第一章
ある朝、何か気がかりな夢から目を覚ますと、自分が
……いやいや、現実
私が見たのは〝気がかりな夢〞ではなく〝前世の夢〞。前世で、日本人の女性として生きていた
「『
そんな前世の私、絵莉朱は、夫であった人物に
夫が私を〝若い女性〞としてしか見ていないことはわかりきっていたし、私も夫を〝お金をくれる人〞くらいにしか思っていなかったので、彼に刺されたこと自体に
それに、「気がついたら転生していた」という訳でもない。今世での私は、〝エリス・スピアーズ〞として十年間生きてきた。もちろんその間の記憶もあるし、この
そして、ここから大問題。
どうやら、今世の私が生きているこの世界は、前世でプレイしたことのある乙女ゲーム『学園シンデレラ』、
自分でも、
もう一度、鏡の中の自分の顔をまじまじと見つめる。
真っ黒な
った目元と血色のなさのせいで、全体的には冷ややかな印象を
間違いない、悪役だ。
『学園シンデレラ』というゲームが、世間
確か、『学園
悪役ではあるものの、そこは乙女ゲームの世界。エリスが行う悪事についても、言葉による
前世の私は、それに対して特になんの疑問も
けれど、今の私はヒロインではなく、悪役のエリス。そしてここはゲームではなく、今の私にとっての現実。ゲームでは語られなかった〝婚約破棄のその後の人生〞を、私は生きなければならないのだ。
そうなると話が変わってくる。ゲームのあの筋書きが正しいとは、
もちろん、どのような理由があれ、虐めを
けれども、王太子はエリスを断罪できるほどに
そんな人間が、本当に王太子として、そして未来の国王として相応しい人間だと言えるのだろうか。悪役エリスが断罪されたのであれば、彼も同様に
なぜ、どうして、エリスだけがこの世界の悪役になってしまっているのか。〈悪役〉という
私が働いた悪事について罰せられることは、甘んじて受け入れよう。悪役エリスとして生まれたことを知ってしまった以上、その運命を
「
そう
「悪役……ねえ?」
通常であれば、断罪される運命にある悪役に転生してしまったことを、もう少し悲しむものなのかもしれない。けれども私は、悪役であるエリスに親近感を覚えている。純真
理由は明白。前世の私も、〈悪女〉と呼ばれていたから。
まあ、そう言われても仕方がない行いをしていた自覚はあるし、私の言動によって
私だけが悪にされた理由。当時は運が悪かったのだと思って
「ふふ……」
自分で出したその結論があまりにも
けれども今は、悲しみに
ゲームのパッケージに描かれていたのは、
物語の
死ぬ直前までプレイしていたゲームだとはいえ、この世界で十年間生きているのだから、つまりは十年以上前の記憶。細部については思い出せない。
けれども、これだけ覚えているならば上出来だ。自分の記憶力の良さに満足しつつも、これから私が
まず、私は近い未来に、王太子の婚約者に選ばれるはずだ。実際、すでに婚約者候補として私の名が挙がっていることは知っている。王太子と同い年かつ公爵令嬢である私は、彼の婚約者として申し分ない相手であると聞かされている。
私がもう少し希望に満ち溢れた性格ならば、きっと王太子の婚約者にならないように
しかし、そんなことを期待したって、余計にがっかりするだけだ。なにしろ私は悪役。前世においても、自分が起こした行動が
王太子の婚約者に選ばれることは受け入れるとして、私が断罪されるあの場面において、王太子の罪を
それはおそらく、王太子の味方をしたいと、そうする方が得だと考える人間が多かったから。そしてエリスは、
ならば私はこの世界において、できる限り多くの人間、少なくとも王太子の決定を支持する人間に立ち向かえるだけの人間から、人望を得なければならない。
人望を得る、は言いすぎかもしれない。「
る人間を、私が
けれどもふと、ある疑問が頭に
「お父様やお母様も、私を助けてはくださらなかった……?」
残念ながら、全ての親がいついかなる時にも子を信じ、助けてくれる存在だとは思っていない。
しかし、この世界で十年間私を育ててくれたスピアーズ公爵夫妻は人格者であり、私に
私がヒロインを虐めたとして、そのことに対して当然
……いや、ありえない。我がスピアーズ家は公爵家。国内においては、王家に次いで権力を有する家なのだから。王家といえども、スピアーズ公爵家の発言を軽視することはできないはずだ。
そこまで考えた私は、あることに気がついた。
「義弟……」
義弟、とは?
