第2話「足、舐めて」


























 愛は、自己主張をあんまりしない子だ。


 いつも物静かで感情に乏しい無表情で、本当に稀に笑ったりもするけど、大きな声を出して歯を見せて笑うような子ではなくて……泣いてるところや、怒ってるところは見たことがない。

 喜怒哀楽で言うなら、特に“怒”が抜け落ちたような人だ。


「ねぇ、愛ー…」

「…ん?どうしたの、芽紗」

「怒って」

「え?」

「なんでもいいからさ、罵ってくれない?」


 付き合ってから数日。

 不意に、困らせてみたくなってそんなお願いをしてみたら、


「いいよ。…何を言えばいい?」


 彼女は思惑通り困った顔はするものの、断ることはせず応えてくれようと首を縦に動かした。

 ……こういう系も、やだって言わないんだ。

 必要であれば、私が望めば私を傷付ける事にもためらいがないらしい愛に面食らって、言葉を失くす。


「言ってほしいことがあれば、教えて。言うから」

「じ、冗談だよ。そんなバカ真面目に受け取らなくていいって」

「…そっか。わかった」


 相変わらず何を考えてるのか分からない愛は、趣味の読書を再開させて、私はそれを横目で見つつスマホを開いた。

 なんだか未だに、隣にいることが不思議に思う。

 性格もタイプもまるで違うのに、関わり続けてくれることが信じられない。

 だから余計に、確かめたくなってしまうのかもしれない。

 私のことをどんな風に思ってるのか、愛に好かれているのか。気になって仕方ない。

 愛が都内には行かないで地元に残ってくれたから今でもこうしてお互いの家で会えるけど…本当にこれで良かったのかな?とも、思う時がある。

 一緒に居られる嬉しさよりも、たまに申し訳なさのが勝つ。

 私の軽口ひとつで愛の人生を大きく変えてしまうことが、恐ろしくも感じていた。

 なんでそこまでしてくれるのかも、分からない。


「……愛ってさ」

「うん」

「都内の大学に行ってても、私と関わってくれてた?」

「もちろん。毎週末、遊びに来てたと思うよ」


 社交辞令的なやつかもしれないけど、嬉しいことを言われて照れる反面、それなら国立大に行けばよかったのに…と、さらに罪悪感を抉られた。


「…ほんとによかったの、地元から出なくて」

「うん。…向こうの大学は、親の希望ではあったけど、私自身が望むものではなかったから」


 迷わず返事してくれた愛は本を閉じて、微笑みながら私の方を向いた。


「芽紗が残るように言ってくれて、感謝してる」


 それが、私の落ち込んだ気持ちを汲んで言ってくれたのか、本心なのかは分からなかったけど……心救われたのは確かだった。

 よかった…と体の力を抜いてベッドの側面を背もたれにする。

 愛が良いと思ってるなら、私が変に責任感じる必要はないのかなって気が重かった心を軽くした。


「安心したら、お腹すいちゃった」

「…なにか食べる?」

「買ってきてよ、焼きそばぱん」

「ん。いいよ。…他に欲しいものある?」

「……一緒に行く」


 冗談でパシリにしようとしたのに、ほんとにパシられそうになる愛を見て、これは良くない…と私も立ち上がる。

 …あ、でも。

 ここでさらに面倒くさいこと言ったら、さすがに怒ってくれるかな?と。


「……靴下、履かせて」


 邪な思いを抱いて、ベッド脇に腰を下ろして足を組んだら、愛は少しキョトンとした後で、


「…いいよ。どれ履く?」

「なんでもいい。愛が選んで」

「ん、わかった」


 わざわざ人の部屋の棚から靴下を選んで取り出すことまでしてくれて、それを持って私の足元までやってきた。

 麗しいって表現するのが的確なくらい綺麗な見た目の愛が跪いて従順に行動するのは、なんとも言えない背徳感があって、興奮にも似た何かで心を震わせる。


 ……私って、けっこう変態なのかも。


「ねぇ……そのまま、舐めてよ」


 思いついたことを願えば、彼女はまた「いいよ」と小さく呟いて、靴下を履かせる前に私のかかとを丁寧な仕草で持ち上げた。

 色のないリップを使ってるはずなのに赤い、湿りを帯びた唇が足の指先に躊躇なく当てられたのを、沸き立つ優越感を持って眼下に捉える。

 人を良いように扱う征服感は、ある種の麻薬みたいなもので。


「…もっと、ちゃんと舐めて」


 要求は醜く、ひどく歪んでいく。


「……ん。いいよ」


 唇を柔く押し付けるだけだった愛は、私の言葉を素直に聞いて、そろりと唇より赤い舌先を差し出した。

 指と指の間を滑る、ぬめりけのある肉感はいくばくかの不快感とくすぐったさ、そして恍惚にも近い心の感覚を招いて、浅く荒くなりそうな呼吸を止めた。

 いつまで続けてくれるのかな……って、すぐにはやめさせないで待ってみれば、いつまでも舌は足の指や甲の上を這う。

