第一章


 ある朝、何か気がかりな夢から目を覚ますと、自分がおとゲームの悪役れいじょうに転生しているのを発見した。まあ、きょだいな虫でなかっただけマシなのかも。

 ……いやいや、現実とうをしている場合ではない。

 私が見たのは〝気がかりな夢〞ではなく〝前世の夢〞。前世で、日本人の女性として生きていたおく。「ついにご乱心か」と言われるかもしれないが、それはまぎれもなく私自身の記憶だった。


「『まいひめ』の登場人物の名前がわいくて」という理由から、むすめの名前を「」と名付けたという前世の私の母親は、おそらく『舞姫』の結末を知らなかったのであろう。

 そんな前世の私、絵莉朱は、夫であった人物にされて死んでしまった。前後にどのようなやりとりがあったのかは覚えていないけれども、刺されたしゅんかんに「あ、これは死んだわ」と思ったことは、はっきりと覚えている。

 夫が私を〝若い女性〞としてしか見ていないことはわかりきっていたし、私も夫を〝お金をくれる人〞くらいにしか思っていなかったので、彼に刺されたこと自体にいかりや悲しみはない。あるのは、彼に刺されて私が死んだという事実だけ。

 それに、「気がついたら転生していた」という訳でもない。今世での私は、〝エリス・スピアーズ〞として十年間生きてきた。もちろんその間の記憶もあるし、この身体からだちがいなく私のもの。つまり、「転生していることに今気がついた」というのが正しい。

 そして、ここから大問題。

 どうやら、今世の私が生きているこの世界は、前世でプレイしたことのある乙女ゲーム『学園シンデレラ』、つうしょう『ガクレラ』の世界であるようだ。

 自分でも、ずいぶんと馬鹿馬鹿しいことを言っていると思う。けれども、鏡に映る自分は紛れもなく『ガクレラ』の登場人物。

 もう一度、鏡の中の自分の顔をまじまじと見つめる。

 真っ黒なかみむらさきいろひとみ。美しいとしょうされるであろう顔立ちではあるものの、つり上が

った目元と血色のなさのせいで、全体的には冷ややかな印象をあたえている。

 間違いない、悪役だ。

 こうりゃく対象者の一人である王太子のこんやく者としてヒロインをいじめる、いわゆる悪役キャラとしてえがかれていたのが私だ。〝王太子の婚約者〞というしょうかいのみで、ゲーム内で名前が明かされていた記憶はないけれど、彼女、、はエリス・スピアーズという名だったのだと、他人ひとごとのようにそう思った。

『学園シンデレラ』というゲームが、世間いっぱんとして有名なものだったのかはわからない。大金持ちの夫とのけっこんによって、自由な時間を手に入れた前世の私にとっては、ひまを持て余してプレイしたゲームの内の一つにすぎない。特別である点を挙げるとするならば、前世の私が最後にプレイした乙女ゲームであるということくらい。

 確か、『学園シンデレラ、、、、、』という名前の通り、弱い立場にあるヒロインが、身分の高い攻略対象者にめられて幸せになる話だった。そしてその中で、ヒロインのこいじゃする悪役として登場するのが、〝王太子の婚約者〞ことエリス・スピアーズだ。

 悪役ではあるものの、そこは乙女ゲームの世界。エリスが行う悪事についても、言葉によるこうげきや、せいぜいヒロインの持ち物をかくしたりするようなものだったはず。そんなエリスに対して、攻略対象者である王太子、つまりエリスの婚約者は、公衆の面前で婚約を言いわたす。王太子ルートにおいてのみならず、どのルートに進んでも。

 前世の私は、それに対して特になんの疑問もいだいていなかった。なぜなら、私はヒロインとしてプレイしていたから。そして、全てはゲーム、きょこうだったから。王太子が婚約破棄を言い渡したことによって、悪役であるエリスは退場し、ヒロインである自分と攻略対象者は末長く幸せに暮らすという筋書きが正しいものだと、そう思っていた。

 けれど、今の私はヒロインではなく、悪役のエリス。そしてここはゲームではなく、今の私にとっての現実。ゲームでは語られなかった〝婚約破棄のその後の人生〞を、私は生きなければならないのだ。

