【番外編】愛ちゃんの一日


























 これは、ふたりがまだ付き合う以前のお話。



 アラームが鳴ってすぐ、愛は目を覚ました。

 仰向けで足を揃えて眠っていた体を姿勢正しく起こして、定位置に置かれたスマホを手に取る。

 鳴り響く音を止めた後は芽紗からの連絡を真っ先に確認し、来ていれば返し、来ていなければそっと閉じる。

 僅かばかり落胆した様子から、その日はどうやら来ていなかったようだ。

 スマホを定位置に戻し、ベッドを降りて、クローゼットへ服を取りに向かった。

 以前まで、私服は季節問わずブラウスに黒のフレアスカートで統一していたが、芽紗と出会ってから随分と種類の増えた服の中から特にお気に入りのものを選んだ。

 服をいくつか持って部屋を出てからは脱衣所へ移動し、歯磨きなどを着替え前に済ませる。

 まずはジョギングするための服に着替え、キッチンで粉状のスポーツドリンクとプロテインを水で割って作り、準備を進めていく。

 全ての準備が終わり、まだ親も起きてないような薄暗い時間に家を出た。

 朝の習慣であるジョギング・ランニングは二時間を予定していて、時計を確認しながらお決まりのスポットへと歩みを進めた。


「おはようー、今日も早いねぇ」

「…おはようございます」


 途中、遊歩道で毎朝会う老夫婦と軽く挨拶を交わしたりと、多少の交流も楽しみつつ、気分が乗ってきたところでイヤホンを耳につけ速度を上げる。

 今の時期は夏の花が綺麗に手入れされた状態で咲き乱れ、自然に囲まれるのもまた一興だ。

 かれこれ中学一年の頃から高校生になった今も続いている運動を一旦終えて、次の場所へ移るため公園を後にした。


「おばあさん、おはようございます」

「あぁ……愛ちゃん。おはよう」


 早朝から店を開けている、今ではすっかり常連となった駄菓子屋へと立ち寄り、いつも通り朝ごはんがてら揚げたてのコロッケをひとつ購入する。

 ほとんど趣味で経営しているというおばあさんが前日の夜から仕込みをして作ったコロッケは、地元の人達には評判で、昼には売り切れるほどの人気だ。


「どうだい、今日のお味は」

「……昨日と変わらず、好ましい味だと思います」

「はは、そうかいそうかい。それはよかった」


 店先のベンチで食べている時、大抵おばあさんも隣に座り世間話をする。

 口数の少ない愛は話を聞くことがほとんどだが、この時間もまた癒やしのひと時であった。


「また来ます。ありがとうございました」


 芽紗の教えにより得た愛想笑いを向ければ、おばあさんはここ数年の大きな変化に戸惑いつつも嬉しく思い微笑んだ。

 ここへ始めてきた時は感情が抜け落ちた人形のようだった彼女も、高校生になった辺りから随分と変わった。

 きっと素敵な友人でもできたんだろう…と憶測を立てては、孫の成長を見ているようで微笑ましい気持ちを抱く。

 おばあさんの駄菓子を離れた後は河川敷でまたしばらく走り、太陽が姿を完全に現した頃に帰宅した。


「ただいま帰りました」

「…おかえりなさい。朝ごはん、用意してありますよ。今日も朝から頑張りましたね」

「ありがとうございます。食べる前に、シャワーを済ませてきます」


 家に着いてからはリビングへ顔を出し、親を安心させる行動を取ってから脱衣所へ向かう。

 汗を流すためシャワーを浴び、予め用意しておいた洋服へ着替え、またリビングへ戻る。


「今日はバイトがないので、高校の終わりに芽紗の家に行きます。晩御飯の有無は分かり次第連絡します」

「分かりました。…いつもお世話になっていますから、菓子折りでも買っていった方がいいですよ」

「はい。買うようにします」

「……たまには僕が送りましょうか」

「いえ。大丈夫です。ひとりで行けます。お父さんは休んでいてください」

「せっかくの休日、少しでも娘と過ごしたいんですが…」

「…そういうことなら、送迎をお願いします」


 朝食と親への報告を済ませ、食後の歯磨きをしっかり忘れず終えてから家を出た。


「……あ」


 高校へ行く途中で野良猫を見かけ、突然目の前に現れた小動物の姿に愛の足が止まる。


「…芽紗に似てる」


 クリクリとしているが少しつり目にも見える瞳や、小さく愛らしい口元がそっくりで、数分の間見つめ合ったまま固まった。

 愛でようかとも迷ったが、相手は野生動物。何が起こるか分からない危険性を考え、触るのはやめることにした。


「愛〜、おはよ!」

「…おはよう」


 高校に到着すれば、芽紗の方から明るい挨拶を交わしてくれる。

 隣同士の席で授業を受け、昼食を共にして、帰りは流れで相手の家へ行くことが決まった。

 朝、母親と約束した通り夕食をどうするのか芽紗と話し合い、今日は泊まることになったため夕食が必要なくなったことをメッセージで送る。

 了承の返信を確認してから、スマホにもう用はないためカバンの奥深くにしまいこんだ。…これも以前、芽紗が「人と話す時にはあんまりいじらない方が印象がいい」という教えを守った行動である。


