第2話


 ちりんと風鈴が鳴る。倫治の服の下で汗が滴る。涼し気な顔をしている瑠璃子の首筋にも汗が一筋流れている。風鈴の音と、薄っすらとした軽蔑の眼差し。夏の暴力的な暑さが、あの日の伸子のぶこの言葉を倫治に思い出させた。


「――あなたは、結局結婚という形がほしかっただけなのよ」

 判を捺したばかりの離婚届けを丁寧に茶封筒に仕舞い込んだあと、伸子は玄関先でそう言った。怒りも悲しみもない、ただ冷たい侮蔑を含んだ目だった。倫治はなにも言い返さなかった。確かにその通りだと思った。

 このとき、早苗は同席していなかった。さすがに見せるべき場面ではないだろうと思ったし、伸子自身も早苗には聞かせたくないからと言っていた。

「今、早苗はどこにいるんだ」

「お父さんとお母さんが、近くのファミリーレストランであずかってくれてます」

 伸子は視線を下げたまま、ぼそぼそとした声でそう答えた。

 伸子は親との折り合いがいいわけではなかった。時季外れの盆と正月に伸子の実家へ顔を出すと、母親は決まって台所で伸子に対し、ねちねちとダメ出しを繰り言した。伸子はうつむいて「はい、そうね、お母さんの言うとおりだわ」といちいち頷いていた。それを倫治は台所に隣接する居間に座って聞いていた。隣で義父は新聞を広げ、やはり黙っていた。

 伸子の場合、結婚に何を求めていたかといえば、それはやはり実家からの脱出だったのだろう。母親は過干渉で、父親は無関心だが高圧的。ほぼ部外者の倫治からしたら、あの場に一緒にいなければならない時間が本当に気まずく息苦しかった。

 しかし本当にタチが悪かったのは、この両親がまたよくできた人間だったのである。といっても、それは時代性を反映しただけの「よくできた」だったのだが。

 母親の家事や内職に非の打ちどころはなく、父親も月に一度給料日に、夏は居酒屋、冬は屋台で三杯の焼酎とつまみを引っ掛け二時間程度を自由にするくらい。それ以外は堅苦しいほどにきっちりと給料を自宅に持ち帰り、居間で黙って新聞を広げているような男だったそうだ。つまり、責めどころがない両親だった。彼等がそうしているように、つましく正しく間違いなく生きることを、伸子も求められていた。婦女子として正しいことを正しいように為せないのならば生きる価値などないと言わんばかりの育てられ方をした。その緩まぬ視線に伸子は疲弊していたように倫治には見受けられた。しかし当時は女が一人でやすやすと生きていけるような時代ではなかったから、伸子が自由になるには結婚するしかなかったのだ。つまり、伸子が結婚に求めていたのは「宿」としての機能だった。

 倫治の場合は、昇進するには妻帯でないと、この先なんともならんぞ。世話してやるから身を固めろという、上司の声に背中を押されたにすぎない。伸子の言うとおり、結婚という形が職場で順当に上がるために必要だったから、せねばなるまいと思ってしただけだった。上司の伝手で紹介された伸子は、取引先で事務をやっていた。うつむきがちの、はい、はい、と逆らうことを知らない女だった。親に対するのと同じ調子で伸子は倫治と向き合っていたし、それは結婚後も変わらなかったし、離婚が決まった今も、やはり変わらなかった。つまり、伸子が倫治に対して心を開くことは一瞬たりとてなかったのだ。

 伸子が立ち去り、団地の金属製のドアが、がちゃんと閉まったあと、ちりん、と風鈴が鳴った。ふり返るとレースのカーテンがゆれて、あの金属製の風鈴に当たっていた。それは、伸子が気に入って買った風鈴だったはずだ。置いていったのか、わざと忘れて行ったのか、それを知る手立てはもうない。ただあのときの風景と音が脳裏に焼き付いているから、あの季節が夏だったと思い出せるばかりだ。

 揺れるカーテンの手前には、さっき判を捺くのに使ったダイニングテーブルがある。白地に青の模様がちょろちょろと散った、ビニール製のテーブルクロスが掛かっている。四脚使うつもりで結局三脚しか埋まらず、今後は三脚が不要になる。