スピアーズ家に変化をもたらす可能性のある、義弟という存在。新たに加わるその存在が、私達親子の関係にも何かしらの
自分が悪役であることに気がついてから、ここで初めて絶望的な気持ちになる。大好きな両親にまで見捨てられてしまうのかと考えると、胸の奥が冷たく、そして重く
しかし、めそめそしている場合ではない。私は悪役なのだから。
ヒロインなら、泣いているだけで誰かが助けてくれるのかもしれない。前世でも、守ってあげたくなるような女の子には、多くの救いの手が差し伸べられていた。
けれども悪役は、自分で立ち上がるしかない。泣いていたって惨めな気持ちになるだけだ。そう思って、見えない誰かを
おそらくエリス・スピアーズは、前世の私そっくりだ。いつの間にか自分だけが悪者になってしまっているところや、誰からも手を差し伸べてもらえないところが、特に。けれども私は、同じ
王立学園の入学まで、残された時間はあと五年。
「ゲーム開始が楽しみだわ」
冷ややかなその言葉が、誰に届くこともなく部屋に
*****
「エリス、大切な話がある」
かつてないほどに
「はい、お父様」
何食わぬ顔でそう返事をしたものの、心臓が大きく脈打っているのを感じる。……おそらく今日が、その日なのだ。
連れられて入った父の
「ジェラルド王太子
父から聞かされたその言葉は、私が予想していた通りのものであったが、それでもやはり胃がずしりと重たくなる。
「……不満かい?」
顔に出していたつもりはないけれど、父には私の
焦った私はすぐに背筋を伸ばし、父を
「いいえ、まさかそのようなことは。お父様とお母様の期待に応えられるよう、
なんせ私には、「価値のある人間になる」という目標がある。
しかし私の言葉を聞いて、目の前の父は
「エリス、すまないね」
父のその表情を見て、記憶の奥底に沈んでいた前世の実父の顔が、なぜだか急に思い浮かんだ。前世でも思い出すことなどなかったその顔は、目の前にいる父と同じような瞳をしていた気がする。
私がそんなことをぼんやりと考えていると、父はソファーから立ち上がり、私の目の前に
「本当ならば、『ただエリスが幸せになれればそれでいい』と言いたい。けれども私の立場上、そう言ってやることはできないのだ。幼いエリスに重責を負わせることになって、本当に申し訳なく思うよ」
そう言って父は、私の髪を
「エリスは
目の前の父は、私の両手を自身の両手で包み込みながら微笑んだ。
この先、私と父の関係は大きく変化する可能性がある。それも、悪い方向に。けれども、今私が確かに父に愛されているという事実は、決して忘れてはいけない。
「……お父様、愛しております。私を大切に思ってくださって、本当にありがとう」
私が
「当たり前だろう」
その言葉の直後、すぐ耳元で鼻を
父から伝えられた通り、三日後には王太子と私の婚約を定める証書に署名をし、晴れて私は〝王太子の婚約者〞という身分を手に入れた。いずれ手放さなくてはならない身分だから、なんの
署名の場に立ち会った国王と父に政務があるとのことで、その場は早々に解散することになったが、それとは別に、私と王太子が仲を深めるために交流の場が設けられた。
婚約者同士の初めての交流の場。周囲から期待の目を向けられつつ、開始からまもなく一時間が経過しようとしているが、いまだに天気の話くらいしかしていない。正直に言うと、かなりきつい。
王太子は絶えず美しい|笑顔を
太陽の光に照らされて
「……私との会話を、つまらないとお思いになるのは構いません。けれども、王太子の婚約者として、それを周囲に
王太子は相変わらず口元に
「大変失礼いたしました」
「特権階級にあるということは、常に見られているということです。攻撃されうる
……私の失態のせいで、婚約者との天気以外での初会話が、とても
王太子の言葉の、前半部分については完全に同意する。私は王太子の婚約者として、常に他者の目を意識しなければならない。価値のある人間だと、周囲に認めてもらうためにも。けれども後半部分は、一体どういうことなのだろう。
「攻撃、と言いますと?」
私がそう
「特別な身分であるということは、それだけ周囲からの期待も大きいということ。少しでも期待に
王太子は言葉を選びながら発言しているけれど、自分が王族である以上、批判に
でも、それってどうなの?
