八月二四日
午前一〇時、逢阪は何一つ変わらず校門で待っていた。
「話って?」
「その前に、日陰……中庭にでも行こう」
「……うん」
焦らすつもりはないが、この炎天下に長話をする訳にもいかない。俺達は本館と理科棟に囲まれた中庭まで歩いて、適当なベンチに腰をおろした。ここには誰もいないが、セミは鳴き続けている。俺は始めにこう切り出した。
「これから俺は個人的な話をする。内容は、普通他人には話さないようなことだ。ただ、これを聞いたからといって、お前が何か責任や義務を感じる必要は一切ない。俺自身のために話すからだ」
一つ大きく息を吸って、おおよそ次のことを話した。
俺の父方の祖母は一〇年前に癌で他界した。その一年前、祖母がまだはっきりと喋れる頃、曽祖父から続く伝統行事があるのを聞かされた。曽祖父の地域にあったらしいのだが、いわゆるタイムカプセルと似たもので、自分の夢を紙に
ここまでの説明ではただの慣習のように思えるが、このとある箱というのが重要で、紙を取り出すときに箱はほのかに光り、その刹那、景色が朱色の
説明し終えると、暫くして逢阪が口を開いた。
「わかった。行こう、旧生徒会室。私、なんだかこれを待っていた気がする」
妙なことを言うものだ。逢阪が予想できることじゃないだろう。
ともかく、俺は逢阪を連れて目的地まで歩いた。その間、逢阪はずっと何かを考えているようだったが、詳しいことは尋ねなかった。
旧生徒会室のドアに手をかけると、案の定、ドアは開いたままだった。やはり貼り紙など必要なかったらしい。中は前来たときと殆ど変わらない。少し場違いな花火セットとクラッカーが無くなっただけだ。ここのどこに箱があるかまでは知らない。しかし、見つかるだろうという確信があった。
目の前のマットを引っ張って、綱をどけて、なんとか奥の金属棚の最下段にスペースを作る。そこには祖母が言った通りの、白粉をはたいたように美しい、手のひら程の桐箱があった。蓋には達筆に加里屋家と書かれている。思わず「これか」と呟いてしまった。
「綺麗な箱だね」
「ああ、これが父の……」
砂やホコリを被りながら、それに気づかせないほど輝きを放つこの箱は、流れてゆく時、移ろいゆくモノと人に取り残され、ただじっとここにあり続けた。この数十年、生徒や先生に見つからずに済んだという明らかな不思議も、この神秘の前には取るに足りないものだ。俺にはただの桐箱が神器のようにも思えた。
ただ、これを手にとってみなければ検証できない。恐る恐る、禁忌に触れる心持ちで身体を前のめりにして掴んだ。間違いなくこの箱だ。
「ここで開けるの?」
「ここでいい」
偽りのない答えだった。逢阪が静かに頷く。その首肯には、全て俺に委ねるという意思が込められているように感じた。
左手で底を支え、右手の人差し指で加里屋家の字をなぞる。百年以上の歴史を一切感じさせないこの箱も、表面は確かに傷つき、砂でざらついていた。それが何より、紛い物でも幻でもないことを証明している。
俺は蓋を開けた。
瞬間、手のひらに強烈な、火にかけた鉄鍋のような熱さを感じて、思わず「あっ」と声を出して箱を手放した。箱と蓋は狭いこの部屋の地面にひっくり返って落ちた。何が起こった?わからない。逢阪の「どうしたの?!」という叫びも、今はただの音声以上には受け取れなかった。けれど、明らかに箱は赤く燃え、箱から
「これ……発煙筒?」
逢阪がそう言う。
「何?」
「遭難したとき、救助し易いように火薬を使って煙を上げて、視認性を高める道具。多分その仕組みが使われてると思う」
こんな危険な細工が何故施されている?俺の父がそうしたのは間違いない。けれど、俺の中にある人物像とかけ離れているように感じる。そして不思議と嬉しくもあった。
ふと思い出して、床に落ちている紙を手に取った。左下は焦げて黒くなっている。この面には何も書かれていないが、裏に父の夢があるはずだ。
紙を裏返すと、こう書かれていた。
“自分のために生きていきたい”
俺の一七年の時間が、全てひっくり返ったような心地がした。俺はずっと心の底で父は何一つ後悔なく死んでいったと思って、そう信じて父を過去に葬り去って生きてきた。しかし、この文からは、父の人生はその本心とは別に進行していたように思えてならない。果たして、父は本当に望んで人を助ける道に進み、死んだのか。本当にわからなくなっていた。
ただ、それがわからなくなったからこそ父の遺した細工の理由は、なんとなく感じ取れるものがある。これは、当時の父に秘められていた反発心の結晶なのだ。
父は幼い頃から人の困難を見過ごせない性分だったけれど、同時にその性分を憎むこともあった。だから苦しみ続けて、それでも性根は変えられなくて。自分の行く末に希望を失っていた。そんなときに父は将来の夢と言われて、どうしようもない怒りや哀しみを抱いたのかもしれない。
これはあくまで俺の妄想で、真相は全く藪の中である。しかし、その可能性があるということだけで十分だった。俺は、また振り出しに戻ったのだ。改めて父とはどんな人か、夢とは何か、考えなければならなくなった。
ただし、一つだけわかったことがある。俺の祖母が言おうとして、止めた言葉。祖母は俺の去る寸前
「開ける時は、よく気をつけるんだよ」
と言おうとしたのだ。
逢阪の方を向く。逢阪は、俺に問題がないことを悟ると、面白いものを見る目でこちらの顔を覗いていた。
「悪かったな。個人的なことに付き合わせて」
「ううん。最後に一番不思議なことに出会えて良かったよ」
「不思議なこと?」
どこにそんなものがあったんだろうか。
「その箱って二十年以上前にそこに置かれた。だったら、火薬なんてとっくに湿気って使えないでしょ」
確かにその通りだ。理由ばかり気になって、方法になんの疑問も持っていなかった。
「…ふふっ。最後の最後で謎が見つかったね」
そう言った逢阪の笑顔は、暗いこの部屋の中でも、間違いなく本物だと確信できる。そして、俺は都合がついたときにでも、今日のことと、これからのことを話したいと思った。逢阪にその意向を伝えると、快く承諾してくれた。
暫くして、俺たちは旧生徒会室を出て解散した。
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