 そうなると話が変わってくる。ゲームのあの筋書きが正しいとは、とうてい思えない。

 もちろん、どのような理由があれ、虐めをこうていする気はない。そのようなことをする人間が、王太子の婚約者、ゆくゆくは王太子、王妃となるに相応ふさわしいかと問われると、首を横にらざるを得ない。

 けれども、王太子はエリスを断罪できるほどにせいれん潔白な人間だと言えるのだろうか。少なくとも王太子ルートにおいては、彼はエリスという婚約者がありながらも、ヒロインと仲むつまじい様子を見せている。友人としてではなく、こいびととして。

 そんな人間が、本当に王太子として、そして未来の国王として相応しい人間だと言えるのだろうか。悪役エリスが断罪されたのであれば、彼も同様にばっせられるべきであると、今の私は思ってしまう。

 なぜ、どうして、エリスだけがこの世界の悪役になってしまっているのか。〈悪役〉というかたきを一人で背負わされる運命にあるエリスが、前世の私の姿と重なって見えて、やるせない気持ちが込み上げる。そして同時に、心の中でふくしゅう心のようなものが芽生えるのを感じる。

 私が働いた悪事について罰せられることは、甘んじて受け入れよう。悪役エリスとして生まれたことを知ってしまった以上、その運命をくつがえそうというがいはない。けれども、悪事を働いた人間に対しては、エリス同様に相応の裁きを受けてもらわないと。


エリス一人を悪役にすることは許さない」


 そうつぶやいてもう一度鏡に目を向けると、薄ら笑いを浮かべるエリスがこちらを向いていた。その表情はれいこくでありながらも心底かいそうで、そしておそろしく美しい。


「悪役……ねえ?」


 通常であれば、断罪される運命にある悪役に転生してしまったことを、もう少し悲しむものなのかもしれない。けれども私は、悪役であるエリスに親近感を覚えている。純真なヒロインに転生するよりも、よっぽど私らしいとすら思う。

 理由は明白。前世の私も、〈悪女〉と呼ばれていたから。

 まあ、そう言われても仕方がない行いをしていた自覚はあるし、私の言動によってめいわくけてしまった人に対しては、申し訳ないと思っている。しかし、あれら、、、全ての非が私だけにあったのだろうか。

 私だけが悪にされた理由。当時は運が悪かったのだと思ってあきらめていたけれど、幕を閉じた一度目の人生を客観的に振り返ることのできる今だから、その理由がわかる。前世の私には人望がなかったのだ。周囲の人間に信じてもらえる要素が、手を差しべてあげたいと思われる要素が、全くと言っていいほどになかった。


「ふふ……」


 自分で出したその結論があまりにもみじめすぎて、思わずかわいた笑いがあふれてしまう。

 けれども今は、悲しみにひたっている場合ではない。少しでも記憶がせんめいなうちに、今後の対策を練らなければならない。そう思った私は、頭の中にある『ガクレラ』に関する記憶のふたをこじ開ける。

 ゲームのパッケージに描かれていたのは、ちゃぱつの女の子と、それを取り囲む四人の攻略対象者。プレイヤーによりぼつにゅうさせるための演出なのか、ヒロインである女の子の目元は見えないようになっていた。

 物語のたいは王立学園。基本的には貴族のみが通うことを許された学園において、特待生制度を利用して入学してきた平民のヒロインが、攻略対象者と仲を深めていくゲームだったはず。

 かんじんの攻略対象者は四人。エリスの婚約者である王太子、エリスのていである次期こうしゃくりんごくの王子、そしてヒロインのおさなじみ。どのルートをせんたくしても、悪役として登場するのは私、エリス・スピアーズだった。

 死ぬ直前までプレイしていたゲームだとはいえ、この世界で十年間生きているのだから、つまりは十年以上前の記憶。細部については思い出せない。

 けれども、これだけ覚えているならば上出来だ。自分の記憶力の良さに満足しつつも、これから私が辿たどるであろう人生を頭の中で思い描く。

 まず、私は近い未来に、王太子の婚約者に選ばれるはずだ。実際、すでに婚約者候補として私の名が挙がっていることは知っている。王太子と同い年かつ公爵令嬢である私は、彼の婚約者として申し分ない相手であると聞かされている。