 最後に設けたこの時間、伸子の口からは奔流のごとく言葉があふれでていた。見合いのとき、二人で出掛けたとき、結婚を申し込んだとき、式のとき、初夜のとき、なかなか子供ができなくて泣いたとき、伸子の妊娠中に真美子との関係が発覚したとき、産後寝たきりで早苗の世話だけでなく自分の身の回りのこともできないからと実家に返したとき、上司に頼みこまれて断れずにまとまった金を渡したとき、早苗が幼稚園にあがって伸子がパートに出始めたころから再び真美子と会っているのがバレたとき、真美子の旦那も出てきて話し合うことになったとき等々、その一々について詳細にふり返りながら不満と怒りを訥々とつとつと吐露した。こんなにまで大量の言葉と思いをみじんも表に出さずに黙って己と暮らしていたのかと知り、倫治は寒気がした。それまで黙ってうつむいていたのは、そういうものとして飲みこんでいたからではなかったのかと、騙された気さえした。女の面の皮の厚さに恐怖もおぼえた。黙って大人しく従順にしていても腹の底に何を抱えているものか知れたものじゃない。女は恐ろしい。あんなに旦那と別れてやっぱり俺と一緒になりたかった、なれていたらと繰り返していた真美子は、結局旦那とよりを戻し、子供の手を引いて倫治の元から去っていったのだから。

 このダイニングの四脚は、二脚になるはずだったのに、そうはならなかった。三脚になってもよかったけれど、そうもならなかった。

 ぎぎと重い椅子を引いて、倫治は一人ダイニングテーブルについた。それから、早苗の席に目を向けた。早苗が伸子に連れられて出て行ったのは一月も前だった。夏が終われば学校も変わり、あの離婚届が提出されれば苗字も変わるのだ。矢野早苗という小学生は消滅し、倫治の知らない水川早苗という娘が新たにこの世に現れる。

 なんだかすっかり他人事のように思えた。罪悪感や、すまないことをしたという言葉は、脳裏にはあっても、感情としては凪いでいた。

 倫治にしても、伸子の感情なきふるまいは大いに堪えていた。抱いてもただ苦しく唇をかみしめていたばかり。なかなか子供ができなかったのも伸子が夜を避けに避けていたからだ。自分ばかりが苦しかったなどとは言われたくない。歯を食いしばって働いて、家に戻れば能面のような顔をした妻が、はいはいと目を伏せて頭をさげる。まるで、京都で見たおたべ人形のようだった。伸子が倫治に対して人間らしい真心のようなものを見せたことは一度もなく、情を交わし合えるような家庭ではなかった。そもそもがあまりに寒々しい夫婦だった。しかし倫治なりに為すべきは為していたと思っている。きちんと金も入れていた。賭け事もしなかった。それでも報われなかった。安らぎなどどこにもなかった。そんな折に真美子が入社してきた。屈託のない笑顔に、生まれて初めて全身が高揚したのをよく覚えている。恐らくそれが、遅ればせながらの倫治の初恋だった。関係した直後に伸子が早苗を妊娠しているのが発覚しなければ、その時点でとうに離婚していたはずだった。


 ちりん、りりん、と風鈴が鳴った。

 今は倫治の目の前に、寒々しいほどの微笑みをうかべた瑠璃子がいる。毒を盛られたおはぎを食わされたかもしれない、という倫治の衝撃は、やがて瑠璃子のその冷ややかな濃度に呑まれた。つまりかえって冷静になったのだ。

 倫治は立ち上がった。そして黒電話の前に片膝をつき、班長の上嶋に助けを求めようと受話器を取り上げた。が、

「無駄ですよ、電話線はさっき切りました」

 背後から冷や水のように浴びせ掛けられた言葉に、倫治はふり向いた。瑠璃子の言うとおり受話器からは何の音もしなかった。瑠璃子はグラスを持ちあげると、行儀よく片手を底にあてて一口紅茶を飲み下した。グラスのふちから唇を離し、ふうと吐息をもらす。閉じていた目蓋を開く。女の目が倫治を見据える。

