第3話


 グラスの表面が汗を垂らしきったころには、その内側で溺れていた氷も解けてなくなっていた。ちりりんと風鈴が鳴ったあと、瑠璃子が「十五分経ちました」と前触れもなく言った。柱時計を見るが、倫治はそもそも何分から時間が計られていたものかを知らない。そんなことに気が回るような状況ではなかった。ただ、二人とも死ななかったという結果だけが、そこにひょっこり顔を出した。

 暑さが増している。しかし戸を閉めて冷房を入れる気にはなれなかった。この開け放った縁側があるからこそ、瑠璃子と二人きりの密室に閉じ込められているという状態にはなっていないのだ。体感の不快さよりも、閉塞を自ら作り出すほうが倫治は厭だった。そして瑠璃子もまた部屋を締めようとは言い出さなかった。

 きっと互いにそうなのだ。閉め切って二人きりとなるのを避けていた。倫治の内心にあるのは焦りや恐れ、もしくは不快感なのだろうが、もしかしたら瑠璃子もまたそうなのかも知れない。人を殺すか自分も死ぬかということをしでかそうという中で、もしそこに躊躇ためらいが残っていたのだとすれば、この縁側が導く庭は、引き返す最後の逃げ道でもあるのだから。

「矢野さん、どうされます?」

 上目遣いのそれは艶めいた誘いではない。死にますか、それとも私を殺しますか、どうしますか、選ぶのはあなたですよ。そういう追い込みをしているのだ。倫治はますますの暑さのなかで「ちくしょう」と独り言ちた。短い前髪の先から汗がぽつりと滴り落ちる。

 今更だが、倫治はまだ瑠璃子が何者なのかをつかめていない。なぜ早苗のことや倫治のことを知っているのかも分からない。知るには、もう一度おはぎを食べて問うしかない。そうしなければ、この娘は藪の中に消えたままの早苗の死の真相についてすっかり口を閉ざすつもりだろう。

 伸子が早苗を連れて家を出たのは、倫治が仕事に出ているときだったから、起きている早苗を最後に見たのが何時だったか、倫治はおぼえていない。白状するならば、子煩悩だとか親子愛とかいう感覚が倫治には分からない。人間とは、その人生の経験や育った家庭環境などから親子関係のあり方を学び取るのだろうが、倫治の生まれ育ったこの家では、親父というものは絶対的な権力者であり、偉いものとして尊敬の態度で接しなければ生存に関わるものだったから、倫治の父親像というのは根本的に歪んでいるのだ。実際に偉かろうが偉くなかろうが、それで敬う敬わぬを選べるようなものではなかった。世間も大抵そんなものだったろうし、それでまかり通っていたし、実際倫治が見知る子供時分の家庭の父親とはそういうものだった。

 しかし時代は猛スピードで変わった。家庭に参加せず家族を顧みず、社会での出世にばかり血道を上げていてはダメだ。料理も掃除もやれ、地域にも参加しろ、子供の人格を尊重しろ、親より妻を優先しろ、今までまかり通っていたのは、おかしいことだったのだ。そんなふうに、どこぞの偉い学者や海外の有名人やらが、テレビや大学やインターネットの中で毎日叫んでいる。そしてその流行りの波に、ここぞとばかりに適応できた連中がサーフィンしている。皆口々に倫治を、倫治のような古い人間を責め立てるのだ。

 お前は、おかしい、と。

 まるで、お前の生きた人生は存在してはならなかった悪しきもので、それを当たり前として自分の人生を生きるのは罪悪で迷惑だと言われているとしか思えない。

 そんな風に言われても困る。未来というのは、今のことや過去のことの積み重ねの上にしか立たないのに。

 波に乗れた連中はいいだろう。今が息苦しくなくてよかったろう。ただそれは倫治のような波にも乗れず、今の潮流を骨身で理解できないものの屍を海底深くに沈めた上で実現していることなのだ。溺れた倫治が酸素を求めて海面に顔を出すたびに、やめろ出てくるなお前は存在してはならない息をするな沈め沈むのだと、上から櫂を打ちつけて撲殺してきた結果のサーフィンなのだ。

