第三章

 

 後日、たいされたというれんらくが入った。罪状は、殺人すい

 伯父の説明のあいまいさ、しんしつの様子、そして私のいっかんした証言。それらをまえて母がけいに調査をらいし、その結果伯父のくわだてが明るみに出た。


「薬の副作用のせいにして、アベルを窓からき落とすつもりだった。責任をついきゅうされないために、暴れるアベルにびんなぐりつけられたことにしようと考えた」


 伯父は取り調べで、そのような説明をしたという。つまり、あのは自作自演だったということ。


「自分自身をあれほど強く殴りつけることができるとは、それほど強い意思を持っていたのでしょう」


 伯父の怪我をた医師は、そう語っていた。

 一歩ちがえれば私も危険な目にっていたかもしれないということで、護衛からは何度も謝罪を受けた。護衛は「しかるべきばつを」などと言っていたけれど、あの時部屋に一人で入ることを決めたのは私だ。あの場で私を止めることも、共に入室することも、彼にはできなかったのだから、気にむ必要はまるでない。なおにそう伝えたところ、護衛はなみだを流していた。

 ちなみに、伯父のたくらみが明らかになった時点で、ジェラルド殿でんにはスピアーズ家からこんやく辞退を申し出た。がい者が当主であるといえども、身内から逮捕者が出たのだから、当然のことだろう。

 しかし殿下はにやりと笑い、「何を馬鹿なことを」と言うだけだった。やはり私は、この世界でも悪役としての生をまっとうしなければならない運命にあるらしい。

 あの事件から一ヵ月が経過し、ようやく父も自力で起き上がれるまでに回復した。父がかかった熱病については、りんごくにおいてはすでにりょう法が確立されていたらしく、伯父の持ち物の中に有効な治療薬がふくまれていたおかげである。

 そんな父に「話がある」と呼び出された私は、父のベッドわきに置かれたこしけ、ずいぶんと良くなった父の顔色にあんしつつ、父が口を開くのをじっと待つ。


「……私が長らく飲まされていた薬は、血圧を下げる効果があるものだったそうだ」


 伯父から聞かされていたのとはまるで違うその薬の内容に、父のすいじゃくすらも伯父が企てたものだったのかと、心の中でいかりが再燃する。


あやつ、、、が隣国から持ち込んだ薬の中に、強力な自白ざいがあったらしい。治験もねてやつにとうしたところ、そのおもわくをぺらぺらと語っているとのことだ」


 父によると、伯父は長男である自分がこうしゃく位をげなかったことに対して不満をいだいており、前公爵である祖父と父をうらんでいたそうだ。


「私を殺して、この家を乗っ取ろうとしていたんだよ。タマルとさいこんし、エリスのけいとなる。やつは公爵という地位と、王太子の継父という、その両方を手に入れようとしていたのだ」


 そう言う父は、かつてないほどに怒りに満ちた顔をしていた。


「今後、やつが外に出ることは二度とかなわないだろう」


 本来ならば死罪に処されても不思議ではない行いであったけれども、伯父の薬学者としての功績は本物だった。国としても、薬学者としての伯父をばなすのは痛手になるとのことで、厳重な警備下で働き続けることになったそうだ。

 父の話が終わるのを待って、私はずっと気になっていたことをたずねる。


「……主治医は、どうなるのでしょう?」


 彼に責任が全くない、とは思わない。しかし、これまでの我が家へのけんしんを知る私は、あの日以来姿を見せない主治医の現状が、ずっと気がかりだった。


「責任は負わねばならないだろうが、私からもげんけいを求めているところだよ」


 そう言って父は力なく笑うと、「加害者が主人の兄であり、薬学に精通する人間であったとしても、彼は私の主治医として、この事件を未然に防ぐ責任があったのだ」と続けた。

 主治医をしんらいしている父が、家族間のいさかいに彼を巻き込んでしまったことをうれえていることを、私は知っている。しかし、父が権力を使って彼のしょうみ消すような人間でないことも、私は知っている。

 父の痛みに思いをせ、これ以上父の顔を見ていることができないと、目をらしたのがいけなかったのか。ベッド脇に積まれた資料の中に書かれた、見覚えのある名前が目に入った。