「さっき町内放送が流れていたでしょう? 町に続く道で土砂崩れがあったみたいです」

「は」

 瑠璃子はにっこり微笑みながら座卓の上にグラスを戻した。ごとりと重い音がした。

「私、耳が良いんです。さあ矢野さん、水川早苗に何があったのか知りたくありません? それともやっぱり、もう彼女に関心はありませんか?」

 倫治は、無意識のうちに受話器を元に戻していた。気付かぬうちに己は、瑠璃子の発する濃度のようなものにすっかり吞みこまれてしまっていた。

 小学三年の夏に別れてから早苗とは会っていない。再会したのは六年前。祭壇に飾られた遺影の顔には、自分の面影も伸子の面影も見つけることはできなかった。棺桶の小窓を開けてみようとしたが、葬儀場の人間に止められた。見られる状態ではないという。

「きっとショックを受けますから、このままで」

 そのときに気付いた。窓には初めから釘が打ち付けられていた。倫治は引きさがり、再び遺影を見上げた。早苗の遺影の隣には年を取った伸子の遺影が並んでいる。表情は昔と変わらず、なんの感情も含んではいなかった。


   *


「では、質問です矢野さん」

 蒸し暑さの中、倫治の思考は明らかに鈍っている。対して目の前の瑠璃子の表情は静かに冷えていた。その二つの体感があまりに違っているので、倫治の背筋と肩は氷のような冷えをおぼえた。

「矢野さんて、どんな子供でした?」

「――俺がか」

 予想していたのとはまるで違う角度からきた質問だったので、一瞬面食らった。

「ええ。どんなふうにこのおうちで育って、家族や友達とはどんな関係だったか、学校なんかではどうだったか、どんな男の子だったのか、教えてほしいんです。やんちゃだったのか、それとも引っ込み思案な子だったか。喧嘩っ早かったりしたのか、一人でいるほうが好きだったか」

 とたん、倫治のうちで何かが萎えた。真っ当にこの娘とのやり取りを受けとめていたら気がおかしくなってしまう。どうとでもなれと片膝を立てて顔を仰向けた。

「どうもない。どこにでもいる不出来でもない、出来がよくもないガキだったよ。家は――昔気質の頑固で手の早い親父と、陰鬱としたお袋と、俺と妹の四人だった。小さい時分には、ばあさんと叔父もいたが、ばあさんは俺が小坊のうちに死んだし、叔父もそれから間もなく出て行ってそれきりだ。学校の友達といっても、山住みの連中と虫とったりビー玉弾いたりしてただけだ。大して遊ぶもんもねぇから、夏なんかは沢で泳いだぐらいだ」

 語るうちに、すっかり忘れていた古い記憶がよみがえってくる。山やお堂で遊んだ温度と手触り。胸いっぱいに吸い込んだ空気の濃密さ。みんな似たり寄ったりの家庭環境で、格差だのなんだのはきっと誰も知らなかったし考えていなかった。懐かしいなんて感傷はないが、骨と肉にしみ込んだ思い出の手触りは消えない。

「ご家族の関係は良好でした?」

「さあ、時代が違うからな。家族も夫婦もその役割とか、こういうあり方が望ましいとかいうイメージが、今と昔とじゃあ、まるで違うだろう」

「ああ……それは、そうですよね」

「今は子供を働かせたり、一人でほっといたら虐待だみたいに言うが、今みたいに便利なもんはなんもなかったんだよ。親の手が足りんかったら、子も手伝いせんとなんともならんし、仕事が忙しいいうても、ほったらかして死なせるわけにいかんから、赤ん坊の腰と柱と紐で縛っといたりな、そんな時代だった。ただまあ、うちの場合は、そのへんを差し引いてもだめだったがな」