 ……こんなの、友だちでも恋人でもない。

 私達の間には何も縛りつけるようやものもなくて、強制的に働くものもないというのに、愛は私が「もういい」と言うまで舐める作業を続けた。


「…うがい、しておいでよ。汚いから」

「……汚くなんてないよ」


 舐め終わった後はティッシュで拭き取ってくれることまでしながら、私の発言をやんわりと否定した。

 私が自分に対するネガティブなことを言えば、こうしてちゃんと否定してくれるのに、


「次は靴…舐めてくれる?」

「…うん。いいよ」


 自分でも頭おかしいと思うくらいのお願い事には、首を横に振ろうともしない。

 なんとなく、どうしてか分からないけどムカついて、未だ足元に居る愛の肩をつま先で弱くグリグリと押してみた。

 微かに痛みで歪んだ眉の形を、言いようのない満足感を抱えて見つめる。

 さらに力を込めて足の爪が服に食い込むほど押し当ててみれば、唇を噛み締める表情へと変わった。


「痛い?」

「…少し、ね」

「やめてほしい?」

「……別に、いいよ」


 望んだ言葉が手に入らなかったことに、腹を立てて。


「あっち行って、もう」


 そのまま肩を蹴飛ばしても、愛は「わかった」と小さく呟くだけだった。

 なんで、怒らないの?

 こんなにひどいことしてるんだよ?


 イライラ、する。


「怒ってよ」

「…うん。なんて怒ればいい?」

「っ…そうじゃ、ないじゃん」


 自分がどれだけ最低なことをしてるのか、自覚があるからこそ余計にモヤモヤした。

 愛を怒らせようと思ってたはずなのに、自分ばかり感情的になってることもまた不満だった。


「ちゃんとダメなことはダメって…言ってよ」


 別にお願いとか、そういうんじゃなくて。

 あくまでも“愛の思いを聞かせて”という意味合いを込めて言ったら、彼女は小さく首を傾けた。

 それでも、すぐに頷いてはくれた。


「…わかった。言うようにする」


 そんなにも柔軟に応じられたら、もはやどうしたらいいか分からない。

 ……愛って、自分の意志とかあるのかな。

 思えば、私は彼女のことを深く知らない。聞かない限り、自分からは何も話してくれないから。

 隠してるわけでもない。ただ本当に、言わないだけ。


「今度から、その日一日どんな風に過ごしてたか毎日教えてくんない?」


 愛がどんな風に過ごしてて、何を考えて生きてるのか気になったのと、継続なお願いは有効なのか確かめるために言ってみる。


「いいよ。…会えない日は、メッセージで送るね」


 はたして毎日続くのか。

 いつまで持つかな……なんて思ってたけど、


『今日は朝五時に起きて、朝食にフレンチトーストを食べて、三十分くらいジョギングを済ませてから大学に行ったよ。講義が午前中までだったから、午後からは喫茶店のバイトして…』


 翌日の夜、けっこう具体的な内容の報告メッセージが届いて面食らった。

 しかも一日だけじゃなくて、その後何日も私のお願いに従って連日送られてきて、文章からも愛の律儀さが窺えた。


『バイト先の男性から食事のお誘いがあったけど、ちゃんと断ったよ』


 中にはそんな内容も含まれていて、もしかしたら愛の中でこれは浮気調査や防止の一環だと思われてる…?と勘付いた。

 メッセージが二週間は続いた辺りで、継続的なお願いも拒否らず叶えてくれることが判ったのもあって、私の方から『もう送らなくて大丈夫、ありがとう』とだけ伝えた。

 そうしたら、その翌日からはピタリと連絡は止んで、愛からメッセージが来ることは無くなった。…正しくは、元に戻った。

 メッセージを送るのも、遊びに誘うのもほぼ毎回私だったことを、そこで初めて気が付いて、なんだか悔しく感じた。


『今度から、そっちから遊び誘ってきて』

『わかった』


 だからお願いを追加すれば、数分足らずでメッセージは返ってくる。


『さっそくなんだけど、明日とか会える?』


 そしてさらに、本当にさっそく相手からのお誘いを貰えた。


『会えるよ』

『家に行ってもいい?』

『うん』


 と、そこで。


『明日は、露出高い服で来て』


 思いついて、つい考えるより先に送ってしまった。

 でも恥ずかしい格好なら外を歩けないし、これはさすがに断られるかも、と謎の期待を抱く。


『いいよ。…どんな服装がいい?』


 けど、これまた無駄に終わった。


『冗談。普通の私服で来て』

『わかった』


 ……つまんないの。


 自分の性格まで歪み始めてることに気付きもしないまま、愛とのメッセージを終わらせた。



















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