 ――ラルフ。

 その名を見て、身体からだ中に電流が走ったかのようなしょうげきを感じる。そうか、ここでつながるのか……。『ガクレラ』のこうりゃく対象者の一人である次期公爵、ラルフ・スピアーズ。エリスていであり、スピアーズ公爵家のあと取り。幼少期をせいで過ごしていた彼が、エリスから「にせ貴族」とののしられいじめられてきたのだと、ヒロインに告白するシーンがのうよみがえる。【ラルフルート】において、王太子が婚約を告げるあの場で、しき内におけるエリスの悪行をこわだかうったえるラルフの顔には、エリスに対するけん感がはっきりとかんでいた。


「エリス!? どうしたんだ!?」


 書類から目をはなすことなくおく辿たどる私は、あまりにひどい顔をしていたのだろう。あわてたような父の言葉が、私を現実へと引きもどす。


「……すみません、少し考え事をしていました。ところで、そちらの書類は?」


 推測するに、おそらく伯父に関する報告がまとめられた資料なのだろう。ぬすみ見はめられたことではないけれど、人目に付く場所に置かれているということは、見られても構わない内容であるはず。

 そう思って尋ねてはみたものの、自分のどうが大きく脈打っているのを感じる。


「ああ、あやつに関する報告書だ。やつはしょみんの女性との間に子をもうけていたらしい。今は母親と共に城下で暮らしているその子を、引き取って次期公爵にしようということまで考えていたのだと」


 ……なるほど。だからラルフは〝次期公爵〞で、〝エリスの義弟〞だったのか。『ガクレラ』の本編で、エリスの過去についてれられるシーンはなかった。しかし、ラルフ・スピアーズが次期公爵を名乗っていたことを考えると、ゲーム内では伯父の今回の企てが成功していたのだろう。父は事故死に見せかけて殺され、伯父が当主を名乗るようになり、ラルフを公爵家に引き入れて私達と家族として暮らしているのが、『ガクレラ』におけるスピアーズ公爵家だったのだ。

 そのことに思い至り、改めて目の前に父が生きていることに感謝する。


「……お父様がご無事で、本当によかった」


 その言葉と共にあふれ出た涙を、父の指がそっとぬぐった。


「これからもエリスの成長を見守ることができて、私もうれしい限りだよ」


 父のその言葉は私に喜びをもたらすけれど、しかし同時にあんたんたる思いをももたらした。

 ゲームと比べて、エリスじょうきょうは良くなった。けれども、ラルフは? もしも彼が、次期公爵になることを望んでいたとしたら? 私がゲームの内容を変えてしまったことで、ラルフの状況が悪化するのであれば、なんの罪もないラルフにとっては、私の行動が〝じんな仕打ち〞にあたるのではないだろうか。


「……お父様、私の考えをお聞きいただけませんか?」


 気がつけば私は、そう口走っていた。


「ああ、なんだい?」

「その子を、スピアーズ家で引き取ることはできませんか?」


 とつぜんの提案は、父の予想をはるかにえたものだったのだろう。私の言葉を聞いて、父はひとみこぼれんばかりに見開いた。


「もちろん、その子が望まなければ無理矢理に連れてくる必要はありません。ですが、父親が罪人になってしまったのです。その子が今まで通りに生きていけるとは思えません。生活費を伯父にたよっていたのであれば、それもなくなってしまうでしょう」


 とっぴょうもない提案であることはわかっている。しかし、私のせいでラルフが不幸になるのはめが悪い。


「加害者のむすではありますが、私達のけつえん者であり、何より彼自身に非はありませんから。少なくとも、何かしらの策を講じてはいただけませんか?」


 私の話を聞いた後、父は何かを考え込むかのように押し黙り、私もそれにならった。実際には数分なのだろうけれど、体感としてはとてつもなく長いちんもくだった。

 やがて父は大きく息をき、難しい顔をしたまま「考えてみよう」と応えたのだった。



*****



 日々慌ただしく過ごしているうちに、私は十一歳の誕生日をむかえた。

 例年であればささやかな誕生パーティーがかいさいされるのだが、今年はそれどころではなく、身内でひっそりとお祝いをするにとどまった。


「きちんと祝うことができず、申し訳ない」


 父はそう言って悲しそうな顔をしたけれど、全くもって問題はない。


「お父様とお母様がお元気で、私が生まれた日を祝ってくださること以上に、幸せなことなどありますでしょうか」


 実際、『ガクレラ』の設定通りに進んでいたならば、目の前に座るのは父ではなく伯父だったのだ。どれほどせいだいなパーティーが開かれようとも、父が生きている今の方がよっぽど幸せであろう。そんなことを考える私を、なみだの両親が強く抱きしめた。