「だめ、でしたか」

「ああ。だめだった。アットホームで夫婦仲がいいとか、そんなもんはテレビの中とか東京とかだけの話しだと思っとった」

「お父さんのこと、苦手だったんですか」

 はっ、と思わず笑いがもれた。背後の仏間へふり返り、ちらと遺影を見上げる。相も変わらぬ厭な男の顔が倫治を、いや、この家の全てを睥睨していた。死んでもなお。

「親父なんか、好き嫌いのものじゃねぇだろ」

 といっても、そう言うからには、やはり倫治は父親のことが嫌いだったのだ。眼光鋭いのが嫌だった。人の話をまったく聞かないのも嫌だった。年を取ってあのころの父と同年代になれば、言動の理由や気持ちが分かるようになるものだろうかと昔は思ったりもしたが、そんなことは全くなかった。倫治はただ親父のような男が嫌いで、年を取ってもやっぱりあの人間の神経は理解できなかった。ただそれだけだった。

 視線を戻す。瑠璃子の胸元につるりと汗が流れ落ちる。それを嫌ったか、瑠璃子は自身の指でその違和感をこすりとった。そこにわずかばかり黒い垢が浮く。それが見えるくらいには、倫治と瑠璃子は近くにいた。

「じゃあ、お母さんはどうでした?」

「お袋は――そうだな。自立する力がなかったからだろうが、鬱々としてみえたよ。それは時世柄仕方なかったんだろうなとは思っとる。親父の気質で苦労したのも分かっとる。でもやっぱり明るさってもんがない人だったから、子供としては気塞ぎだったな」

「お父さんとお母さんて、恋愛結婚でしたか?」

「まさか、戦中の人間だぞ? 見合いだ。惚れた腫れたみたいなもんはみじんもない夫婦だったよ」

「そうですか」

 ふぅと瑠璃子は、やや長い溜め息を吐きながら難しい顔をした。

「恋愛物語とか夫婦の愛情話って、大昔から山ほどあるじゃないですか。でも、現実はなんか違いますよね」

「そりゃ、作り話とは違うだろ。人間関係、きれいごとではすまんからな」

「共白髪まで仲睦まじくって、本当に実在してるんでしょうか?」

「人によるだろうが、俺はツチノコみたいなもんだと思っとるよ」

 そう言うと、瑠璃子は「ツチノコって」と笑った。それで倫治も少しだけ笑った。

 笑いながら倫治は何となく、ここまでの流れで瑠璃子の中の恋愛観や結婚観と、自分のそれとが乖離しているのを感じ取っていた。時代のギャップか、もしくは男と女の認識差か、単なる個人差か。どちらにせよ、ここで自分の考えを語っても仕方あるまいと、倫治は瑠璃子の中にありそうな見解によせて考えてみた。恐らく瑠璃子は「話しあい、わかりあおう」とする関係を美徳と思っている。ならばその前提のうまくいかないケースの原因について話すべきだろう。

「ウチの場合はこんな塩梅だったから、そんなとこで育った俺の家庭観や夫婦観も、本質的にはあんまり褒められたもんじゃねぇんだろうが、実際のところは、やっぱり結婚だのなんだのは、不便な仕組みなんだと思うわ、俺はな」

「ええと……結婚というシステム自体に反対ってことですか?」

「というかな……たとえば、最初は良い関係を築けていたとしても、人間同士、長いこと一緒におったら考え方なんか変わったりもするだろ?」

「はい」

「当然体調も変わるし、相手への気持ちなんかもそうだ。生きてりゃ変わるのが当たり前だ。だがなぁ、どっちかばかりが変わって、どっちかがそのまんま変わらんかったりすることがあるだろ? あれが一番拙いんだ。それで、そこからお互いに不満を出したりする」

「ああ、変わった方は一緒に変わってくれないのが不満だし、変わらない方は変わってしまった相手を受け入れられない、ってことですね?」

 倫治は「そうだ」と頷いた。

「そもそもな、男が女を、女が男をこういうもんだと思いこんどることが、相手には当てはまってなかったってことを知るのが付き合うとか結婚生活ってもんだろ。でもそう簡単には割り切れんわけだ。それまでの人生や見聞ってもんがあるからな。で、お互いに相手に求めることが不都合をおこして噛み合わなくなることもある」