 倫治のような者達は、沈みゆきながら水面でゆれる歪んだ光に向けて、最後の息という呪詛を放つ。どうせ次はお前達が沈むんだぞ、と。

「ちくしょう」

 倫治は頭を掻きむしると、ぎっと瑠璃子を睨み、半ばやけくそで小皿をつかみ差し出した。今更早苗の死の真相が気に掛かるのは、自分にも父親という自負があったからなのだと気付いてしまった。実際がどうあれ、父親とは子に敬われるべきものだと心のどこかで子という存在に縋っていた。自身もそうさせられたが故に。実際には、夫として父として男として、誰にも価値を見出してはもらえなかったが故に。

 離れるのが早かったからこそ、現実の早苗を倫治はほとんど知らない。それをいいことに、死者に対して「もしも」の妄想を託し甘えていた。そうと自覚したならば、真相を知るぐらいの責任は果たさねばなるまい。

「次だ」

 倫治の回答に、瑠璃子は一瞬意外そうに目を丸くしてから「分かりました」と小さく頷いた。

「おはぎ、ご自分で選びます?」

「あんたがやってくれ」


   *


 瑠璃子は灰色の手提げを座卓に上げ、そのジッパーをあけた。そのすき間から内側が銀色なのが見えた。保冷バッグなのだろう。中から取り出されたのは味気ない透明なタッパーだった。中には確かにあと四つのおはぎが納まっている。こちらもガラス製らしく、ごとりと案外重い音をたてて、タッパーは座卓の上におかれた。瑠璃子の華奢な両手――この娘は全体の肉付きはいいのに、手と手首だけがなぜか細い――が、タッパーの左右フックに掛けられる。ばかり、とやけに威勢のいい音をたてて蓋が開いた。

 手提げからは次いで菜箸が取り出された。それで小皿に取り分けるのだろう。それらの動作を見ていたら、とうとう眩暈がしてきたので、倫治はよっこらと立ち上がった。暑さでふらつき足元がとられそうになる。

「矢野さん?」

 いっそ無邪気なほど、含みのない顔で瑠璃子が見上げる。その一瞬の表情に倫治の全身がざわめいた。胸の奥底を掻きむしられるような懐かしい感覚に、暑さにでもやられたかと倫治は顔をしかめた。それを見た瑠璃子が怪訝そうに瞬く。

「どうかしました?」

「着がえてくる。暑くてかなわん」

 ああ、と瑠璃子はその小さな口を開いた。

「べつに裸でいらしても私は構いませんけど」

「阿呆、俺が構うわ」

「ついでに冷たいお飲み物を持ってきてくださると助かるんですけど」

「亭主こき使う女房みたいなことを言うな」

「だって暑くてかなわないんですよ。くださらないなら私がもう脱いでしまいますけど」

「そこはお前さんが構いなさいよ。他人んちだぞ」

「あら」

 瑠璃子は菜箸を持った手の甲で口元をおおって「うふふ」と笑った。

「矢野さんたら、まだ本当に私が他人だと思ってるのねぇ」

 倫治の全身から、ざっと血の気が引いた。

「なに?」

 瑠璃子はタッパーの上に渡し箸をすると、小首を傾げて汗にまみれた自分の首筋をなでた。

「矢野さん、私だって、今日は私なりに覚悟を決めてここに来てるんですよ? あなた自身だって解ってるじゃないですか。本心では悪いと思っていないから人間は罪を犯せるんだって」

「間原さん」

「バタフライエフェクトだって、風が吹いたら桶屋がもうかるのだってそうじゃない。ほんのささいなことが何をどう動かすか分かったものじゃない。でもあなたは他人がどうなろうが知ったことじゃないの。他人なんかどうでもいいから、なんにも考えなしで台風の目でのろのろ生きてるんじゃない。それで巻き込まれてぐちゃぐちゃになった人間が、そのあとまた周りをぐちゃぐちゃにしていくって、想像もしなかったんでしょう? なのに矢野さんたら、早苗がどうしてあんなことになったのかを毒おはぎのおかわりまでして知りたがるんですもの。意外すぎて、私がどれだけびっくりしてるか、わかってないでしょう?」