「……私の
私が急にそんなことを言い出すものだから、王太子は
「確かに、権力を有する者に対して
こちらに権力があろうとなかろうと、理不尽な批判は言葉の暴力にもなりうる。そのような一方的な暴力を
しかし王太子は、私の言葉に首を振る。
「我々は国民の税金で生活しているのです。彼らには、口出しをする権利があります」
王太子は全てを諦めたような表情を浮かべているけれど、やはり私は
「国民の意見を取り入れる場は、もちろん必要でしょう。しかし、王族も貴族も、税金を使って遊び
正直、婚約者同士が仲を深めるために設けられた場でするような会話ではない。けれども、私は前世で大人だったのだ。王太子とはいえ十歳の少年が
「我々が
せめて不当な言い掛かりで、この少年が傷つくことがありませんように。そう思って発言したところ、王太子はそれっきり黙り込んでしまった。
彼が再び口を開いたのは、そろそろお開きにしようかという、まさにその時だった。
「エリスと、呼んでも構わないだろうか」
「もちろんです」
私がそう言うと、王太子は満足そうに
「私のことは、ジェラルドと呼んでほしい」
「えっ」
まさかそんなことを言われるとは
しかし王太子は私の
「婚約者なんだ、仲良くしようじゃないか」
そう言って
ジェラルド殿下との婚約を結んでから、私の生活は一変した。
王太子妃教育は分刻みでスケジュールが組まれていて、私は前世も
しかし、予想以上に私を
婚約後、王太子との交流の場が定期的に設けられるだろうという話は聞いていたし、私も二、三ヵ月に一度は彼と顔を合わせる機会があるのだろうと思っていた。
それがまさか、これほどまでに
しかし、じゃあ彼が私を気に入っているのかと問われると、それはよくわからない。現に、今目の前に座るジェラルド殿下は、私に対して
このまま殿下と
ようやくジェラルド殿下が口を開いたのは、紅茶を飲み終えた私がティーカップをソーサーに
「エリスは王太子の婚約者として、何がしたい?」
「お
これは、本音だ。
価値のある人間だと周囲に認めてもらうことが、私の望みだ。そのためにはまず、自分が与えられた役割をきちんと果たさなくてはならない。加点を
そう言ってにこりと微笑むと、ジェラルド殿下は「そうか」と言って、自身の前に置かれたティーカップに口を付けた。
『ガクレラ』のゲーム内でそんな印象はなかったけれど、ジェラルド殿下は
今日のノルマも達成できたので、そろそろ帰ってもいいだろうか。今の私には、一分たりとも
そう考えた私が、どうやって退席を申し出ようかと思っている時だった。
「私の野望を、聞いてはもらえないだろうか」
ジェラルド殿下がぽつりと、けれども決意の
「もちろんでございます」
殿下の様子からただならぬ気配を感じ取った私は、一層姿勢を正す。
「私は、身分制度を
……一瞬、時が止まったかと思った。まさかそんな大それたことを、この場で伝えられるとは思ってもいなかったからだ。
「理由を、お聞きしても?」
なんとかそう発したものの、その声が
「私は、誰もが身分に
そう言うジェラルド殿下の両手は
「ジェラルド殿下は、身分制度を
私がそう尋ねると、殿下は「そうだ」と言って重々しく頷いた。
ここで「素晴らしい考えですね」と言ってあげたら、彼は喜ぶのかもしれない。けれども、そう発言するのはあまりにも無責任すぎるだろう。
ふーっと静かに息を
「……それは、
私のその発言を聞いて、ジェラルド殿下の瞳の奥が僅かに
「どういうことだ?」
彼の言葉からは不満が
「見かけ上、全ての人間が平等な立場になったとしても、必ず差異は発生します。経済状況、能力の差、容姿の
前世でも、そうだった。身分制度など
「差異は差異だろう。優劣とは
ジェラルド殿下のその言葉に、私は静かに首を振る。
「差異を単なる差異として
彼の考えはとっても
「ジェラルド殿下は、なぜ平等な社会を作りたいと思われるようになったのですか?」
「国としての意思決定の場に座るのが、貴族ばかりだと気がついたのだ。私は、どのような生まれかに囚われることなく、自由な選択ができる社会にしたい」
「……身分制度を撤廃したとしても、その状況が変わるのは、随分先のことになるでしょうね」
私がそう言うと、ジェラルド殿下は僅かに眉を寄せた。しかし今は、気がつかなかったことにしよう。
「例えば、ジェラルド殿下は明日からパン屋でパンを作ることができますか?」
私のその言葉に、殿下は短く「無理だな」と答えた。
「それと同じことです。『自由に選んで良い』と言われても、現在の
これは、前世で高校すら卒業していない、学のない私だからこそわかる。たとえその職を選ぶことが許されていようとも、そこに求められるだけの知識がなければどうすることもできない。王立学園への入学者が貴族に限られているこの世界において、庶民の中でもずば
「……身分制度の撤廃より前に、庶民が学べる場を用意する必要があるということか」
ジェラルド殿下はそう言うと、何かを思案するように
しかしここで、私の頭にある疑問が浮かぶ。
「そういえば、特待生制度を利用して知識を得た庶民は、学園卒業後はどうしているのでしょうか? 国家として、彼らのその後の記録などは残していないのですか?」
『ガクレラ』のヒロインは、特待生制度を利用して王立学園に入学したという設定だった。各学年に二人しか選出されないその特別
しかし私のその言葉を聞いて、ジェラルド殿下は大きく目を見開いた。
「特待生制度、とは?」
「え? 成績優秀な庶民が特別に王立学園への入学を許される、あの特待生制度ですよ」
「そのような制度は、聞いたことがないのだが?」
ジェラルド殿下の言葉に、「何を馬鹿げたことを」と思ったものの、彼は真剣そのもので、とても
「他国の制度だろうか?
そう言いながら私に向けられるジェラルド殿下の
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