「確かに、そうですよね」

「そういうときに、無理して一緒におり続けるのがいいんかどうかって話になったら、俺はそうじゃねぇなって思う。折り合いがつけられりゃ、それが一番いいんだろうが、そうできんかったときに子供がおるから我慢するとか巣立つまで待つとか、そうして自分の人生を蔑ろにして本当に子供のためになるかっつーたら、ならんよ」

「なりませんか」

「現に俺にはならんかったからな。不仲で不幸な夫婦を、そういうもんかと眺めながら子供時代を送った挙句、いざ自分が結婚なんかしてみれば、雑な夫婦関係しか築けんかったからな」

 倫治の指先が、こつんと座卓の表を叩いた。

「無理なら無理でええんだよ。そうなったときに、関係を終わらせるか諦めるかは、それぞれの人間で考えて決めたらええんだ。他人の考えとか世間がどうとか、それを勘案にいれとったら息苦しいだろう? 自分にとって間違いだったってんなら、仕切り直しゃええんだ」

「……そうですね。絶対に間違いも不満もない夫婦なんか……あるわけないですよね」

 瑠璃子は、そこで口元を少しふるわせて笑った。引きつらせたようにも見えた。

「でも、それでも、やっぱり間違いない相手を選びたいじゃないですか。最初から悪くなる未来を考えて、結婚しよう、ずっと一緒にいる約束をしようなんてないでしょう? だからこそ慎重に考えて結婚相手も選ぶのに、どうしても、どうやっても受け入れられない、許せないことが出てきてしまうから、それで皆、苦しいんじゃないでしょうか」

「そりゃ苦しいだろうさ。期待外れだったんだから」

 瑠璃子は無意識にか、切子のグラスを両手で包んだ。氷が解けて中身の薄くなった紅茶が、まだ汗をかいていた。

「おっしゃってることはわかりますよ? パートナーと言ったって他人です。他人を完璧にコントロールすることなんかできないのはわかってるんです。でも、無力感がすごいんですよ。自分ですごくしっかり見定めて相手を選んだはずなんです皆。なのに間違ってた。それって自分の見る目がなかったってことなんです。自分が間違ってたってことなんです。相手をどうにかはできないものだって思い知れば知るほどに、最初に信じた自分が馬鹿に思えて、責任ばかりが積み重なって、苦しくてたまらなくなる」

「責任て……今の若いのはそんなふうに考えるんか」

「私はそう思いますよ。選択の自由があるってことは、自己責任を負うことだって言われて育ちましたもん。旦那選びだって同じじゃないですか? そんな人を好きになった、選んだ自分が馬鹿だったんだって思いません? 矢野さんは違うんですか」

「考えたこともねぇなあ。極端だよ。そりゃ自罰がすぎるわ」

「自罰、ですか」

「そうだよ。こっちがびっくりしたわ。あのな、お前さんも言ったとおり、そんな相手あってのことなんか、どうにかできると思うほうがどうかしとると思うが? 責任なんか負いようがねえって」

「そう、かしら。そう思っていいものかしら」

「いいんだよ。最初は良い相手だったとしても、だんだんおかしくなって辛抱できねぇようになることもある。大体最初っから本性出してねぇで結婚してから横着かます奴だって五万とおるだろうが? 許せねぇことをされて耐えられねぇなら別れりゃいい。別れる自由はあるんだ。法律がそうなっとるんだから」

 瑠璃子は、なにかを言い掛けて口ごもり、数度瞬いてからやはり口を開いた。

「だけど、どうしても考えてしまうんです。もし、私がもう少し我慢して歩み寄っていたら、向き合っていたら、何か違ってたかも知れないって。――あんなことにはならなかったかもって」

