第44話 石原食堂

=1942年1月=


 大日本帝国が英米(蘭)に宣戦を布告した激動の12月は終わりを迎えた。


 1942年1月に入るとマレーの情勢は分析するまでもない。


 シンガポール眼前まで迫っていた。


「あぁ暖かい飯が食えるだけで幸せだな。変に煤が入っても構いやしない」


「今までの粗末な携行糧秣じゃな」


「シッ! 分隊長に聞かれるぞ」


「存分に聞いているが、今日だけは許してやる。年明けだからな」


 マレーの電撃的な進撃は圧巻の一言に尽きる。日本軍は中華民国とタイ王国の協力を得て多方面から南下した。さらに、沿岸部に強襲上陸を敢行して一気に攻め込むと、南下軍と上陸軍は合流してシンガポールを目指す。英軍は航空機の大半を失って制空権を奪われた上に希望たる東洋艦隊は壊滅した。もはや残存兵力をシンガポール大要塞に終結させて籠城戦の構えを取らざるを得ない。


 日本軍も東洋のジブラルタルを力攻めすることを嫌った。まずは地盤を固めようと攻城戦の用意を進めたが、対要塞兵器の重砲はマレー特有の地形で地帯を余儀なくされ、山下将軍も一旦は突破の槍を収めている。英軍が体勢を立て直すことに懸念されたが、偵察機のおかげで動きは筒抜けであり、仮に補給を試みようものなら野砲が火を噴き、襲撃時が低空より奇襲し、爆撃機が大量の爆弾というスコールを降らせた。


 もうシンガポール完全攻略は秒読みだろう。


「噂によればシンガポールを大艦隊が砲撃する。沿岸砲台が届かない距離から一方的に叩きのめす」


「俺は空母から飛行機が飛ぶって聞いたが」


「空から兵士が飛び降りるとか」


 シンガポールの目と鼻の先とはいかなかった。やや後方に陣地を構築して最前線も最前線の将兵を定期的に入れ替える。いかに東亜連邦の兵士が精強と雖も人間に変わりなく、傷病兵が多い部隊は予備部隊と交代させるが、単に疲労が蓄積した部隊も交代させた。常にフレッシュな将兵を配置することに努める。これも東亜連邦の結束の賜物だ。日本人に限らない中国人や台湾人など東亜の友が団結して傍若無人な欧米人を打ち負かす。


 将兵の後方拠点における楽しみは何よりも食事の時間だった。山林のど真ん中でなく小さな集落ならば食堂が丸ごと出張して来る。日本人は古来より食事に一切の手を抜かないことで知られ、心身に根付いた精神は戦場だろうと関係なく、最前線でも暖かい食事がとれるように明治の日露戦争から研究を重ねた。昨今の急速な機械化の流れに乗ると移動式のキッチンが登場する。


「これも炊事車のおかげだ」


「人呼んで」


「石原食堂」


「石原大将に感謝せんといけない。石原陸軍大臣の頭の中は狂っちゃいない」


「大馬鹿をやった連中を粛清したこともある。閣下は誰よりも聡明なんだから」


 石原莞爾は中国の内戦から食事の改善を訴え続けてきた。独断で貨物車に炊事能力を付与して運用すると現場の評判は上々である。前線に暖かい食事を提供するだけで戦局は大きく変わった。将兵の士気を維持して向上させることができる。もちろん、一気に食いつぶされては堪らず、携行糧秣とバランス良く供給した。


 この成功から本格的に炊事車両の研究を開始する。従来型又は新型の貨物車を流用して発電機と沸水装置、炊飯装置、煮汁装置、排水装置を搭載した。主に積載能力の高いトラックを原型に採用する。九四式六輪自動貨車を素体にした九七式炊事自動車が各地を駆け回った。その構造自体はシンプルで事故の危険を呈したが、総じて手間が少ないことで故障は少なく、移動中に調理可能な能力もあって大成功を収める。


 日本陸軍は気を良くして食事の拘りに本気を出した。四輪自動貨車や装軌車、半装軌車など広義の貨物車に炊事能力を与える。日本は国家を挙げてのプロジェクトとして軍の機械化の基礎作りとして自動車の大拡充を図った。軍用を民間に払い下げて競争という市場原理を働かせ、民間企業が作り出した優秀な物は採用と称して回収する。


