第38話 1941年12月8日

 全国各地のラジオに緊急放送が流れた。今まで一度も流れたことのない特徴的な重低音の緊急チャイムが数秒流れる。音の組み合わせは不思議で単純だが恐怖心を煽ったが、アナウンサーが落ち着いた声色で淀みなく語り始めると薄れていき、聴衆は一寸も離れることができなかった。


「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます」


 都市部ではインフラの充実から個人か少人数でラジオを所有する。農村部はインフラが浸透し切っておらず、人々は共同聴取設備に集まって真剣に聞いた。ラジオ放送は大衆文化となるが、農村部では皆で一つのラジオを共有することが未だ多くあり、国土の発展は当分先であることが窺い知れる。


「大本営の陸軍部と海軍部より発表。12月8日午前6時。帝国海軍と帝国陸軍は8日未明に西太平洋にてアメリカ・イギリス軍と交戦状態に突入。政府は国家非常事態宣言を発出。繰り返します…」


 アナウンサーのプロフェッショナルは見事の一言だ。普通は卒倒する内容をハッキリとスラスラと綴る。ラジオの性能がお世辞にも良くない時代に合わせた。ラジオを前にする聴衆が聞き取り易い声であり、アナウンサーは手元の原稿の内容が強烈でも、プロフェッショナルを貫徹してみせる。


 本日(12月8日)午前6時に大本営は陸海軍の連名で米国並びに英国と交戦状態に突入という国家非常事態宣言を発した。東亜連邦と欧米諸国による大東亜戦争が始まったのである。海軍はハワイやシンガポールなどに大規模な奇襲攻撃を敢行した。陸軍はマレーを南進してグアム、フィリピンなどに強襲上陸する。もちろん、詳しい内容なんぞ伝えられるわけがなく、とにかく、日本と英米が戦争状態に突入して国家非常事態宣言が発せられたことを繰り返した。


「帝国海軍と帝国陸軍の発表は大本営から行われます。市民の皆様はどうか落ち着いて普段通りの生活を続けてください」


「普段通りと言うが一定程度の配給は行われる。欲しがりません。勝つまでは。よくできたスローガンだな」


「陸軍の広報担当は優秀です。宣伝戦も戦争の一つ。これは閣下の持論であります」


「米国市民に厭戦気分を蔓延させる。自国市民に徹底抗戦を根付かせる。宣伝を軽視すれば内側から崩壊しかねない」


「私を最前線に視察に行かせてくだされば将兵の士気まで上げられます。ついでに現場視察を通じて改善を…」


「現場に不要な負担をかけるな。フィリピンは本間中将に任せた。蘭領インドシナは今村大将に任せた。マレーからシンガポールは山下大将に任せた。それぞれを分担させている。辻が出る幕はないぞ」


 石原莞爾陸軍大臣も大型の真空管ラジオで発表を聞いている。ラジオの聴衆に与えらえる情報は都合の良いことが占めた。己が直に受ける情報と乖離すると雖も宣伝戦のためには仕方のない。自国民の国威発揚と士気向上に情報統制は必要不可欠だ。いわゆる大本営発表も当時としては一般的である。大本営発表と言えばの過大な誇張はやり過ぎを指摘した。大本営発表は程よく粉飾するのが望ましい。米国政府も強烈な情報統制を敷き、各種発表を誇張するに止まらず、架空の戦いと艦艇など0から100を生み出すことが多かった。


 結局のところ同じ穴の狢なのだろう。


「帝国海軍はハワイを大爆撃し敵戦艦多数を撃沈した。シンガポールも大空襲して機能を完全に喪失させた。我が方の損害は微弱なり」


「随分と気が早い。日付が変わった頃に始まってもだ。早すぎるよ」


「これくらいがちょうど良いのです。最前線を知らぬ市民には甘い話だけ伝えれば」


「時には渋みを与えんと再び暴動が起ころう。日比谷の焼き打ちが二度あってはならん」


「広報部門に統制を徹底させます」


 本日未明に帝国海軍と帝国陸軍が西太平洋で英米軍と交戦状態に突入したことは事実でも誇張を超えて虚構が混じった。最たるはハワイの真珠湾基地を大爆撃し敵戦艦多数を撃沈した内容を挙げられる。ハワイの真珠湾基地大爆撃は山本長官の空想に過ぎなかった。いいや、格好の国威発揚と士気向上に利用できると価値を見出した。石原莞爾は情報戦と並んで宣伝戦も重視する。


