第4話
時代に取り残されたものはそれなりに生きて、それなりに朽ちてゆけばいいと倫治は思う。ただ、そういう時代を割りふられた世代なのだなと認めてくれればそれでいいのに、なぜだか、今の時代は自分達の思い描くありのまま以外を認めようとはしない。その枠から外れた倫治のような旧来の生き方はありのままではないと見なす。
おそらく彼等は、今の自分達の理想から外れたあり方で生きている倫治のような者のことを、存在するだけで自分達の理想を否定し崩壊させる悪魔か何かだとでも思っているのだろう。つまり攻撃してよいものとして扱うのだ。その理論の破綻は決して認めようとはしない。そしてそれが成立するのは、彼らのほうが数ある大衆としてのメインストリームに躍り出たからなのだろう。
別に自分達の世代の考え方が正しくて真っ当だったなんて言う気はない。倫治自身、何度も社会がひっくり返るところを見てきた。流行りも投機も資産価値も何もかもが嘘っぱちだった。全部全部、倫治達の頭を馬鹿にして、馬車馬のように働かせて、その稼ぎを吸い上げることで社会をぐるぐる回していただけだった。考えることがまともにできなくなった連中皆、ぐるぐる馬が回る競馬場のレーンを手に汗握って見つめ、パチンコの台で玉がぐるぐる回るのに一喜一憂し、家族連れで回転寿司屋のレーンが回るのを喜んでいた。自分達は、そんな大して面白おかしくもないもののために資金を得るべく、ハムスターのように回し車の中を走らされていただけだった。
だが、今があのころとどれほど違うという?
昨今は、やれ価値観をアップデートしろ、やれ現在を学んで変われ、さもなくば暴力だ、怠慢だ、ジェンダーだ搾取だ見て見ぬフリは許さぬと、常に息巻いているような風潮だ。やっぱりぐるぐる「今の正しい」を追い続けているように倫治には思われてならない。息苦しくはないのだろうか? いや、きっと息苦しいのだろう。だからあんなにも必死に「自分達の言い分を理解しろ」と世界へ向けて、つまり誰にあててでもなく、大声でつぶやき続けているのだ。自分達ばかり次々と圧し掛かる荷物を持たされているような気がして、それが苦しくて我慢ならないのだ。つまり、瑠璃子のような倫治よりも若い世代の人間は、それだけ切羽詰まった時代を生きているということなのだろう。
気の毒だとは思う。先達としてそんな世しか残してやれなかったと思えば申しわけなくもある。が、自分達の時代をふり返って見れば、親世代からは、感謝と恩返しと親孝行を脅迫めいた義務付けで求められこそすれ、こんな時代にしてしまって申し訳なかったなどという謝罪をうけた記憶はない。
何時でもどう生き残るかで手一杯だった。後世がどうたらを考えている余裕などなかった。前時代の人間の責任について叫んだところで、あいつらは誰も倫治達が割を食ったことの補填なんかしてくれない。それに、渦中を走って生きた己等もその時間に共に時代を作っていたとも言える。だからこの時代を形作っているものもまた若い世代の選択なのだし、嫌なら自分らで変えてくれと思う。俺はもう手出しも口出しもせぬから放っておいてくれと。
それとも何か? そんなに俺達の世代は安穏に生きられたとでも言う気だろうか。
全ては上り調子だ給料アップも昇進も間違いない、未来は明るい人生は安泰だと壊れたレコードのように刷り込まれた大前提が、バブルが弾けるのと同時に一瞬でなかったことにされた。そこから追い打ちを掛けるように、やれ震災に次ぐ震災だ、テロだ非婚だ人口減だ年金納付期間延長だと、これ以上の掌返しがあるだろうか?