「二輪車?」


「今更に連絡か」


「いいや、あれは向こうの部隊に凝った料理を配達する。あいにく、着く頃には冷めているだろうが、携行糧秣の乾パンと缶詰に比べればな」


「なるほど、よく考えましたね」


「自動車が通れない道は二輪車なら楽々という」


「三輪車も?」


「もちろんだとも」


 炊事班は現地調達した野菜や芋を駆使して野菜スープを作った。携行糧秣の食料も活用する。炊事車の調理能力は米飯、汁物、副菜などを同時並行で100人分近くを誇った。過酷な前線で携行糧秣ことレーションが続けば必然的に飽きが訪れる。飽きを超えると虚無に至って食事が楽しみから苦しみに一変した。こうなっては将兵は気力を失い最低限の抵抗も覚束ない。炊事車が最前線に暖かい食事を提供することは画期的と言わずしてなんというのだ。


 英軍とまさに額を突き合わせる者は乾パンや缶詰で飢えを凌いでいる。いくらなんでも、無防備な上に位置を暴露され易い炊事車を送ることはできなかった。二輪車と三輪貨車に配達を担わせる。特製の鉄箱の中に食事を詰め込んでは隘路を突破した。二輪車と三輪車は機動力に富んでいる。積載量こそ四輪車と六輪車に劣れど悪路の走破能力は侮れなかった。現地に到着する頃には冷えているだろうが、粗末な食事が続く中では御馳走である。


「無線を飛ばせば輸送機が食料を落としてくれる。いやぁ、良い時代になったもの」


「まったく、まったく」


「満州の演習が懐かしい。携行糧秣だけで凌げと言うのがアホらしい」


「そろそろいい加減にしておけよ。お偉いさんが来た」


「食事中にすまないね」


「なんと大隊長!?」


 ホカホカの玄米飯にホロホロの牛肉の大和煮(缶詰を基に改良)、アツアツの野菜スープを堪能した。分隊長を遥かに超えて大隊長が来訪する。まさかのお偉いさんに直立不動になりかけたが、大隊長は両手で制するとドカッと座り込み、あろうことか、末端の兵士達と食事を共にし始めた。普段は階級の差からあり得ないことでも人間性次第でどうでも良い事になろう。


「君たちは斥候の中でも抜群に潜入が上手いと聞いている。共産党勢力の馬賊を相手に二輪車で激闘を演じたこと」


「お、お恥ずかしながら…」


「そこで折り入って頼みたいことがある」


「わしらです?」


「君たちにしかできないだろうな。シンガポールまでに至る各所に陣地が構築されている。これに小さくとも穴を開けて一気に突破したい」


「それで潜入して探れと…」


「航空機の偵察で判明していることだ。君たちは二輪車で奇襲を仕掛けてもらう。機関銃陣地に殴り込みを仕掛けるんだ。手榴弾で片端から吹っ飛ばせ」


 仲良し組の正体は斥候隊だ。小型の二輪車を駆って悪路という悪路を走破した先にある敵陣に潜入する。二輪車を降りて隠した後は現代の忍者と潜り込んだ。火砲の配置や将兵の数、今日の献立までを詳細にメモに書き記す。シンガポール中心部に至る防御線の偵察は司令部偵察機が担い始めると暫しの休息を得られた。


 大隊長は斥候隊の技量を高く評価すると奇想天外な奇襲攻撃を命じる。彼らが自慢とする二輪車で機関銃陣地に突っ込ませ、軽機関銃と機関短銃で掃射しながら手榴弾を投げ込み、機関銃陣地に穴を開けるなんて常軌を逸していた。普通は野砲や山砲などから榴弾を叩き込むところ、機関銃の威力たるや恐ろしく、生身の人間が突っ込むことは暴挙に等しい。


「手榴弾は九九式を収束した物を与える。二輪車から投げ込める程度に作った」


「こいつは随分と命がけな仕事です」


「ビールが飲めるぞ。無論も生きて帰って来ればの話だがね」


「敵陣を収束の手榴弾で吹っ飛ばせば良いわけですね? いつも潜伏するばかりで鬱憤が溜まっていたんですよ」


「そいつは好都合じゃないか」


「やりましょうか。うちの本田二輪は小さい見た目と裏腹に速いですから」


 石原食堂の場で小さな大作戦が纏まった。


続く

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