 彼の副官を自称する辻政信は最前線の視察を申し出るが即座に却下された。辻という軍人は優秀な時とダメな時がキッパリと分かれる。せっかくの快進撃を邪魔しては本末転倒と言った。各方面に割いた将軍にノビノビと指揮してもらうため、辻は石原の隣に置いて補佐に専念させるが吉とし、己の冷酷さを辻に擦り付けることで追及を回避できる。


「阿南さんが面会を求めて来られました」


「阿南さんが自ら出向いて来られた。余程のことでもあったかな。すぐに面会の場を設けよ。茶と菓子を出して人を払え」


「はい」


 ラジオ放送を楽しんでいるのも束の間だ。陸軍次官の阿南惟幾が来訪する。今日の予定になく困惑しようと迎えなければ非礼も無礼だった。陸軍大臣が軍政をメインに作戦には口を出せない前例を打破しており、石原莞爾が積極的にズバズバと衝いてズケズケと入り込んでいる。これを嫌がって意見具申に訪れたのかもしれず、阿南さんと一対一で話したいと茶と菓子を用意させると、腹心の辻を含めた人を払いも払り切った。陸軍大学校の同期で友人と言えるが、人徳を代表に到底敵わない部分が多々見受けられ、石原は「阿南さん」と呼んでは彼の言う事に素直に従おう。どこぞのトージョーと違って大きな器に収まるべき人物だ。今は時機を見定めている。米内光政の後釜は東久邇宮稔彦王の推挙もあって阿南惟幾が座ることを予知した。


「私はドンドン行けとは言った。フィリピンを焼き払えとは言っていない」


「やはり、そのお話しでしたか。満州航空隊を動員してフィリピンを絨毯爆撃することを」


「海軍の井上から了承を得たからと陸軍の了承を得たわけでもあるまい。市民に被害が出てはまともに統治できん」


「彼らが抵抗しないと宣言すれば血を流すことはありません。フィリピンから米軍の航空戦力を根こそぎと削いだ上で包囲を図り降伏を突きつけます。敵将はマッカーサーです。バターン半島とコレヒドール島に逃げ込むでしょう。これを未然に阻止すれば絨毯爆撃を使わずとも勝手に白旗を掲げる」


「あくまでも奥の手なんだな?」


「奥の手かもしれません。なにせ戦いは常に移り行くので順番は狂いがち」


 阿南さんのため息が全てを示す。


 石原莞爾の冷酷は今に始まった話でなかった。フィリピン攻略作戦に基地航空隊の重爆撃機を動員する。フィリピン全土を絨毯爆撃することを懸念すると牽制球を投げ込んだ。彼は東亜連邦を築くと謳うが市民に大きな被害が出ては後々に面倒が積み重なる。市民にスパイ活動を行われて情報漏洩の入り口になり、米軍の潜入を招かれては堪らず、いっそのこと事前に一網打尽にした方が良いんだ。一応は親日派勢力と接触を図り、フィリピン内部で親米派と抗争を行わせることで深々と楔を打ち込むが、米軍も親米派を支援して代理戦争の様相を呈する。


「マッカーサーが逃げる可能性はどうなんだ」


「奴は狭所を嫌っています。航空機と軍艦の脱出を封じられた場合は潜水艦一択ですが、奴は潜水艦に強烈な嫌悪感を抱いて脱出を拒むと考えられ、決死の脱出を図るとなれば魚雷艇など小型の舟艇に絞られた」


「何を知っている。本当にお前が恐ろしい」


「未来を予知できる能力者と呼んでいただければ」


「それでフィリピンが陥落するとは思えない。現地の指揮を本間中将に一任して辻を派遣しなかったことは評価しよう。あいつは石原莞爾の横でしか輝けない」


「私も同感です。阿南さんが何と言おうと重爆撃機は投入します。重爆の目標がコレヒドール要塞ならば文句は生じませんね」


「それなら結構だが銃口は市民に向けるな」


「よく存じております」


 いつもは温厚な阿南も怒りを露わにして譲れないことがあった。


 いつもは冷静な石原も語気を強めて譲れないことがあった。


続く

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