第二章

 

「以前エリスが言っていた特待生制度が、来年度から試験的に導入されることになった」


 つい二日前にもお茶をしたというのに、今日も朝一でジェラルド殿でんから呼び出しがあったので何事かと思っていたら、どうやらそれを伝えたかったらしい。彼はとてもごげんのようで、だんは手をつけない焼きを、もう二つも口にしている。


「こんなに早く導入が決まるなんて……」


 私が殿下に特待生制度の話をしてから、まだ三ヵ月しかっていないのだ。仕事の早さから彼の本気度が伝わってくる。


「エリスのおかげだ。本当にありがとう」


 ジェラルド殿下はそう言ってくったくなく笑うけれど、対する私は苦笑いで返すほかない。

 この世界において、おそらく近い将来だれかが提言し採用されるはずだった、王立学園における特待生制度。本来提言者になるはずだった名前も知らない誰かに対して、私は心の中で何度も謝罪する。がらを横取りする気は、これっぽっちもなかったのだ。

 しかし、結果として学園関係者に私の名をい形で知られたのはよかった。特待生制度の設立に、特権意識の強い一部の貴族の中には反対する者もいるようだけれど、学園長や教授といった学園の関係者は、手放しで賛成しているらしい。こんやくそうどうが引き起こされる学園内において、私に良い印象を持つ者がいるというのは、かなり有利なじょうきょうだ。

 それだけではない。私の不用意な発言によって、制度の開始が『ガクレラ』の設定よりもほんの少しだけ早まることになったということは、つまり王立学園で学べるしょみんの数もほんの少しだけ増えたということ。そう考えると、この国にとっても悪い話ではないと、自分を無理矢理なっとくさせる。

 すると急に、それまでじょうげんだったジェラルド殿下が真面目な表情をかべた。


「……ところで、スピアーズこうしゃくの具合はどうだ?」


 殿下からのその問いけに、胸がちりっと痛むのを感じるけれども、なるべく顔には出さずに小さく首を横にる。


「回復しているとは言いがたい状況です」


 少し前に、父が高熱でたおれた。我が国ではまだりょう法が確立されていない熱病であることから、たいしょうりょうほうたよるしかなく、ただただ回復をいのる毎日が続いている。ただし、このことはごくごく限られた人間にしか明かされていない。

 父の体調不良を知るのは、スピアーズ家で働く者を除いては、国王夫妻と、王太子であるジェラルド殿下、そして父の直属の部下のみだと聞いている。後は、法律的にスピアーズ公爵家の第一こうけい者にあたるだろうか。後継者が指名されていない状況で、公爵家の当主がそのような状況であると知られれば、少なからず国の混乱につながるからだ。

 一変して暗い顔をするジェラルド殿下を安心させるためにも、私はれいがおを作って口を開く。


「ちょうど今日、伯父が我が家をおとずれることになっております。何か解決策が見つかるかもしれません」

「伯父……スピアーズ公爵の兄か。りんごくで薬学の研究をしていると聞いているが、いつ帰国したのだ?」

「昨夜です」


 伯父とは顔を合わせたおくすらないが、幼いころから熱心に薬の研究をしている人物だと聞いている。弟である父がスピアーズ公爵家をぐことになったのも、伯父の意志を尊重した結果だと、母が昔言っていた。


ずかしながら、私は薬学に関する知識はほとんど有していない。エリスの伯父上が、隣国から何か有効な薬を持ち帰っていることを願うよ」

 ジェラルド殿下はそう言うと、私に帰宅をうながした。

 暗に「早く帰りたい」と言っているように聞こえただろうかと心配したが、私を見送る殿下はただただ私をづかうような態度で、なんだか少しほおが熱くなった。

 帰宅した私をむかえたのは、やつれた様子の母だった。


「あら、エリス。早かったわね」


 公爵じんとしていちすきもない笑顔を浮かべる母だが、ここ最近の心労のせいで身体からだが一回り小さくなっているのがわかる。


「少し前にアベルのお兄様がいらしたわ。今は主治医から、アベルの容体の説明をお聞きになっているところよ」


 何をのんなことを、と言われてしまうかもしれないけれども、びょうしょうの父の名を口にするたびにうすなみだまくが張る母のひとみを、私は美しいと思いながら見つめる。そこに、はいぐう者に対する心からの愛情を感じるから。前世の私には、持ちえなかったものだから。