 ああ、と倫治は気付く。これは一般論じゃないな。これは瑠璃子自身の話だ。そうなってくるとまた話が違う。

「そりゃあ」

 倫治はそこで一口紅茶を飲むと、ごとんとグラスを座卓においた。

「後ろ向きだ」

「後ろ向き、ですか」

「あんたそりゃ勘違いだ。なんかしらの不都合が夫婦――でなくとも男と女の間におこったときに、我慢してやり過ごしてたら、何時かなあなあで元に戻れるような気がするんじゃねぇかって、好転するんじゃねぇかって、そう思い込みたいってやつだ。だがなぁ、実際過ぎたことは取り戻せやせんだろう。あったことは記憶からは消えないし、許せんと思った事実はなくならん。そもそもな、話が通じん人間には通じんもんだ。そんな人間、腐るほどいるだろ。話せば伝わるとか、心を尽くせば分かり合えるとか、それはあんまり能天気がすぎるんじゃねぇかな」

 倫治の脳裏にあったのは幸代の言葉だった。過ぎてしまったことは取り戻せない。やってしまったことも、やらなかったことも全て。

「後ろばっかり見とるからそう思うんだ。いいか、未来ってのは、今のことや過去のことの積み重ねの上にしか立たんだろう。畑も手を掛けにゃあ実は取れんのと一緒だ。言い換えれば、やったことは必ず結果として顔を出すんだよ。どんだけお前さんが我慢しようが、馬鹿やった相手が反省しようが改心しようが、お前さんが嫌なことをされた――ああ、何をされたかは知らんが、なんか嫌なことをされたんだとして――された結果は変わらんし、あんたが苦しんだ事実も消えん。そんでな、大抵の人間はな、やらかしたこと自体に対して反省なんかせん」

 瑠璃子はきょとんとした。ばちばちと瞬く。

「反省、しないですか」

「しないんだよ。人間てのは多分、ダメなことだと思っとることは曲がらねぇもんなんだ。自分自身には嘘は吐けねぇからな。ダメなもんはダメだって分かっとるんだよ。なのによろしくねぇことをやっちまうってのは、そりゃそいつが本音ではそのことをダメだと思っとらんからだ。自分を甘やかしてんだよ」

「甘やかし、てたんですか、あれは」

 倫治は頷いた。

「ああそうだ。他人にとってや一般論ではどう考えてもダメだってことでも、そいつにとって大してダメなことじゃなかったらタブーにはならねぇんだから、そりゃやらかすし話も噛み合わねぇよ。それに、ダメだと思ってても自分の欲やわがままを優先する奴だっている。あれだ、お前さん、人間を賢く見積もりすぎだ。大抵の人間は、お前さんが思うより馬鹿なんだよ」

 俺含めてな、と、倫治は内心に結んだ。

 瑠璃子の顔がくしゃりと歪む。悲しんでいるようであり、がっかりしているようでもある。そんな顔だった。でもきっと、瑠璃子も倫治の言葉通りだと思っているからそんな顔をするのだろう。

「それでもな、やらかした結果、不便や不都合ってのはやっぱり出てくるわけだ。世間や一般論が許しちゃくれねぇことをやらかすってのは、相手側に利を渡すってのと同じなんだよ」

「利を渡す、ですか」

「ああ。つまり、相手が怒ったりゆるさないのが正当だって、相手のほうが正しいんだって勝ちを譲るようなもんなんだな。で、なんかやらかすってのは、まあ大抵相手があるもんであって、そうなりゃ――相手は怒るわな」

「ああ、ですよね。怒りますよね、ふつう。というか、自分のほうが正しいってお墨付きがあったら、安心して怒れますよね」

「そういうことだな。まあその、なんだ。そういうわけで、相手を怒らせたときにだな、その相手と自分との関係によっても内容は変わるだろうが、それにゃペナルティがついてくるもんだろ。世話焼いてもらってたり、稼いでもらってたり、助けてもらったりしてたのが、怒らせることによって解消されるわけだ。してもらって助かってたことをしてもらえなくなるわけだよ。それが自分にとって損とか不利益になると思うから、これをなんとかマシにしたくて謝る」

「あっ」

 はっとしたように瑠璃子は口を開いた。

「ああ、そういうこと……」

「そう。ただそれだけだ。自分の都合の良し悪ししか考えてねぇ。人間は――大抵自分のことしか考えてねぇ、変わらねぇ馬鹿なんだよ」

 言いながら倫治は、それが自分自身に対する言葉だと理解していた。まったく、客観的に己を顧みる利点がない。自分で自分を殴っているだけだ。しかし瑠璃子は口元に手を当てて、くすくすと笑った。