 能面の――能面のような瑠璃子の流し目が倫治を見る。

「あなた本当は、自分の人生だってどうでもよかったんでしょう?」

 瑠璃子が座卓に手をついて立ち上がる。座卓の表に瑠璃子の発した熱と汗の跡が残る。ちりんと風鈴が鳴る。もはや涼気など一切ない熱い風が、畳の上に立ち尽くし対面する、倫治と瑠璃子の皮膚をなでてゆく。

「だったらついでに私と一緒に奈落の底に落ちてよ。落ちなさいよ」

 瑠璃子の手が、倫治のTシャツの胸倉をつかんだ。既に弛んで伸びきったTシャツの襟が更に伸びる。瑠璃子の目許が熱く赤く潤んでいる。そのまなじりに浮かぶのは汗なのか。見覚えのある目だと今更に気付く。何時、どこで見た。これは誰だ。瑠璃子は、水面から俺を見下ろす目じゃないのか? 俺達爺を邪魔者扱いにして、屍を水の底に沈めて、悠々と未来は我がものとしてはばからない奴等の一人じゃなかったのか? ならこの娘は。

 瑠璃子の手がシャツから離れた。そして、倫治の短い灰色の頭髪に伸びる。爪が頭皮に刺さり、つきりと痛む。瑠璃子の小さな唇が、倫治の乾いて肉の薄くなった唇に、まるで貪るように食いついた。弾むような熱い肉体が倫治の硬く古木めいた身体に押し付けられる。

 餅とあんの味と香が残る女の唾液に、倫治はぐらぐらと混乱した。

「あんた、ほんとに一体誰なんだ」

 かすれ声で問うた倫治に、瑠璃子は頬を紅潮させて笑った。嗤ったように見えた。

「枯れ木に花が咲きそうよ、矢野さん」

 瑠璃子の手が倫治の下半身を確かめるようになでた。

「私はね、あなたが憂鬱そうな顔をして、存在に気付きもしないで踏んでいった泥の中の死体よ。関心なんかないから、踏んでもちょっとでこぼこしてたな、ぐらいですぐに忘れてしまった。だから」

 汗でぬめる女の両腕が倫治の首に絡みついた。泥の底からぞろりと湧き出た白骨の細い指先が、にゅうと伸びて倫治の足首をつかんだような――気がした。

「どうせ踏みつけにするなら、ちゃんと顔を見てよ。私が誰なのか理解して、罪を犯して」


   *


 畑仕事のあとに水を浴びるのは日課だったから、最初から湯船には水を張っていた。倫治を先にそこへ沈めてから、瑠璃子は倫治に馬乗りになった。冷水を貯めてあったのだが、時間とともにぬるんでいた。倫治の汗と瑠璃子の汗が水の中で混ざる。二人の熱を吸い込んで、水は更にぬるんでゆく。生ぬるい水と、熱のかたまりのようだった女の肉体が、境を失くして溶けてゆく。どこまでが水でどこまでが女なのか分からなくなる。いや、もしかしたら、そもそも違いはあまりないのかも知れない。

 そしてそれは倫治自身も同じだったのかも知れない。水に浸かって放熱した感覚は確かにあった。暑さでかすみが掛かったようだった思考もはっきりしてきた。倫治のやせた胸にふれる瑠璃子の乳房を冷たく感じる。ならば、瑠璃子の乳房は倫治の熱を感じ取っていることだろう。

 溺れているのは水にか、それとも女にだろうか。瑠璃子は倫治が彼女を踏みつけにしたのだと言った。関心がないからすぐに忘れてしまったのだと詰った。だがわからない。瑠璃子が何者かを倫治はいまだ知らない。これほどまでに、実体には触れているというのに。

 壁に手をつかせ立たせた女の白い背中を見下ろすと、そこにはワンピースの肩紐が作った日焼けの跡がくっきりと残っている。女なのに襟足が短く刈り込まれているから、うなじが露呈している。それが小さな違和感となった。もしかしたら、自分と同じように山村理容店で散髪しているのかも知れない。伸び掛けた印象はないから、もしかしたらこれも刈ったばかりなのか。

 記憶の底に沈んだ女達が、水面に浮かび上がってくる。

 母は何時も一つ団子に結っていた。幸代はパーマを当てて肩までの長さにしていた。伸子は髪を短くしていたが、こういう男のようなやり方ではなかった。真美子は、と、そう思い出して、動きが止まった。