 私がもう少し希望に満ち溢れた性格ならば、きっと王太子の婚約者にならないようにじんりょくしたのだろう。そもそも王太子の婚約者にならなければ、婚約破棄を言い渡されることもなく、幸せな未来が待っているかもしれないのだから。

 しかし、そんなことを期待したって、余計にがっかりするだけだ。なにしろ私は悪役。前世においても、自分が起こした行動が上手うまくいったためしなどない。それならば、最初から過度な期待はせず、与えられたはん内での最善をくす方がいい。

 王太子の婚約者に選ばれることは受け入れるとして、私が断罪されるあの場面において、王太子の罪をうったえるためにはどうするべきなのか。ゲーム内において、エリスへの断罪があっとうてきに支持されたのはなぜなのか。

 それはおそらく、王太子の味方をしたいと、そうする方が得だと考える人間が多かったから。そしてエリスは、かばう価値のない人間だと思われたからだろう。

 ならば私はこの世界において、できる限り多くの人間、少なくとも王太子の決定を支持する人間に立ち向かえるだけの人間から、人望を得なければならない。

 人望を得る、は言いすぎかもしれない。「らしい人間だ」とまで思ってもらう必要はない。ただ、「話を聞く価値のある人間だ」と思ってもらわないと。エリスおとしいれようとす

る人間を、私がちゆく穴に引きり込むことができるように。

 けれどもふと、ある疑問が頭にかぶ。


「お父様やお母様も、私を助けてはくださらなかった……?」


 残念ながら、全ての親がいついかなる時にも子を信じ、助けてくれる存在だとは思っていない。

 しかし、この世界で十年間私を育ててくれたスピアーズ公爵夫妻は人格者であり、私にしみない愛情を注いでくれている。幼馴染同士である両親の仲も良好で、それこそ前世のドラマや小説の中に出てくるような、理想的な両親であると言えるだろう。

 私がヒロインを虐めたとして、そのことに対して当然𠮟しっせきは受けるだろうが、娘が婚約者にかろんじられてだまっているような人達ではない。そんなスピアーズ家の発言を、王家は無視するというのだろうか?

 ……いや、ありえない。我がスピアーズ家は公爵家。国内においては、王家に次いで権力を有する家なのだから。王家といえども、スピアーズ公爵家の発言を軽視することはできないはずだ。

 そこまで考えた私は、あることに気がついた。


「義弟……」


 義弟、とは?

 いっしゅんだれのことを指しているのだろうかと疑問に思ったが、それもすぐにてんがいった。現在スピアーズ家の子どもは、私しかいない。その私が王太子の婚約者になるのだから、公爵家のあとぐ人物をむかえ入れることになるのだ。

 スピアーズ家に変化をもたらす可能性のある、義弟という存在。新たに加わるその存在が、私達親子の関係にも何かしらのえいきょうを与えるのかもしれない。両親にまで「助ける価値がない」と判断されるほどに関係が悪化するような、多大な影響を。

 自分が悪役であることに気がついてから、ここで初めて絶望的な気持ちになる。大好きな両親にまで見捨てられてしまうのかと考えると、胸の奥が冷たく、そして重くしずみ込むのを感じる。

 しかし、めそめそしている場合ではない。私は悪役なのだから。

 ヒロインなら、泣いているだけで誰かが助けてくれるのかもしれない。前世でも、守ってあげたくなるような女の子には、多くの救いの手が差し伸べられていた。

 けれども悪役は、自分で立ち上がるしかない。泣いていたって惨めな気持ちになるだけだ。そう思って、見えない誰かをあつするようにあごを上げると、少し気持ちが落ち着いた。

 おそらくエリス・スピアーズは、前世の私そっくりだ。いつの間にか自分だけが悪者になってしまっているところや、誰からも手を差し伸べてもらえないところが、特に。けれども私は、同じあやまちをり返さない。一人で不幸になんかなってやらない。

