第二章
「以前エリスが言っていた特待生制度が、来年度から試験的に導入されることになった」
つい二日前にもお茶をしたというのに、今日も朝一でジェラルド
「こんなに早く導入が決まるなんて……」
私が殿下に特待生制度の話をしてから、まだ三ヵ月しか
「エリスのおかげだ。本当にありがとう」
ジェラルド殿下はそう言って
この世界において、おそらく近い将来
しかし、結果として学園関係者に私の名を
それだけではない。私の不用意な発言によって、制度の開始が『ガクレラ』の設定よりもほんの少しだけ早まることになったということは、つまり王立学園で学べる
すると急に、それまで
「……ところで、スピアーズ
殿下からのその問い
「回復しているとは言い
少し前に、父が高熱で
父の体調不良を知るのは、スピアーズ家で働く者を除いては、国王夫妻と、王太子であるジェラルド殿下、そして父の直属の部下のみだと聞いている。後は、法律的にスピアーズ公爵家の第一
一変して暗い顔をするジェラルド殿下を安心させるためにも、私は
「ちょうど今日、伯父が我が家を
「伯父……スピアーズ公爵の兄か。
「昨夜です」
伯父とは顔を合わせた
「
ジェラルド殿下はそう言うと、私に帰宅を
暗に「早く帰りたい」と言っているように聞こえただろうかと心配したが、私を見送る殿下はただただ私を
帰宅した私を
「あら、エリス。早かったわね」
公爵
「少し前にアベルのお兄様がいらしたわ。今は主治医から、アベルの容体の説明をお聞きになっているところよ」
何を
「ジェラルド殿下も、『回復を心から願っている』とおっしゃっていました」
私がそう伝えると、身体の前で結ばれた母の両手に力が入ったのがわかった。
「そう。またお礼を伝えておいてね」
母はそう言うと、今度こそ泣きそうな表情を浮かべた。
しかし、その後すぐに
「お
母からの紹介を受けて、私はゆっくりと頭を下げる。
「お初にお目にかかります。エリスと申します」
私がそう言うと、頭上で伯父が
「初めてではないんだけどね。でもまあ、君はまだ赤ん
伯父はそう言いながら、目元をふっと
「アベルの兄の、カインです。長いこと隣国で薬学研究をしていたから、アベルの体調不良に関しても、何か役に立てるかもしれないと思ってね」
そう言って差し出された伯父の手の
しかし私のそんな様子を気にする
「これから、エリスとは長い付き合いになるだろう。よろしくね」
そう言う伯父は相変わらず
もう一度、今度は伯父の目を
「タマル、君は無理をしすぎだ。少し休んだ方がいい」
事あるごとに伯父は母を気遣い、
両親が
伯父は、我が国よりも医療関連の研究が進んでいるという隣国において、薬学者として数々の功績を残している人物だそうだ。伯父が隣国から持ち帰ったという薬は、どれも初めて目にするものばかりだと、主治医も
「本当は他に
そう言って伯父が処方した薬は、一日三回、きっかり時間通りに飲まねばならないものらしい。主治医のみならず、伯父も投薬の際には父に付き
伯父との再会の場で感じたあの
今朝も、伯父と主治医と料理長が、病人の身体に負担のない食事メニューを考案しているのを見かけた。
「やはり消化の良いものにすべきだろう」
「しかし、それではエネルギーが足りません」
「そうは言っても、食べられなければ意味がありませんからね。難しいところです」
そんなことを言いながら、額を
なぜ自身の研究の手を止めてまで父に尽くしてくれるのかと、一度伯父に
「公爵家の
そしてすぐに
薬学者としての実力もある上に、他者への気遣いも忘れない。もっと言うと現公爵の兄だし、
しかし、そんな伯父の
弱り切った父を見るのはとても
「この薬は、あまり使いたくなかったのだけれど……」
そう言って伯父は、自身の
主治医もいないこの場において、その物質がどういったものなのかを知る人間など、伯父以外にいるはずもなく、私と母は伯父が口を開くのをじっと待つ。
すると伯父はその物質を
「効き目は確かなものの、副作用として
「副作用、と言いますと?」
母の問い掛けに対して、伯父は
その言葉を聞いて、私は背筋がぞくりとするのを感じる。もしも父が
しかし伯父は、そんな様子の私達を安心させるように、ゆっくりと言葉を続ける。
「もちろん、副作用が出ないと断言することはできない。この薬を投薬する際は、私がアベルを見張っておくよ」
「ですが、主治医の先生もお休みされている今、我々だけで投薬の判断を下すのは……」
「けれども、アベルもこのような状態だ。早いに
主治医が休んでいるこの状況で、新たな薬を投与することについて
正直なところ、昨日の父と
普段は
そんなふうに思う私を、人々は「冷たい娘だ」と非難するかもしれない。けれども、つい最近まで元気だった父が