 まもなく、あの事件から半年がとうとしている。父は以前と変わらず生活できるようになり、我がスピアーズ家にもへいおんが戻りつつある。

 しかし、以前とは大きく違う点が一つある。両親に抱きしめられながら目線を前に向けると、そこには私の義弟が座っていた。

 ラルフ・スピアーズ。私の伯父であるカインと、庶民の女性との間に生まれた子。

 ゲーム内では、母親をくしたラルフが父親であるスピアーズ公爵に引き取られたという設定だったけれども、現時点でラルフの母親は生きている。伯父からは毎月わずかな金銭がわたされていたようだが、ラルフと伯父の間には親子らしい関わりもなく、母親が必死に働いて彼を育てていたと聞いている。

 そのため、ラルフははじめ、スピアーズ家の養子になることをこばんだ。「これまで育ててくれた母を捨てて、自分だけ貴族になるなんてできない」と言っていたそうだ。

 この世界において、貴族の養子になる際には実親との関係を解消する必要がある。実親との交流そのものが禁止されることはないが、公爵家の跡取りとなった人間が気軽に会いに行くことも、現実的には難しい。

 そこで父が提案したのが、ラルフの母親を我が家でようすることだった。


「親子として関わることはできないが、今よりもかんきょうで働ける上に、君の成長を近くで見守ることもできる」


 父のその言葉を聞いて、ようやくラルフは首を縦にったと聞かされている。

 この話を聞いた時、私はひそかに胸をろした。『ガクレラ』におけるラルフの母親の死が、ラルフを引き取るために伯父によって企てられた殺人である可能性もあるが、こくな労働による病気や、あるいは事故の可能性も十分にあるのだ。彼女の死を防ぐことができるかはわからないけれど、そのままにしておくよりは良いだろう。

 そしてもう一つ、思い出したことがある。『ガクレラ』の【ラルフルート】において、ラルフは私の悪行を明らかにした上で、ヒロインとけっこんしてスピアーズ公爵家を継ぐことになっている。つまり、このルートにおいて、ヒロインは公爵じんになるのだ。

 正直なところ、私はヒロインに対しては悪い印象を持っていない。【ジェラルドルート】のヒロインに対しては、「婚約者がいる相手に……」と思わなくもないが、彼女がラルフを選ぶのであれば、そのこいおうえんしてあげたいと思っている。もちろん、そのせんたくによって不幸になる人物がいなければ、の話だけれど。


 ただしそれは、ヒロインにとっていばらの道になるだろう。王太子妃ほどではないものの、公爵夫人になるためにも、相当なレベルの知識や教養が求められるのだ。幼いころから教育を受けてきた訳でもない、平民であるヒロインが、貴族社会の中でかたせまい思いをすることは目に見えている。

 しかし私は、ヒロインが本気でラルフを愛し、公爵夫人としてやっていこうという思いを持って努力するのなら、彼女にも幸せになってほしいと思っている。そのためには、ヒロイン本人の血のにじむような努力と共に、ラルフのサポートが必要だろう。

 ラルフが貴族社会の中で上手うまく立ち回れるかいなかで、ヒロインの〝物語のその後〞の人生における幸福度合いは大きく変わってくるはず。ヒロインの幸せのためには、まずラルフが立派な次期公爵にならねばならぬのだ。

 もちろん、ヒロインはラルフを相手に選ばないかもしれない。そうであったとしても、スピアーズ公爵家の跡取りであるラルフが一目置かれる存在であることは、私にとってもメリットがある。

 父が生きているこの世界で、王太子が一方的に私に婚約破棄を言い渡したとして、おそらくスピアーズ家は王家に苦言をていするだろう。その際、その言葉がどこまで聞き入れられるかについて、現当主である父の力量のみならず、次期当主であるラルフの力量もまた、その判断材料になりうる。

 従って、不義理を働いた王太子をごくに引き|摺《ず

》り込むためにも、ラルフには王家に認められるだけの力を付けてもらう必要があるのだ。

 もう一度、目の前のラルフに意識を向ける。両親と私が抱き合う中、ごこが悪そうに視線を彷徨さまよわせている彼は、まだまだ公爵家の人間には見えない。しかし、この屋敷に来てまだ数日のラルフが、どう振るえばよいのかわからないのは、当然のことだろう。