「ありがとうございます。なんだか変な話ですけど、ハッキリ言っていただけて、ちょっと救われました。馬鹿は死んでもなおらないって、そういうことなんですね」

 倫治はそれで、なぜか自分もわずかに救われたような気になった。死んでもなおらないなら、もう仕方ないだろう。

「まあでもその、なんだ。惚れた腫れたは冷静にやるもんじゃねぇからな。だから間違いもする。でも、間違ってもやり直しがきく。それくらいの気構えでやりゃいいんだ」

「それくらいでいいんですね」

「じゃなきゃ、みんな死んじまうだろう」

「ほんとですね」

 うふふ、と笑ってから瑠璃子は淋しそうにうつむいた。

「みんな頭では分かってるんですよね。好きになって信じた人でも、裏切られたり応えてもらえなくなったりするのは当然ありうる話で、それで苦しい思いをすることもあるんだって。知ってるはずなのに、それでもこの人だけはって思ってしまう。期待を掛けて盲目になってしまう。ほんと、だめですね。どうしてこんな馬鹿になって、そのたびに傷付いてしまうのかしらね……」

 確かにどうしてだろう、と倫治も思った。少し考えてわずかに反っていた姿勢を戻すと、瑠璃子へ真っ直ぐに目を向けた。

「月並みだが、人肌恋しいってやつだろ」

「人肌」

「多分、人間は誰かが隣にいねぇと、なんも考えずに休むってことができねぇんだ。きっと休むために誰かが必要になるときがくる。そのためにも、一緒の空気を吸って息がつまることのねぇ相手を探さなきゃならねぇんだ。安心してぇんだよ。そういう相手を探すときに、きっとこいつもダメになるなんて思ってたら一歩も前に進めねぇだろうが。そうやって、脳みそが出してくるホルモンだか神経物質だかに麻痺させられるからこそ、できるのが恋愛ってもんなんじゃねぇか? 麻痺が切れりゃ現実が見えてくる。夢から醒めりゃ許せないことも出てくる」

「その夢から完全に醒めるまでに、皆、ちょっとずつ都合をすり合わせていくんですね」

「そうだな。そうやってすり合わせられたもんが深ければ深いほど、お互いに呼吸しやすい相手にできたってことなんだろう。で、それがうまくいかんでも仕方ないんだ。実際に、すり合わせてみにゃ、わかんねぇんだから。相手が寄せる努力を全くやりたくねぇってスカの場合もあるんだから」

「ああ、それは確かにスカですね……」

「そうやって、人間てぇのは、次から次へと、その時々の都合にあった人間と寄り添っていくんじゃねぇかと思う。生涯でたった一人としか添えねぇなら、相手が死んだら終わりだからな。だから、結婚てのは、きっと人間関係の本質じゃねぇんだよ。社会から押し付けられた、ただのシステムで、ただの枠にすぎねぇんだ」

 ぶわっと熱風が吹き込んだ。ちりりんりりりん、と風鈴がそれまでにないけたたましさで鳴った。瑠璃子の目が見開かれる。丸く黒い瞳は、何も映していないように見えた。

「それって、余計にさみしくはないでしょうか」

 ちりりんと、追って鳴った音が、妙に倫治の耳にこびりついた。

「余計に?」

「あの、ちょっとうまく理解できてるかわからないんですけど、へんなこと言ってたら言ってくださいね? あの、それって、恋をして盲目になって、つまりすごく馬鹿にならないと、誰も他人の内側に深くは踏みこめないし、自分の内側にも踏みこませられないということでしょう? 麻痺でもしないと強い結びつきは作れないってことでしょう? 適切な距離を保ちすぎていては、許し続けたり支え続けたりするための妥協点や強制力すら手に入らないということでしょう?」