 王立学園の入学まで、残された時間はあと五年。


「ゲーム開始が楽しみだわ」


 冷ややかなその言葉が、誰に届くこともなく部屋にひびいた。



*****



「エリス、大切な話がある」


 かつてないほどにしんけんな表情を浮かべた父が、私にそう声を掛けてきたのは、前世を思い出してから一週間が過ぎたころだった。


「はい、お父様」


 何食わぬ顔でそう返事をしたものの、心臓が大きく脈打っているのを感じる。……おそらく今日が、その日なのだ。

 連れられて入った父のしつ室のテーブル上には、すでに紅茶が用意されており、室内には誰もいなかった。テーブルをはさんで父と向かい合ってソファーにこしけると、紅茶に手を付けることもなく、すぐに父が口を開いた。


「ジェラルド王太子殿でんの婚約者に、エリスが正式に内定したとの知らせを受けた。三日後には共に王城に出向き、証書に署名をすることになっている」


 父から聞かされたその言葉は、私が予想していた通りのものであったが、それでもやはり胃がずしりと重たくなる。


「……不満かい?」


 顔に出していたつもりはないけれど、父には私のゆううつな気持ちが伝わってしまったようで、身体にきんちょうが走る。王太子の婚約者に選ばれるというえいに顔をくもらせるだなんて、𠮟責されてもおかしくない。

 焦った私はすぐに背筋を伸ばし、父をえてにっこりとほほむ。


「いいえ、まさかそのようなことは。お父様とお母様の期待に応えられるよう、せいいっぱいはげみます」


 なんせ私には、「価値のある人間になる」という目標がある。ばくぜんとした目標ではあるけれど、とりあえず現時点では、王太子妃候補として認められるよう励むのがよいだろう。

 しかし私の言葉を聞いて、目の前の父はまゆを下げて悲しそうな顔をした。


「エリス、すまないね」


 父のその表情を見て、記憶の奥底に沈んでいた前世の実父の顔が、なぜだか急に思い浮かんだ。前世でも思い出すことなどなかったその顔は、目の前にいる父と同じような瞳をしていた気がする。

 私がそんなことをぼんやりと考えていると、父はソファーから立ち上がり、私の目の前にひざまずいた。


「本当ならば、『ただエリスが幸せになれればそれでいい』と言いたい。けれども私の立場上、そう言ってやることはできないのだ。幼いエリスに重責を負わせることになって、本当に申し訳なく思うよ」


 そう言って父は、私の髪をやさしくでた。父のてのひらから伝わるぬくもりが、ひどくなつかしく感じられて、私はなぜだか泣きそうになる。


「エリスはいえがらだけで選ばれたのではない。これは、エリスに王太子を支えるだけの力があると認められた結果なのだよ。私は、そんなエリスをほこりに思うよ」


 目の前の父は、私の両手を自身の両手で包み込みながら微笑んだ。

 この先、私と父の関係は大きく変化する可能性がある。それも、悪い方向に。けれども、今私が確かに父に愛されているという事実は、決して忘れてはいけない。


「……お父様、愛しております。私を大切に思ってくださって、本当にありがとう」


 私がとうとつにそんなことを言うものだから、父は一瞬おどろいた顔をした。しかしすぐに目線を合わせると、そのまま私を強く抱きしめた。


「当たり前だろう」


 その言葉の直後、すぐ耳元で鼻をすする音が聞こえたけれど、私は何も言わなかった。

 父から伝えられた通り、三日後には王太子と私の婚約を定める証書に署名をし、晴れて私は〝王太子の婚約者〞という身分を手に入れた。いずれ手放さなくてはならない身分だから、なんのかんがいもないけれど、しばらくはこの身分を大いに活用させていただこう。

 署名の場に立ち会った国王と父に政務があるとのことで、その場は早々に解散することになったが、それとは別に、私と王太子が仲を深めるために交流の場が設けられた。

 婚約者同士の初めての交流の場。周囲から期待の目を向けられつつ、開始からまもなく一時間が経過しようとしているが、いまだに天気の話くらいしかしていない。正直に言うと、かなりきつい。

 王太子は絶えず美しい|笑顔をくずすことがないものの、私に対してなんら興味を抱いていないことは明らかだ。私にとってもそれは同様で、いずれ婚約破棄を言い出すであろう婚約者と、仲を深めたいなどと思う訳もなく、おたがいにただ時が過ぎるのを待っている。