「ラルフ、いらっしゃい」


 今はまだ、口うるさく言う必要なんてない。我々はラルフを家族として受け入れているのだと伝えることが、今の私達がすべきこと。

 私のその言葉に、おずおずとこちらにやって来たラルフを、私は正面から抱きしめる。


「お父様とお母様だけではないわ。ここにあなたがいてくれることも、私は嬉しいのよ」


 未来の我がわいさに、ラルフにびを売るつもりはまるでない。けれども、複雑な立場にあるこの子に、少しでも幸せを感じてもらいたい。子どもには、自身の存在そのものをこうていしてくれる人間が必要なのだ。

 おそらくこの子は、たくさんのせつを味わうことになるだろう。そんな時に、無条件に味方でいてくれる人間がいることは、きっと大きな力になるはず。少なくとも前世の私は、常にそういう人物をほっしていた。


「エリスの言う通りだ。私達にとって特別なこの日を、ラルフと共に迎えられて嬉しく思うよ」


 父はそう言うと、私のうでの中で固まってしまったラルフの頭に、やさしく手を置いた。


「今後、公爵家の当主として、厳しいことも言わねばならない。けれども、それはにくしみからくるものではないということを、どうか覚えておいてくれ」


 父の言葉に、ラルフの身体の力がけるのがわかった。加害者の息子として、ラルフが父にどう接すれば良いかなやんでいたことを、父はきちんと気づいていたのだ。


「……はい、お父様」


 そう答えるラルフの声は、僅かにかすれているようだった。


「スピアーズ公爵のおいとは、上手くいっているか?」


 一週間ぶりに会うジェラルド殿下は、私の顔を見るなりそう尋ねた。ラルフを我が家に迎え入れて以来、ずっと心配してくれていたのだろうかと思うと、私はちょっぴりこそばゆい気持ちになる。


「はい、おかげさまで。とは、上手くやっております」


 私がそう言い直すと、ジェラルド殿下のかたの力が抜けるのが見て取れた。


「すまない。そうだな、もう弟なのだな」


 そう言う殿下は、心なしか嬉しそうだ。


「彼がエリスに害をなすことがあれば、すぐに私に教えてほしい。厳正に対処する」


 じょうだんめかして発せられた殿下のその言葉を聞いて、ふいに前世で「おまえを守るから付き合ってほしい」と言われた時のことを思い出す。その時は「一体何から守るんだよ。火事か? しんか?」と心の中で毒づいたものだけれど、それに比べて殿下の言葉は非常に良い。どうするかが明確な上に、それを成しえるだけの力を有しているところが。

 私がそのようにどうでもいい思い出にひたっていると、ジェラルド殿下が手で軽く指示を出して、室内から人を立ち退かせた。私と殿下を二人きりにするということは、私達への信頼の表れでもあるのだが、殿下がそれを指示した意図がわからない。

 不思議に思ってジェラルド殿下の顔を見つめると、彼は僅かに|頰《ほお

》を染めた後、軽くせきばらいをして声をひそめた。


「しかしスピアーズ公爵は、その子を跡取りとして育てるのだろう? だいじょうなのか?」

「と、言いますと?」


 真面目な表情で告げられたその言葉がどういう意味なのかを問うと、ジェラルド殿下は気まずそうな顔をした。


「……生みの親はしょうだと聞いている」


 ジェラルド殿下のその言葉に、私は静かに息をむ。

 伯父から十分な金銭もあたえられず、頼れる人間もいない。そんな彼女が、生計を立てるために最後に行きついたのがしょう|館《

かん》であるということは、ごくごく限られた人間しか知らない。前世の日本よりも、性を売る職業の人間に対する風当たりが強いこの世界で、彼女の前職をせるのが最善だと判断されるのは、仕方がないことだった。

 ジェラルド殿下がスピアーズ家を本気で心配してくれていることはわかっているし、「彼女の前職をなるべく伏せたい」という我々の思いを尊重して、人払いをしてくれたことにも感謝している。

 けれども、だ。


「ジェラルド殿下、その言葉ですよ」


 彼に悪意がないからこそ、その言葉はこの上なくざんこくなものなのだ。


「以前殿下は、『平等な社会を作りたい、差異は単なる差異にすぎない』とおっしゃっていたでしょう? では、仮にラルフの生みの親が八百屋を営んでいたとして、殿下は『八百屋の子で大丈夫か?』とお聞きになりましたか?」