もはや何も誰も信用などできない。
倫治の世代は、お定まりのレールを勝ち上がり勝ち残ることでしか価値を認められない時代だった。今は色々な自分らしいありのままを選べるらしいが、ランドセル一つ、性別一つ、全部自分で選ばねばならぬらしい。自分で決められるというのは、自分で決めねばならぬということだ。一々考えて決めてからでないと進めないというのは、しんどいことだろうと思う。だからといって、今はこれが正しいのだからお前も全適応しろと求められても困る。というかもう疲れ果てたのだ。
瑠璃子の独り言のような水芭蕉の例え話を聞いてみても、倫治にはイマイチ何を言っているのか分からない。分からないが、「分かってほしい」「私の立場になって」「この苦しみを一緒に理解して」と言いたいのだということは分かった。
だからこそ、どうしようもなく断絶しているのだ。
他人の本当のところなど分からない。それが当然で大前提だ。他人の心持ちを推し量れと言われても他人は他人。分かったフリをして、ふんふんと頷いてやるくらいのことしかできない。どうせ瑠璃子達にも自治会の連中にも、他のうまいこと生きられた連中にも、倫治の心の奥深くの部分は分からないだろう。分かってほしいとも思わない。それが倫治の見解だ。
*
湯船の中、膝の上に瑠璃子を背面座位で座らせて、倫治はぽつぽつと質問を重ねた。
「早苗はどんな人間だった。どんな子供時代を送って、どんな人生を生きて死んだ? お前さんは、それを知ってるんだろう?」
瑠璃子の正体を確かめるのは後に回した。今実際に水の中で倫治が抱えている女の肉体以上に、確かな瑠璃子は存在しない気がしたからだ。腕の中の女は、しばらく黙ってから、わずかに上向いた。
「早苗さんは、三年生のときに、ある小学校にやってきた転校生でした。彼女はとても元気な子でしたが、その元気さがどこかわざとらしいので学校では浮いていたそうです。またあまりかわいらしい容姿でもないのに、やたらと着飾っていたので、女子達からはほぼ無視されていたそうでした」
「――いじめってやつか」
「そこまでではなかったと聞きましたが。でもご本人にとってはとても辛いことだったようで、ある日お母さまがすごい剣幕で学校に乗りこんでこられて、クラスで先生がみんなを叱ったそうです。転校生いじめかとかいうことで、教師も問題になることを嫌がったのでしょう。それ以降、クラスの中での早苗さんの扱いは、まるで腫れ物に触るようなものになりました。結果、なぜか色々と逆転して、早苗さんはまるで女王様みたいに振る舞うようになったそうです」
倫治の口の中に苦いものが広がる。別れた当時の小さい早苗と遺影で見た面影のない顔が重ならないまま、嫌な印象の児童像が積み重なってゆく。
「そんな性格のまま、やがて早苗さんは中学校に上がりました。そして、他の小学校から合流した一人のクラスメイトの女子を、陰湿にいじめるようになりました」
「は」
瑠璃子の片膝が水面から顔をだす。水の中で瑠璃子の指が倫治の腿をなでた。
「教科書を隠したり、体操服や上履きを焼却炉に捨てたり、机にバイタだとかインランなどと油性ペンで書いたりしたのです」
「なんでそんな……その子は周りに助けを求めなかったのか?」
「できなかったんです。早苗さんに弱みをにぎられていて。だから黙ってされるままになっていました。二人のその関係は中学を卒業するまで続きました。高校は別になったのですが、偶然同じ大学に進学したことで二人は再会します」
ちゃぷり、と瑠璃子の左手が水をすくいあげた。たらたらと水は瑠璃子の腕を伝って落ちてゆく。
「早苗さんは、昔自分がやったことなど、すっかり忘れてしまったような顔で、再びその子に近付きました。その子はおどおどしながらも、早苗さんを拒絶できませんでした。その子は気付いてしまったのです。あの辛かった日々のことは、もうすっかり過去のことになっていたと思っていたのに、そうではなかったのです。彼女は早苗さんには逆らえない自分に戻ってしまっていました」
瑠璃子の左手が下を向き、わずかに残っていた水がぱちゃりと水の表を叩いた。
「そんなある日のことです。早苗さんと彼女が二人で街中を歩いていたとき、偶然早苗さんのお母さんを見掛けました。お母さんは男の人と一緒にいました。腕を組んでしっとりとした雰囲気で裏通りへ入ってゆきました。早苗さんの形相は、それは凄まじいもので、彼女の腕をつかむと無言のままその後を追いました。お母さんと男の人は、そのままホテルへ入っていきました」