 太陽の光に照らされてかがやく王太子の髪を見つめながら、「前世ではミルクティーベージュと呼ばれていたような色だけれど、この世界ではなんと表現するのが正しいんだろうか」などと考えている時だった。


「……私との会話を、つまらないとお思いになるのは構いません。けれども、王太子の婚約者として、それを周囲にられないようにしてくださいね」


 王太子は相変わらず口元にしょうを浮かべながらそう言うが、しかしそののうこんの瞳は全く笑ってない。「婚約者に向ける表情ではないだろう」とは思うものの、確かに失礼な態度であったことは認めよう。


「大変失礼いたしました」

「特権階級にあるということは、常に見られているということです。攻撃されうるすきを見せてはいけません」


 ……私の失態のせいで、婚約者との天気以外での初会話が、とてもぶっそうな内容になってしまった。

 王太子の言葉の、前半部分については完全に同意する。私は王太子の婚約者として、常に他者の目を意識しなければならない。価値のある人間だと、周囲に認めてもらうためにも。けれども後半部分は、一体どういうことなのだろう。


「攻撃、と言いますと?」


 私がそうたずねると、王太子は冷ややかに笑った。その顔は十歳の少年がする表情とはとても思えず、私は背筋がぞくりとするのを感じる。


「特別な身分であるということは、それだけ周囲からの期待も大きいということ。少しでも期待にそむけば、それは批判のまととなり、我々は傷を負うことになるのです。我々はただしのび、なるべく隙を見せずに過ごすほかないのです」


 王太子は言葉を選びながら発言しているけれど、自分が王族である以上、批判にさらされ続けるのは仕方がないことだと言っているのだろう。

 でも、それってどうなの?


「……私のけんを、お聞きいただけませんか?」


 私が急にそんなことを言い出すものだから、王太子はわずかに目を見開いた。ちなみに、思ったよりも低い声が出たことに、私自身も驚いている。しかし、「もちろん」とうながされた手前、話す以外に道はない。


「確かに、権力を有する者に対してを唱えることができないのも、いびつな状態なのでしょう。ですが、だからと言ってじんな批判を浴び続ける必要はないのでは?」


 こちらに権力があろうとなかろうと、理不尽な批判は言葉の暴力にもなりうる。そのような一方的な暴力をもくにんしてしまうのは、果たして正しいことなのだろうか。

 しかし王太子は、私の言葉に首を振る。


「我々は国民の税金で生活しているのです。彼らには、口出しをする権利があります」


 王太子は全てを諦めたような表情を浮かべているけれど、やはり私はなっとくできない。


「国民の意見を取り入れる場は、もちろん必要でしょう。しかし、王族も貴族も、税金を使って遊びほうけている訳ではありません。働き、義務を果たしている以上、与えられる金銭は正当な対価です。過度にへりくだる必要はないと、私は考えます」


 正直、婚約者同士が仲を深めるために設けられた場でするような会話ではない。けれども、私は前世で大人だったのだ。王太子とはいえ十歳の少年がかかえる痛みを、このまま放置しておくことはできない。


「我々がたみに負う義務は、彼らの生活を守ること。さらには、彼らの生活を向上させることでしょう。ストレスのけ口に使われることではありません」


 せめて不当な言い掛かりで、この少年が傷つくことがありませんように。そう思って発言したところ、王太子はそれっきり黙り込んでしまった。

 彼が再び口を開いたのは、そろそろお開きにしようかという、まさにその時だった。


「エリスと、呼んでも構わないだろうか」


 さきほどとは打って変わって、ややくだけたその王太子の口調にじゃっかんの引っ掛かりを感じるものの、断る理由など何もない。


「もちろんです」


 私がそう言うと、王太子は満足そうにうなずいた。


「私のことは、ジェラルドと呼んでほしい」

「えっ」


 まさかそんなことを言われるとはつゆほどにも思っておらず、公爵令嬢らしからぬとんきょうな声がれ、あわてて自身の口元に手を当てる。

 しかし王太子は私のりを気にすることもなく、平然と言い放った。


「婚約者なんだ、仲良くしようじゃないか」


 そう言ってあくしゅを求めるように差し出された彼の右手を、私はぼうぜんと見つめるしかなかった。

 ジェラルド殿下との婚約を結んでから、私の生活は一変した。

 王太子妃教育は分刻みでスケジュールが組まれていて、私は前世もふくめて過去最高にいそがしく過ごしている。この婚約がいずれ破棄されるものだと知っているのは私だけで、周囲の人間は私がこのまま王太子妃になると思っているのだから、当然のことだろう。