 私のその言葉に、ジェラルド殿下がはっとした表情を見せる。


「庶民の職業と言っても、その中にもさらに階級があるのです。殿下がおっしゃったように、おそらく娼婦はその中でも最下層に位置する職業の一つでしょう」


 これに関しては、前世でも似たようなものだった。「職業にせんはない」と言うけれど、〝光とかげ〞は存在していたし、さらに言えば、〝影〞の中にも〝うっすらと明るい影〞から〝何

も見えない真っ暗やみ〞までの階級が存在していた。


「しかしだからと言って、彼女達をおとった存在と見なすのは、いかがなものかと」


 娼婦として働く人間が、なぜその職を選んだのか。自ら望んでその職にいている者もいれば、他にどうすることもできずに仕方がなく働いている者もいるだろう。そこで働く人間が、みなほこりを持って働いているとは言い切れない。けれどもそれは、何も知らない人間が彼女達のことをおとしめても良い理由にはならない。

 そしてジェラルド殿下は、自身が無意識に彼女達を見下していることに気がつかなければならない。なぜなら、彼は平等な社会を作ることを目標としているから。庶民の中でもゆうれつが存在している状況で、そしてその優劣を当然のものとして受け入れている状況で、身分制度をてっぱいしただけでは平等な社会などおとずれるはずがないのだ。


「……すまなかった。やがて国王になる私が、口にすべき言葉ではなかった」


 私が言わんとしたことが伝わったのだろう。ジェラルド殿下はそう言うと、両手で自身の顔をおおってうつむいた。


「エリスの言葉に、私は気づかされてばかりだ」


 力なく発せられたその言葉に、私はしょうする。殿下は、私を買いかぶりすぎだ。

 人は、知らないことに関しては、想像すらできない。ジェラルド殿下がそのように思うのは、前世の私が殿下の想像もつかないような世界で生きていたからだ。ほうかいしかかった家庭で育ち、ろくに学校にも通わず、人生をあきらめながら生きていたからだ。この世界の娼婦が置かれた立場に思いをいたせるのも、周囲に似たようなきょうぐうの人間がいる世界で生きていたからという、ただそれだけの理由なのだ。


「私の婚約者がエリスで、私はとても嬉しいよ」


 いつの間にか私の真横に移動していたジェラルド殿下は、そう言って私のかみに口づけを落とした。そのまま至近きょで瞳をのぞき込まれて、私は息がまる。ジェラルド殿下の真っぐな視線から、彼の言葉が本心であると感じられて、どうしたらいいのかがわからなくなってしまう。


「……そう言っていただけて、光栄です」


 なんとか声をしぼり出し、「これからもお役に立てるよう、しょうじんいたしますね」と続けると、ジェラルド殿下は静かに笑った。その表情を見て、私は鼓動が速くなるのを感じる。

 政略結婚の相手でしかない私のことを心配してくれるところ、私の意思を尊重してくれるところ、自身のあやまちを認められるところ、好意を素直に伝えられるところ。それらのジェラルド殿下の美点が、私にはとてもまぶしく感じられる。とてもとても眩しくて、そして少し悲しい。……何も知らず、ただただ彼のことを好きになれたなら、どれほどよかっただろうか。いつの間にかそんなことを考えていた自分に、私は心底おどろいた。

 沈黙と共にずかしさがただようこの空気を破ったのは、ジェラルド殿下だった。


「さあ、紅茶が冷めてしまっている。新しいものと取りえてもらわねば」


 殿下はそう言うと、室内に人を呼び戻した。

 最初の頃はさつばつとしたふんだったこの交流の場も、今ではなごやかな空気に満ちており、実は私はこの場を毎週の楽しみにしている。そしておそらく殿下も、この場を「良い息抜きだ」と思ってくれている。

 いずれ私は、ジェラルド殿下から婚約破棄を言い渡される運命にある。その時彼がどのような言葉で私を非難するのか、そしてどのような表情をヒロインに向けるのか、私はすでに知ってしまっている。

 必要以上に傷つきたくないのなら、深入りしないのが身のためだ。そう自分に言い聞かせるものの、できるだけ長くこの関係が続けばいいなと、そんなふうに思ってしまった。

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