「タマル、君がアベルを心配する気持ちは痛いほどにわかるよ。もしものことがあれば、私がきちんと責任を取ろう」
伯父は、高貴な身分でありながら気遣いもできて、
先の伯父の言葉にほんの
「このままだと、アベルは死んでしまう。私達は、決断しなくてはならないんだよ」
伯父の口から飛び出した〝死〞という言葉に、母が目を見開く。誰もの頭の中に存在しながらも、口に出すことは
「……とはいえ、最後に決断するのはアベルの妻である君だよ。君がどうしたいかだ」
伯父はそう言いながら母の目を覗き込んだ。
伯父のその言葉を最後に、
「やりましょう。その薬を、使いましょう」
部屋中に通る声でそう言った母だけれど、その瞳は不安げに
「タマルの勇気ある決断を、私は尊重するよ」
伯父は微笑みながらそう言うと、すぐに薬の準備に取り掛かった。伯父の準備の
「
母の様子に気づいた伯父が、母に向かって声を掛ける。その
「……とはいえ、アベルが暴れるようなことがあれば、君達が危険な目に
伯父はそう言うと、父の寝室には誰も近づかないようにと指示を出した。寝室の扉の外に護衛を一人立たせることになったが、これも伯父の身を案じた母が「どうしても」と説得した結果、伯父が根負けした形で配置されたものだ。「自分一人で対処したい」という伯父の
ならば私は、娘として何ができるだろうか。
父に
そう思って、とにかく一度父の顔をきちんと見ておこうと、父の寝室の前に来た時だった。扉の奥から何かを
「伯父様!?」
伯父は「妻や娘を傷つけたとなればアベルは悲しむ」と言っていたが、おそらくそれは相手が兄であっても同じこと。やはり、伯父一人を付き添わせるべきではなかったのだ。
副作用として報告されている異常行動の中に「暴れる」があったことを思い出した私は、ノックもせずに室内へと入る。共に入室すべきかと尋ねる護衛に対して首を横に振り、そのまま部屋の扉を閉めると、まるで
した。
扉の前からでは、パーティションで
最悪の状況を想定し、それでも自分自身を奮い立たせてパーティションの奥を覗き込む。すると目に入ったのは、先程までと変わらずベッドに横たわり目を閉じる父と、なぜか額から血を流している伯父の姿だった。ガラス製の
「……伯父様?」
一体何があったのだろうか。
とりあえず伯父の手当てをしなければと
一刻も早く
血相を変えて部屋から飛び出してきた私を見て、護衛が目を見開く。
「伯父様の様子がおかしいのです! すぐに人を呼んで来て!」
私の口から出たその言葉は、ほとんど悲鳴に近かっただろう。しかし、私の言葉に従って行動しようとした護衛が、私の後方に視線を移してピタリと動きを止めた。
「驚かせてしまって申し訳ない。急ぐ必要はないよ」
そう言って寝室から顔を覗かせた伯父は、やはり額から血を流していたけれど、その姿は〝完璧人間〞である伯父のものだった。
当然ながら、なぜか寝室から大怪我を負って出て来た伯父に
「アベルが暴れ出す可能性があるので、花瓶を
主治医がいないため、母から傷の手当てを受けながら、伯父が恥ずかしげにそう説明すると、張り
すらいる。
しかし、伯父の説明はどう考えたっておかしい。私が部屋を覗いた時、伯父が転倒した様子は全くなかった。あれはどう考えても、自分で手にした花瓶を自分の額に振り下ろしたような、そんな様子だった。
「……伯父様、本当のことをおっしゃってください」
そう言う私の声は、みっともなく
「エリス?」
私の
「私は本当のことを言っているよ。気が動転しているんだね、
「動転なんかしていません! 伯父様が転んだようには、とても見えませんでした!」
私はなおもそう主張するけれど、伯父はますます悲しげな表情を浮かべ、
「いや、驚かせた私が悪かったんだ」と、私が誤解している前提で話を続けた。そして、そんな伯父に周囲の人間も同調する。
……
伯父が数々の功績を残している薬学者である一方、私はただの小娘。公爵の娘という身分ではあるものの、公爵の
やはり、私にできることなど何もなかったのだ。そのことに気がついて
しかしそこで、
「エリス、話してみなさい」
公爵夫人の冷たい声に、辺りに
「たとえエリスが子どもであろうとも、気が動転してようとも、話も聞かずに主張を退けてよいことにはなりません」
普段使用人に対しても優しく穏やかに接する母が、ここまで強い言葉で相手を非難するのを聞くは初めてのことだった。しかし、使用人すらも尊重する母だから、伯父が私の主張を
おそらくこの場にいる全員が、そう思ったのだろう。全員が口を閉ざして
「エリス、あなたの話を聞かせてちょうだい」
そう言う母の横顔は、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます