出る。


 その直後。


「クソがぁああああああああああああああああああッッ!」


 室内にて、ローグが怒声を放ったが、しかし。

 一般人が聞けば竦み上がるほどの絶叫も、今のソニアからしてみれば、豚の鳴き声とさして変わらないものだった。


「……別邸へ戻りましたら、お父様に早速、伝書鳩を飛ばしましょう」


「は。おおせのままに」


 平時ならば、傍仕えたる彼等は、縁談の破局を防ぐべき立場にある。

 しかしながら。

 主人の頬を張られた以上、もはや彼女の意に反する気にはなれなかった。


「……ふふ。ゼクス様はわたくしのことを、気に入ってくださるかしら?」


 もはやソニアの脳内に、愚者ローグの居場所はどこにもない。

 意中の殿方を思い、微笑む彼女はまさに……


 恋する乙女、そのものであった。

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