「やのさん?」

 肩越しに瑠璃子がふり返る。女の身体は、荒い呼吸で上下している。

 そうだ真美子だ。口が小さいのも、笑い方も、無邪気に見上げてくるのも、眉の形も、目の丸さも、丸顔なのも、この背中と肩の形も、瑠璃子は真美子に似ているのだ。

 どうして気付かなかった? いや、気付かないだろう。

 田舎の山間に移住してくる若い女は、どう口を濁したところで町全体のものだ。倫治のような都会からの出戻りに食わせるつもりは、自治会の古老連中には毛ほどもない。実際連中からもハッキリとそう言われている。班長に古老の一人である上嶋が当てられているのは、倫治が間違いを犯していないか定期的に探りを入れ、「くれぐれも妙な気は出すなよ」と釘を刺すためだ。それほど瑠璃子は貴重な存在と見なされているということで、倫治は山に引きこもった老い先短いお荷物だと思われている。

 瑠璃子が移住してくると決まったときに、何度もふもとのほうにしないかと打診したと聞いた。だが瑠璃子はそれを聞かなかった。旧城里に今住んでいるのは、倫治と瑠璃子と、あとは爺婆の世帯が二つきりだ。嫁のきてが欲しい若手が多くいるふもとに呼びたかった意図は明白だ。なんなら上嶋の五十になる息子もまだ独り身だ。

 そして連中の意図に逆らおうという気も倫治にはなかったから、どれだけ瑠璃子が倫治に近付いてこようとも、こちらを能面のような顔の下から濃密な思いを秘めた目で睨んでいようとも、それを見つめ返そうとしたりしなかった。だから気付くわけがなかった。

 皆、倫治に何を見ることも何を思うことも禁じているのだ。

 何も欲するな。例え一人孤独に溺れていようとも、お前は何にも救いを求めるな。地域の邪魔になるな。これまで男というただその一点だけで十分社会の恩恵に浴してきたでしょう? 男だからと許されて、無神経に生きて、泥沼の底に踏みにじってきた者達に目も向けないで生きて来られたでしょうが? 自分がやっても罪だと思っていないから、平気でやってこれたんでしょ?

 これからは踏みつぶされてきた沼底から、私達が咲くのよ。

 ごぼりと倫治の胸の内からあぶくが湧いた。

 どうしてだ。どいつもこいつも何の権利があって、上から下から倫治を沈めにくるのか。俺は一体なんなのだ。生き方を強要され踏みにじられ責められて、そんなにお前達は正しくて俺だけが、俺達だけが間違っているというのか。そんな権利がお前達にばかりあるつもりなのか。

 私が誰なのか理解して、罪を犯して。

 俺が行うことは、無意識だろうが意識的にだろうが、全て罪だというのか。

 ああ、そうか。と、そこですとんと腑に落ちた。

「お前さん、だから俺に一緒に奈落の底へ落ちろって言ったのか」

 倫治の言葉に瑠璃子は目を丸くした。それはまったく真美子に似ていた。そしてやはり真美子によく似た顔で「ふふ」と笑った。

「最初に約束したわね。召し上がられるなら私でもいいって。なんでも聞いて? 答えてあげるから。そうしたら」

 ――もう私を無視できないでしょ? 忘れられないでしょ?


 海に沈むのは孤独が過ぎる。時代に使われ使い捨てられて、二度と浮かび上がることを許されないから。だから男は生きているうちに沈められることを恐れる。溺れないように他の男共を踏み台にして水面から顔を出す。

 ねぇ、苦しいでしょう?

 仲間と思った人達に切り捨てられて海底に横たわるだけの屍になるのは。

 そこじゃなくて、こっちにきてよ。私が沈む泥沼で一緒に溺れて。

 沼地に咲く水芭蕉ってきれいでしょう? でもね、私にはあれは女の花芯そのものに思えるの。グロテスクに生々しく、活き活きと晒された女の花芯を、その群集を、辺り一面の剥き出しにされた女自身を、あなた達は恐れ慄いてただ見つめるしかない。

 だから、お願い。

 あなただけは、あの群集の中に咲く、たった一つの私を見つけて。他の女じゃだめ。私を見つけて、そして選んで。

 そして、貪って。食い散らかして、ちゃんと私をあなたの骨と肉にして。


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