 確かに――そうかも知れない。そう思ったら、今度は倫治が溜め息を吐く番だった。

「そうだな。確かにそうだ。遠慮しあって、小利口に上品に注意深くやってたら、ずっと独りってことか。泥臭くやるしかないんやろうなぁ」

 強張っていた瑠璃子の肩が、ゆっくりと下がってゆく。

「あとはその、もちろん、人の性格や気質にもよるんでしょうけれど、恋愛での麻痺? その刺激や執着のほうにばかり夢中になって、すり合わせることを疎かにしていたら、あとあと恋愛感情が薄まって飽きたころに、お互いの人生や人格に踏みこみ過ぎた結果ばかりがそこに残っていることになってしまうわけでしょう? 特別な関係になろうとしたからお互いに知られていることがたくさんできてしまって、でも他人に戻るから、他人には知られたくないことを知られていることになるから、かえってその相手が他の誰より厭な存在になってしまう。現実的な不都合ばかりがクローズアップされることになって、不満でいっぱいになってしまって、もういいやって次に乗りかえていって――そんなふうにしていたら、人は結局一人になってしまうんじゃないかしら」

 倫治は黙った。本当にそうかもしれないと思った。

 恋愛感情による麻痺と飽き。それは倫治自身の経験にも裏打ちされている。

 と同時に、倫治は遅ればせながら気付いたのだ。この目の前の娘が――今はまだその気配をほのめかしているくらいの段階だが――恐らく倫治の事情について、ある程度は通じているのだろうことに。

 この娘が自分に近付いたのには最初から訳があった。

 だが、その訳とは一体なんだ?

 古く苦い記憶が、暑さに誘われ陽炎のようにゆれる。

 真美子は――そうだ、思い出した。真美子が言ったのだ。


 ――一人は辛くて、さみしいわよね。

 あれも真夏のことだった。

 二人でよった喫茶店で、あのとき水ようかんを食べた。これ、ピンチョス楊枝っていうのよ。へんな名前よね。くすぐったそうに笑って、横髪をゆらしていた。

 ――一人は辛いわよね。

 ――一人でいるのが辛いから、誰かのそばにいたいと願う。でも誰といても人は結局一人なのよ。誰かと一緒にいるのに、心も言葉も噛み合っていないと感じたときに、人は一番重い孤独を知るんだと思うわ。それって、人にとって一番苦しいことだと思う。でね、その事実から目を逸らしたくて、人はきっと誰かと肌を重ねるし、結果心の寒々しさが増して、風邪をひきそうになっちゃって、それで、次の誰かをさがすんだわ。


 倫治はゆっくりと胡坐を掻きなおし、灰色の頭を掻きむしった。

 まったく妙なことになった。あんな何十年も前のことを思い出すなんて。

 それに、こんな色恋沙汰について考えたり誰かと話し込んだりしたことは、これまでの人生で一度たりとてない。真美子のときだって、一方的に話を聞いていただけだった。しかも今目の前にいる相手は移住者で、三十近く下の女ときた。そしてその女は毒を盛ったおはぎを使い、早苗の顛末を知るのを盾にして、倫治を脅迫している最中なのだ。

 倫治が弛緩していると、瑠璃子も、ふぅと熱のこもった吐息をこぼしつつ、脚のやる向きを変えた。そのとき、やはりわざと膝を高く立てるので下着が露呈するのだった。

「なんだか、考えすぎて疲れちゃいました」

「――同感だ」

「夫婦って、そう思うと、儚いものですね」

 瑠璃子のその言葉は、どこか独り言めいていた。

「そうだなぁ。過ぎれば嘘みたいなもんだ」

 だから、倫治の言葉もほとんどが独り言だった。

「夫婦善哉って何時の時代からあった言葉でしたっけ」

「言葉というか、それは小説だろう。俺は教養がないから読んどらんし知らんが、あれはつまり不倫の勝ち逃げ話だろう」

 そこで、瑠璃子はふっと目を子供のように丸くして見せた。

「矢野さんが言うと、重みが違いますね」

 倫治が瞬くと、額から垂れた汗が目に染みた。指先でそれをちょっと擦っていると、瑠璃子は追ってこうつぶやいた。

「だって、あなたは、周りに人間がいることに気付かないで、全部壊したじゃないですか」


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