「ジェラルド殿下も、『回復を心から願っている』とおっしゃっていました」


 私がそう伝えると、身体の前で結ばれた母の両手に力が入ったのがわかった。


「そう。またお礼を伝えておいてね」


 母はそう言うと、今度こそ泣きそうな表情を浮かべた。

 しかし、その後すぐにひびいたとびらの開閉音に、母がさっと表情を変える。客間にいた人物が現れた方向に視線を向ける母は、すでに非の打ち所のない〝公爵夫人〞にもどっている。


「お義兄にいさましょうかいいたしますね。こちら、私達のむすめのエリスです」


 母からの紹介を受けて、私はゆっくりと頭を下げる。


「お初にお目にかかります。エリスと申します」


 私がそう言うと、頭上で伯父がかすかに笑うのを感じた。


「初めてではないんだけどね。でもまあ、君はまだ赤んぼうだったから覚えてはいないか」


 伯父はそう言いながら、目元をふっとやわらげた。女性とまがうほどの線の細さと、日の光に当たったことがないかのように真っ白なはだとが相まって、この人が父よりも年上であることが信じられない気持ちになる。


「アベルの兄の、カインです。長いこと隣国で薬学研究をしていたから、アベルの体調不良に関しても、何か役に立てるかもしれないと思ってね」


 そう言って差し出された伯父の手のこうには、血管が青くけて見えた。私よりも薄く見えるそのを傷つけないようにそっとれると、その手はおどろくほどに冷たく、思わず身体がぴくりとねる。

 しかし私のそんな様子を気にするりも見せず、伯父は私の手をきつくにぎり返した。


「これから、エリスとは長い付き合いになるだろう。よろしくね」


 そう言う伯父は相変わらずにゅうな表情を浮かべているし、発せられた言葉だってなんてことないあいさつのはずだ。しかし私は、肌がぞわりとあわつのを感じた。

 もう一度、今度は伯父の目をのぞき込む。やさしく細められた目元は、めいである私との再会を喜んでいるように見える。しかしその瞳は何も、目の前にいる私すらも映していないかのように思われた。


「タマル、君は無理をしすぎだ。少し休んだ方がいい」


 事あるごとに伯父は母を気遣い、きゅうけいするよう声を掛けるので、伯父が来てから母の顔色は格段に良くなった。

 両親がおさなじみであるということは、つまり伯父と母も昔からの知り合いだということ。長年顔を合わせていなかったとはいえ、そこにはしんらい関係のようなものがあると思われる。

 伯父は、我が国よりも医療関連の研究が進んでいるという隣国において、薬学者として数々の功績を残している人物だそうだ。伯父が隣国から持ち帰ったという薬は、どれも初めて目にするものばかりだと、主治医もきょうしんしんだった。


「本当は他にためしたい薬があるんだけれどね。副作用も強いから、まずはこの薬で様子を見よう」


 そう言って伯父が処方した薬は、一日三回、きっかり時間通りに飲まねばならないものらしい。主治医のみならず、伯父も投薬の際には父に付きっているため、彼は帰国以来ほとんど我が家にこもりっきりである。

 伯父との再会の場で感じたあのうす悪さは、私のかんちがいだったに違いない。近頃ではそう思えるくらいに、伯父は父の回復に力をくしてくれている。

 今朝も、伯父と主治医と料理長が、病人の身体に負担のない食事メニューを考案しているのを見かけた。


「やはり消化の良いものにすべきだろう」

「しかし、それではエネルギーが足りません」

「そうは言っても、食べられなければ意味がありませんからね。難しいところです」


 そんなことを言いながら、額をき合わせてしんけんな表情でやりとりをしている成人男性三人を、私はほほましい気持ちでながめたものだ。

 なぜ自身の研究の手を止めてまで父に尽くしてくれるのかと、一度伯父にたずねたことがある。そんな私に向けて、伯父は少し困った顔をして、私の頭に手をのせた。


「公爵家のめんどう事を全てアベルに押し付けて、私は自由にさせてもらっていたからね。これくらいどうってことないよ」


 そしてすぐにじょうだんめかして、「まあ、アベルへの投薬だって治験の一つと言えないこともない」と続けられた伯父の言葉は、私達母子に気をつかわせないために発せられたものであろう。