 しかし、予想以上に私をぼうにしているのは、ジェラルド殿下だ。

 婚約後、王太子との交流の場が定期的に設けられるだろうという話は聞いていたし、私も二、三ヵ月に一度は彼と顔を合わせる機会があるのだろうと思っていた。

 それがまさか、これほどまでにこうひんだとは。なんだかんだと理由をつけて、ジェラルド殿下は週に一度のペースで私を呼び出している。彼もやるべきことは山のようにあるはずだけれど、一体どのような生活を送っているのか。

 しかし、じゃあ彼が私を気に入っているのかと問われると、それはよくわからない。現に、今目の前に座るジェラルド殿下は、私に対してさぐるような視線を送っている。

 ねむさそうようなゆったりとした空気が流れる温室の中、テーブルには可愛らしいおが数種類並べられ、ティーカップからははなやかな紅茶の香りがただよっているにもかかわらず、ジェラルド殿下の視線のせいで、全くなごやかなふんにはならない。私の冷たいふうぼうも、その原因の一つなのかもしれないけれど。

 このまま殿下とにらみ合っている訳にもいかないので、私は紅茶が入ったティーカップに手を伸ばす。せっかく温度まできちんと管理されてれられた紅茶なのだ。温かいうちに飲まないと失礼だろう。

 ようやくジェラルド殿下が口を開いたのは、紅茶を飲み終えた私がティーカップをソーサーにもどすのを見届けてからだった。


「エリスは王太子の婚約者として、何がしたい?」


 りょううでを身体の前で組みながら、難しい顔でそんなことを問われるものだから、何かの面接が始まったのかと思った。しかし彼の瞳は真剣そのもので、私は気持ちを引きめる。


「おずかしい話ですが、まだ何もわかりません。ですので、まずは王太子妃教育に励みます。何をしたいのか、何をすべきかを見つけるために」


 これは、本音だ。

 価値のある人間だと周囲に認めてもらうことが、私の望みだ。そのためにはまず、自分が与えられた役割をきちんと果たさなくてはならない。加点をねらうことも必要だが、それと同じくらいに、減点されないことも重要なのだ。

 そう言ってにこりと微笑むと、ジェラルド殿下は「そうか」と言って、自身の前に置かれたティーカップに口を付けた。

『ガクレラ』のゲーム内でそんな印象はなかったけれど、ジェラルド殿下はもくな人間らしく、ひんぱんに呼び出されて同じ空間で過ごすものの、そこに会話はほとんどない。それゆえ私の中では、会話が一往復すればその日のノルマは達成したと考えている。