ああ、と倫治は理解した。ゆっくりと溜め息を吐くと、後ろから瑠璃子の二つの乳房を両手でつつみ、その肩口に顔を
「後藤さんだったんだな」
ぴくりと瑠璃子がふり返った。
「――知ってたの」
「俺に伸子を紹介した上司だ」
倫治の腿の上で、瑠璃子の尻がぎゅっと硬くなった。倫治が瑠璃子の肩から唇を離すと、信じられないものを見るような目で瑠璃子は倫治を見ていた。それで苦く笑った。
「早苗は、そのときに気付いたんだな」
「……はい」
早苗は、元々倫治には少しも似たところのない娘だった。倫治自身、生まれたばかりの早苗の顔を見ても抱き上げても、何も感じるところがなかった。倫治が早苗を抱くのを伸子が極端に嫌ったので、ほとんどあやしてやることもできなかったが、それでも感じとることはある。ああ、これはやっぱり俺の子ではないのだな、と。
後藤自身には当然妻子があるが、あちこちと手が早いことは聞いていたから、伸子を紹介されたときにも自ずと察した。だから伸子の態度の意味も理解していたし、倫治も飲んだ上で、真美子のこともお互いさまだと思っていた。
だが、伸子にとってそれは許されないことだったらしい。自分はよくても倫治はダメだったのだ。
――あなたは、結局結婚という形がほしかっただけなのよ。
伸子はそういったが、それは伸子にとっても同じことだったろうに。後藤は外見も映画スターのような男ぶりで、自分が彼に勝ったのは体格ぐらいだった。後藤は実家も太くて金回りがよくて、女をおだてて甘やかすのがうまかった。接待のために連れていかれたクラブでは、あまりにも新人ホステスをつまみ食いしては捨てて行くので「ちょっと困ってるのよ」とママからなぜか倫治が愚痴られた。
伸子は、羽振りの良い後藤に夢を見たのだろう。厄介でうるさい親元から離れて、金も余裕もあって女あしらいもうまい男に囲われて、幸せな奥様になる夢を見たのだ。だが後藤は既婚者だ。女らしく従って尽くしていればそのうち離婚してくれるかもと期待して待っていたら、そうはならずに倫治と引き合わされた。つまり下げ渡されたのだ。厭で厭でしかたなかったろう。倫治と後藤とを比べて倫治の側に利があったのは独身だということだけだった。
伸子が離婚を言い出したのは、倫治の不貞が表ざたになったのが契機として好都合だったに過ぎない。実際のところ、早苗は後藤の実子なのだろうから、これを盾にして、後藤に離婚と再婚を迫れば今度こそ本妻に収まれるかも知れないという狙いがあったに違いない。だが、後藤が離婚したとはついぞ聞かなかったから、奥方が首を縦に振らなかったということだ。どうやら後藤も伸子を切れなかったようだから、それなりに気に入ってはいたのだろうが、結局伸子もうまく遊ばれただけだった。そして倫治は後藤には他にも女がいたことを把握している。倫治の早期退職直前にも、また例のクラブで知り合った新人ホステスとよろしくやっていた。
古く苦い記憶が、水の中に溶けだしている。ゆっくりと揉みしだくやわさが返してくるものは、かつて自分が真美子の乳房に求めたのと同じものだった。
ぐるぐるぐるぐる回転して、回転させられて、人間はただ食いつぶされて死んでゆくだけなのか。繰り返しの中毒で、一時何もかもを忘れられるから人間は自ら馬鹿になる。倫治もまたこのやわさに触れて不快な息苦しさを忘れようと自ら馬鹿になっていたにすぎない。そのために倫治は真美子を巻き込んだ。女の肉に溺れた。全て己のためだけだった。悪いと思いながら手離せなかった。そして捨てられた。
その積み重ねたさきの未来が、今倫治の手の中にある。
例え一人孤独に溺れていようとも、お前は男なのだから何にも救いを求めるな。世間はずっと倫治達にそういうメッセージを送り続けている。
糞喰らえだと心底思った。
水から瑠璃子を引き上げると、タオルでぬぐいもしないで風呂場から連れ出した。びちゃびちゃと廊下を水浸しにしながら、万年床の敷かれた奥の六畳間に連れ込み押し倒した。
どうせ踏みつけるのなら、ちゃんと顔を見て。私が誰なのか理解して、罪を犯して。
そうしてやろうと思ったのだ。
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