 薬学者としての実力もある上に、他者への気遣いも忘れない。もっと言うと現公爵の兄だし、かんぺきな人間とは伯父のような人のことを言うんだなと、思ったことを覚えている。最初はその完璧具合にさんくささを感じていた私だけれど、近頃は「本当にそんな人がいるんだなあ」と感心しているくらいだ。

 しかし、そんな伯父のじんりょくむなしく、父の体調は日に日に悪化した。

 弱り切った父を見るのはとてもつらいことだったが、母や伯父にとってもそうなのだろう。主治医すらもが体調をくずすほどに寒さが続いた日の朝、伯父が重々しく口を開いた。


「この薬は、あまり使いたくなかったのだけれど……」


 そう言って伯父は、自身のかばんから白い粉状の物質を取り出した。容器に入れられたその物質は、光に当たるときらきらと反射して、まるでじょうはくとうのように見える。

 主治医もいないこの場において、その物質がどういったものなのかを知る人間など、伯父以外にいるはずもなく、私と母は伯父が口を開くのをじっと待つ。

 すると伯父はその物質をかかげながら、「私が隣国で開発した薬だよ」と言った。


「効き目は確かなものの、副作用としてまれに異常行動の発現が報告されている薬なんだ」

「副作用、と言いますと?」


 母の問い掛けに対して、伯父は躊躇ためらいがちに「……げんかくが見えたり、暴れたり、窓から飛び降りたという例も、報告に挙がっている」と答えた。

 その言葉を聞いて、私は背筋がぞくりとするのを感じる。もしも父がしんしつの窓から飛び降りるようなことがあれば、だけでは済まないかもしれない。なぜなら、父の寝室は三階にあるのだから。同じことを考えたのであろう母も、私のとなりで顔を真っ青にしていた。

 しかし伯父は、そんな様子の私達を安心させるように、ゆっくりと言葉を続ける。


「もちろん、副作用が出ないと断言することはできない。この薬を投薬する際は、私がアベルを見張っておくよ」

「ですが、主治医の先生もお休みされている今、我々だけで投薬の判断を下すのは……」

「けれども、アベルもこのような状態だ。早いにしたことはない」


 主治医が休んでいるこの状況で、新たな薬を投与することについておよごしな母に対して、伯父は必死に言いつのる。

 正直なところ、昨日の父とかくして、今日の父の病状が格段に悪化しているようには見えない。しかし、これほどまでに伯父が食い下がるのだ。専門知識のある人間からすると、一刻を争う状態なのかもしれない。

 普段はおだやかな伯父が、せまる表情で「とにかく早くこの薬を」と言うのを見つめながら、私はぼんやりとそんなことを考える。だったらもう、伯父の指示に従えばいいのではないだろうか。しょせん、私達にできることなど何もないのだから。

 そんなふうに思う私を、人々は「冷たい娘だ」と非難するかもしれない。けれども、つい最近まで元気だった父がたきりになってしまっているこの状況が、私には現実のこととは思えず、自分とは無関係のどこか遠くで起こっていることのようで、感情がついてこないのだ。


「タマル、君がアベルを心配する気持ちは痛いほどにわかるよ。もしものことがあれば、私がきちんと責任を取ろう」


 伯父は、高貴な身分でありながら気遣いもできて、ゆうしゅうな薬学者でもあるという完璧な人間だ。きっと、伯父の指示に従っていれば、間違いないのだろう。

 先の伯父の言葉にほんのわずかにかんいだいたものの、私はそう自分を納得させる。


「このままだと、アベルは死んでしまう。私達は、決断しなくてはならないんだよ」


 伯父の口から飛び出した〝死〞という言葉に、母が目を見開く。誰もの頭の中に存在しながらも、口に出すことははばかられていた〝父の死〞が、伯父の言葉によって目前に突き付けられたしゅんかんだった。