 今日のノルマも達成できたので、そろそろ帰ってもいいだろうか。今の私には、一分たりともにできる時間なんてないのだから。

 そう考えた私が、どうやって退席を申し出ようかと思っている時だった。


「私の野望を、聞いてはもらえないだろうか」


 ジェラルド殿下がぽつりと、けれども決意のこもった声でそう言った。


「もちろんでございます」


 殿下の様子からただならぬ気配を感じ取った私は、一層姿勢を正す。


「私は、身分制度をはいしたいと思っている」


 ……一瞬、時が止まったかと思った。まさかそんな大それたことを、この場で伝えられるとは思ってもいなかったからだ。


「理由を、お聞きしても?」


 なんとかそう発したものの、その声がふるえているのは誰の目にも明らかだろう。


「私は、誰もが身分にとらわれることなく、平等に暮らせる社会を作りたいのだ」


 そう言うジェラルド殿下の両手はひざの上で結ばれており、だんよりも若干白いその両手から、こぶしに込められた力の強さが見て取れた。


「ジェラルド殿下は、身分制度をてっぱいすることで、世の中の不平等をなくしたいとお考えなのですね?」


 私がそう尋ねると、殿下は「そうだ」と言って重々しく頷いた。

 ここで「素晴らしい考えですね」と言ってあげたら、彼は喜ぶのかもしれない。けれども、そう発言するのはあまりにも無責任すぎるだろう。

 ふーっと静かに息をき、ジェラルド殿下に負けないくらいに目に力をめる。


「……それは、かなわないでしょう」


 私のその発言を聞いて、ジェラルド殿下の瞳の奥が僅かににごった。


「どういうことだ?」


 彼の言葉からは不満がにじみ出ており、王太子といえどもまだ子どもなのだなと、無関係なことを考えてしまう。


「見かけ上、全ての人間が平等な立場になったとしても、必ず差異は発生します。経済状況、能力の差、容姿のしゅう、挙げればきりがありません。差異があるということは、そこにゆうれつが発生するということです」


 前世でも、そうだった。身分制度などうの昔に廃止された日本においても、平等な社会など存在しなかった。学校の小さなクラスの中ですら、明確な立ち位置が決まっており、ヒエラルキーが存在していたのだ。


「差異は差異だろう。優劣とはちがう」


 ジェラルド殿下のその言葉に、私は静かに首を振る。


「差異を単なる差異としてとらえられるほどに、人は強くないのです」


 彼の考えはとってもてきだ。理想的で、とっても素敵。けれども、全く現実的ではない。私の言葉を聞いて、どことなく落ち込んだ様子のジェラルド様を見るのは胸が痛むが、未来の国王である彼は、現実を知っておく必要があるのだ。


「ジェラルド殿下は、なぜ平等な社会を作りたいと思われるようになったのですか?」

「国としての意思決定の場に座るのが、貴族ばかりだと気がついたのだ。私は、どのような生まれかに囚われることなく、自由な選択ができる社会にしたい」

「……身分制度を撤廃したとしても、その状況が変わるのは、随分先のことになるでしょうね」


 私がそう言うと、ジェラルド殿下は僅かに眉を寄せた。しかし今は、気がつかなかったことにしよう。


「例えば、ジェラルド殿下は明日からパン屋でパンを作ることができますか?」


 私のその言葉に、殿下は短く「無理だな」と答えた。


「それと同じことです。『自由に選んで良い』と言われても、現在のしょみんは国の意思決定を行えるだけの知識を有しておりません」


 これは、前世で高校すら卒業していない、学のない私だからこそわかる。たとえその職を選ぶことが許されていようとも、そこに求められるだけの知識がなければどうすることもできない。王立学園への入学者が貴族に限られているこの世界において、庶民の中でもずばけてゆうふくな家庭の子は例外として、大多数の人間は国政に関われるだけの知識を得る場などないのだから。


「……身分制度の撤廃より前に、庶民が学べる場を用意する必要があるということか」


 ジェラルド殿下はそう言うと、何かを思案するようにけんを指で押さえた。

 しかしここで、私の頭にある疑問が浮かぶ。


「そういえば、特待生制度を利用して知識を得た庶民は、学園卒業後はどうしているのでしょうか? 国家として、彼らのその後の記録などは残していないのですか?」


『ガクレラ』のヒロインは、特待生制度を利用して王立学園に入学したという設定だった。各学年に二人しか選出されないその特別わくに選ばれたヒロインは、かなりゆうしゅうだというびょうしゃがあったように思う。王立学園に入学する庶民はみな、そのようなせまき門をとっしてくるのだから、卒業後だってかつやくしているに違いない。

 しかし私のその言葉を聞いて、ジェラルド殿下は大きく目を見開いた。


「特待生制度、とは?」

「え? 成績優秀な庶民が特別に王立学園への入学を許される、あの特待生制度ですよ」

「そのような制度は、聞いたことがないのだが?」


 ジェラルド殿下の言葉に、「何を馬鹿げたことを」と思ったものの、彼は真剣そのもので、とてもじょうだんを言っているようには思えない。


「他国の制度だろうか? くわしく聞かせてくれないか?」


 そう言いながら私に向けられるジェラルド殿下のまなしは、今まで見たこともないほどに期待に満ち溢れていた。


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