「何するー?映画とか見る?」

「うん。…夏だから、怖い映画とかはどうかな?」

「いいね!私めっちゃ苦手だけど!」


 怖いもの見たさで頷いて、タブレットを開いた芽紗の隣で、愛はじっと相手の顔を見つめていた。

 そのことに気付きもしない芽紗は、サブスクで映画を視聴できるアプリを開き、ホラーの項目をタップした。


「あんま怖くないやつがいいな……愛はどれ見たい?」

「…これとか、どうかな」


 しっかり受け答えはしつつ、目線は芽紗に向けたまま適当に画面内の作品をひとつ指差す。


「えぇ〜、これ怖そう……私、最後まで見れるかな…」

「……大丈夫。私がいるよ」

「ふはっ。愛よりその言葉が頼もしく聞こえる人、他に居ないと思う」


 そう言って笑った姿を、愛はどう捉えたのか。


「…芽紗は、猫みたい」


 道端で見かけ、触れなかった猫の分も愛でる手つきで芽紗の頬を撫でた。昼に触れなかった猫の分も触ろうと、密かに企む。

 そのまま頬から顎へと手を移動させれば、何かを期待した瞳が揺れて愛を見上げた。

 くりんとした少しつり上がった大きな目が、本当にそっくりだ…と。

 目の前の光景を、じっと見つめ返してしばし記憶に焼き付けた愛は、僅かばかり満足げに「うん」と喉を鳴らして頷いた。


「やっぱり、似てる」

「…そんなに?」

「うん。猫みたい」


 それ以外に感想をうまく伝えることはできなかったが、長年そばにいる芽紗にはちゃんと褒め言葉をして響いたんだろう。


「愛は、犬みたいだね」


 意味合い的には“主人に忠実な忠犬”というものだったが、愛もまた褒め言葉として素直に受け取った。

 お礼がてらまた髪を撫でれば、相手も頬を撫で触る。そうしてしばらく体の色んなところに触れて遊びだした。

 主に顔周辺を、愛は好んで触り始める。

 ついつい、むにむにとした感触が心地よくて頬をつまむ愛に対し、芽紗は苦笑いを浮かべた。


「ちょっと強いかも……もっと優しく触って?」

「…ごめんなさい」

「いいよ。…ひゃ、待って。そこは弱すぎるとくすぐったいかも」


 言われた通り輪郭を努めて優しく触りながら、ソフトタッチのまま首筋へ移動させれば、芽紗はくすぐったさから肩を萎縮させる。

 内心、加減が難しいことに困惑していた愛だったが、幸か不幸か表情にはほとんど出ない。

 芽紗は変わらない無表情にどこか羨望の眼差しを向けて、整った鼻の頭をチョンと触った。


「愛ってほんと綺麗な顔してる」

「……芽紗の方がかわいい」

「ふははっ、なに?急にキザなこと言って。それ本心?」

「嘘はつかないよ」

「ん…ふふ。褒め上手だね、愛は」


 互いに可愛がる時間を経て、微笑み合った後でいよいよ映画を再生する。

 驚かせるシーンでビクともしない愛に対し、人間味溢れる反応で芽紗が肩をびくつかせたり悲鳴を上げるたび、そっと背中に手を当てて宥めた。

 そうして映画を見終わる頃、すっかりうるうるな涙目になった体を抱き寄せて、髪を触る。


「っはぁー……こわかったぁ…もうむり。最後とかやばすぎ…!」

「…怖い映画だったね」

「嘘つけ。ほんとは全然怖くなかったでしょ」

「……今のは同調という意味での発言でしたが、確かに誤解を招く表現でした。訂正します。正しくは“怖くはなかったけど怖いというその気持ちは汲めるよ”でした。申し訳ありません」

「あー……さっき嘘つかないよって言ったのに」

「嘘はついてないよ。言い方を間違えただけだよ。だからちゃんと訂正したよ」

「ふは…っ、ごめんって。冗談!愛が嘘つかないってわかってるよ。安心して?」

「…よかった」


 芽紗は基本的に愛がどんな発言をしても笑って、冗談めかして受け入れる。

 それに対し、愛自身が“居心地がいい”と感じているのは……表情から察せなくとも分かることだろう。

 ふたりの関係はそうやって、うまい具合に保たれていた。

 しかし、芽紗の思いつきによって崩れていく過程は……ここではまだ、語れない。












 その日の夜。


 芽紗宅にて、愛が日課の筋トレとストレッチをこなしているところへ芽紗がやってきた。


「ねぇ、愛〜…」

「……うん。なに?」

「怖いから、一緒に寝て……あ、あと、トイレついてきてくんない?」

「ん、いいよ」


 この時はまだ狙ってお願いをしていない芽紗だったが、この頃から愛は変わらず彼女の言うことに従っていた。


 これが全ての始まりでもあり、友情関係の終わりでもある。

















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