 ぼうぜんとした様子で固まってしまった母に対して、伯父は優しい口調で言葉を続ける。


「……とはいえ、最後に決断するのはアベルの妻である君だよ。君がどうしたいかだ」


 伯父はそう言いながら母の目を覗き込んだ。

 伯父のその言葉を最後に、せいじゃくが室内を包み込んだが、静けさを破ったのは母だった。


「やりましょう。その薬を、使いましょう」


 部屋中に通る声でそう言った母だけれど、その瞳は不安げにれていた。最愛の夫の生死に関わる決断を自分が下したのだから、当然のことだろう。


「タマルの勇気ある決断を、私は尊重するよ」


 伯父は微笑みながらそう言うと、すぐに薬の準備に取り掛かった。伯父の準備のぎわの良さは彼の経験の豊富さを表すもので、本来ならば安心材料になるのだろう。けれども私は、なんとなくに落ちないものを感じてしまい、横に立つ母をぬすみ見る。もくもくと作業をする伯父の手元に視線を注ぐ母は、くちびるみしめて何かにえているように見えた。


だいじょうだよ」


 母の様子に気づいた伯父が、母に向かって声を掛ける。そのこわいろは優しかったが、母に向けられた伯父の表情を見て、私の頭には「やはり再会の場で目にした伯父と今の伯父は同一人物なのだ」という、ごく当然の考えが浮かんだ。


「……とはいえ、アベルが暴れるようなことがあれば、君達が危険な目にうかもしれない。自分のせいで妻や娘が怪我をしてしまったら、アベルはとても悲しむだろうからね」


 伯父はそう言うと、父の寝室には誰も近づかないようにと指示を出した。寝室の扉の外に護衛を一人立たせることになったが、これも伯父の身を案じた母が「どうしても」と説得した結果、伯父が根負けした形で配置されたものだ。「自分一人で対処したい」という伯父のかたくなさには驚かされたものの、きっとそれは伯父の責任感の強さから来るものなのだろうと、自分にそう言い聞かせる。

 ならば私は、娘として何ができるだろうか。さきほどは「私にできることなど何もない」と思ってしまったけれども、娘だからこそできることがあるのではないだろうか。

 父にしのる死の存在を感じたくないなんて、そんなことを言っている場合ではない。前世では、物心がつく頃にはすでにこの世を去っていた実父。「実父が生きていたらしてあげたかった」と前世でもうそうしていたことが、今の私はまだできる状態にあるのだから。

 そう思って、とにかく一度父の顔をきちんと見ておこうと、父の寝室の前に来た時だった。扉の奥から何かをたたいたような、にぶい音が微かに聞こえた。


「伯父様!?」


 伯父は「妻や娘を傷つけたとなればアベルは悲しむ」と言っていたが、おそらくそれは相手が兄であっても同じこと。やはり、伯父一人を付き添わせるべきではなかったのだ。

 副作用として報告されている異常行動の中に「暴れる」があったことを思い出した私は、ノックもせずに室内へと入る。共に入室すべきかと尋ねる護衛に対して首を横に振り、そのまま部屋の扉を閉めると、まるでかくぜつされた世界に足をみ入れたかのような気持ちが

した。

 扉の前からでは、パーティションでさえぎられていてベッド付近の様子は見えないものの、室内を満たす静けさがかえって私の不安をぞうふくさせる。しかし、ひるんでいる場合ではない。

 最悪の状況を想定し、それでも自分自身を奮い立たせてパーティションの奥を覗き込む。すると目に入ったのは、先程までと変わらずベッドに横たわり目を閉じる父と、なぜか額から血を流している伯父の姿だった。ガラス製のびんを手に持つ伯父の足元には、花瓶にけられていた花が散乱しており、カーペットは花瓶の中に入っていたのであろう水がしみ込んで変色している。


「……伯父様?」


 一体何があったのだろうか。

 とりあえず伯父の手当てをしなければとあわてる私に、伯父がゆっくりと歩を進める。伯父の表情は逆光になっていてよくわからなかったが、近づくにつれて彼が不気味に笑っていることに気がついた。その表情は、前世の義父を思い起こさせるものだった。

 一刻も早くげなければならないと、本能が警告している。明らかに様子がおかしい伯父と、二人きりでこの部屋にいる訳にはいかない。そう考えて寝室を飛び出した私を、伯父は追ってもこなかった。

 血相を変えて部屋から飛び出してきた私を見て、護衛が目を見開く。


「伯父様の様子がおかしいのです! すぐに人を呼んで来て!」


 私の口から出たその言葉は、ほとんど悲鳴に近かっただろう。しかし、私の言葉に従って行動しようとした護衛が、私の後方に視線を移してピタリと動きを止めた。


「驚かせてしまって申し訳ない。急ぐ必要はないよ」


 そう言って寝室から顔を覗かせた伯父は、やはり額から血を流していたけれど、その姿は〝完璧人間〞である伯父のものだった。

 当然ながら、なぜか寝室から大怪我を負って出て来た伯父にしき内はそうぜんとし、家中の者が集結する事態となった。


「アベルが暴れ出す可能性があるので、花瓶をけておこうとしたんだよ。その際に誤っててんとうして、頭をぶつけてしまって。恥ずかしい話だ」


 主治医がいないため、母から傷の手当てを受けながら、伯父が恥ずかしげにそう説明すると、張りめていた空気がゆるんだのがわかった。伯父が穏やかな様子で「たいしたことはないんだよ」などと続けるものだから、辺りがなんとなくなごやかな空気に包まれかけて

すらいる。

 しかし、伯父の説明はどう考えたっておかしい。私が部屋を覗いた時、伯父が転倒した様子は全くなかった。あれはどう考えても、自分で手にした花瓶を自分の額に振り下ろしたような、そんな様子だった。


「……伯父様、本当のことをおっしゃってください」


 そう言う私の声は、みっともなくふるえていた。


「エリス?」


 私のじんじょうでない様子に、母が心配そうな声を掛けるけれど、その声はすぐに伯父の声にき消される。


「私は本当のことを言っているよ。気が動転しているんだね、可哀想かわいそうに」


 まゆを下げながらそう言う伯父は、姪を心配する心優しい伯父にしか見えない。


「動転なんかしていません! 伯父様が転んだようには、とても見えませんでした!」


 私はなおもそう主張するけれど、伯父はますます悲しげな表情を浮かべ、

「いや、驚かせた私が悪かったんだ」と、私が誤解している前提で話を続けた。そして、そんな伯父に周囲の人間も同調する。

 ……また、、、私の声は届かない。

 伯父が数々の功績を残している薬学者である一方、私はただの小娘。公爵の娘という身分ではあるものの、公爵のじっけいである伯父を前にすると、どちらの言い分が聞き入れられるかなど、火を見るよりも明らかだ。いくらこちらが正しいことを言おうとも、その内容は聞かれることもない。

 やはり、私にできることなど何もなかったのだ。そのことに気がついてしたくちびるを強く噛みしめると、口の中にじんわりと鉄の味が広がった。

 しかしそこで、あきらめかけた私のかたに温かい手が置かれるのを感じた。驚いて顔を上げると、険しい顔をした母が立っている。そんな母から放たれるあつ感が、周囲を包んでいた空気をいっそうする。


「エリス、話してみなさい」


 公爵夫人の冷たい声に、辺りにきんちょう感がただよう。その瞬間、伯父の口元が僅かにけいれんしたのを、私はのがさなかった。


「たとえエリスが子どもであろうとも、気が動転してようとも、話も聞かずに主張を退けてよいことにはなりません」


 普段使用人に対しても優しく穏やかに接する母が、ここまで強い言葉で相手を非難するのを聞くは初めてのことだった。しかし、使用人すらも尊重する母だから、伯父が私の主張をにしたことを、ここまでおこっているのだ。

 おそらくこの場にいる全員が、そう思ったのだろう。全員が口を閉ざしてうつむく中で、母はするどい目線を伯父に向けたまま言葉を続ける。


「エリス、あなたの話を聞かせてちょうだい」


 そう言う母の横顔は、りんとした美しさをまとっていた。


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