「赤子を盗んだ………?」とイカ墨パスタを啜りながら私は言った。


「ああそうだ。

 俺は赤子を盗んだ。

 あの人妻の子供を、ベビーカーのなかですやすやと眠る赤子を。

 俺はもう限界だったんだ。

 疲れちまった。

 そもそも、誰に俺の行いを批判できる?

 俺はそこに求めて当然のものを求めただけだ………誰だってそうするさ、俺じゃなくたって……ああ、俺じゃなくたって、誰だってそうするよ。


 誰にも俺は否定できない。

 そのときの俺は、すべきことをしただけだ。

 ああそうだ。

 罪悪感なんかないさ。

 どうせ最終的にはもとの場所へ返してやった。

 代償は支払った。

 罰を受けた。

 もう贖罪は果たした。

 俺の何が悪い!」


 彼はテーブルを勢いよく右の拳で叩いた。

 激しい音が、稲妻のように喧騒を駆け巡り、一瞬、辺りは完全な沈黙に包まれた。

 人々がその音に驚いて、思わず動きを完全に止めたのである。

 我々のテーブルを多くの客が覗き見た。

 それは傍観者の目だった。

 なんの責任も持たない、ある一つの観念的な、それでいて象徴的な目……その集合体………。


「見るなァ!」


 鬼の形相をして、彼は怒鳴った。

 眉間に無数の皺を寄せ、血走った目を他の者たちに向け、右手には鈍く光るフォークが固く握られていた。

 彼の肩はわなわなとふるえ、前歯が裂いた下唇から一筋の赤黒い血液が流れ、顎を伝って滴り落ちた。

 私はまったく動けずにいた。

 彼のこんな姿を、私は一度も見たことがなかった。


「おい、落ち着けよ……らしくないぜ」

「ちっ。………気分が悪い。外に出よう」


 彼は私など意にも介さず、店の外へ出て行ってしまった。

 私の前の食器のなかにはまだイカ墨パスタが残っていたが、彼をそのまま放っておく訳にはいかなかった。

 私はレジで勘定を支払ったのち、テーブルを彼が叩いたことを店員に謝罪して、店を出た。

 店員が彼を心配していたが、私がついているから大丈夫と言った。


 店が面しているのは、それなりに人通りのある通りである。

 彼は店を出て南に向かっていた。


 私は彼を追いかけた。

 そうして肩に手をかけ、彼に忠告した。


「おい、ちょっと横暴にすぎる。さっきの話と言い、入院中になにかあったのか? いや、あったんだろ。そうでなきゃ、あんな気が触れたみたいな真似ができるか」

「気なんか触れてない」と彼は言った。

「気なんか触れてないさ」

「じゃあどうしてあんなことしたんだよ」

「俺にも分からない。………満月だ」


 彼は突然上を見上げてそう言った。

 その言葉はあまりに突然に過ぎたが、私も同じように空を見上げて言った。


「満月だな」

「あの日もこんな満月の日だった」

「あの日って?」

「赤子を盗んだ日だ。

 もう秋が終わり、空気が冬の匂いを帯びていて、なんだか町全体が乾いて見えた。

 そんな満月の夜だった。


 俺は母親に悟られぬよう、深夜に家を脱け出した。

 零時を回ったのを確認してから、そろりそろりと布団から出て、寝巻きのままサンダルを足に引っ掛けて外に出た。

 その辺りにはろくに街灯なんかないから、真っ暗ななかを手探りに進んでいくしかなかった。

 次第に闇に目が慣れて、月と星の光だけで周囲を見分けられるようになったが、それまでは何ともない小石につまずいて転びかけたり電柱にぶつかったりした。

 しかし何度も何度も頭のなかで繰り返しシミュレーションしていたから、道を一歩でも間違えることはなかった。


 暗闇のなかで、その家だけは俺の目に太陽のように映った。

 たしかに外見は普通の一軒家であるが、その内側には約束された幸福が眠っている。

 俺は敷地内に入り込み、開いている窓から軽々と侵入した。

 昼のうちに、その家の子供にこう言ったのだ。

 寝るときに窓を開けていると、クリスマスに備えてサンタが良い子にしてるかどうか視察に来るぞ、と。

 簡単に信用したその子どもは、窓を開けてサンタが来るのを待っていたようだが、俺が中に入ったときには勉強机で眠ってしまっていた。

 サンタに良い子であるところを見せようと、遅くまで勉強していたのだろう。


 俺はその子どもの部屋を通り抜け、暗い廊下を玄関の方向に行った。

 赤子は両親と共に眠っているだろうから、両親の寝室を探せばいい。

 一部屋々々々確認していく算段だったが、運良く最初でヒットした。

 玄関に最も近い扉を開けると、豆電球のぼんやりとした明かりのなか、大きなベッドで男女が二人寝入っていた。

 その脇にあるベビーベッドで、小さな赤子が仰向けに寝ていた。


 俺は音を立てないよう細心の注意を払って部屋に入り込んだ。

 そうしてベビーベッドのなかから赤子を取り出そうとした。

 が、身長がぜんぜん足りない。

 そこでベッドのそばにある椅子を寄せて、その上に乗って赤子を取り出すことにした。

 アンティークなその椅子には足に車輪がついておらず、引きずるには音を立てる危険があり、俺は音を立てぬよう、静かに静かに椅子を持ち上げ、ベビーベッドの側に寄せた。


 そのとき、父親の腕がふいに天井に向かって突き上げられた。

 一瞬ひやりとしたが、どうやらただ寝返りを打っただけらしい。

 俺は椅子の上に乗って、ベッドの中から赤子を取り出した。

 赤子を胸に抱えながら椅子を降りるのには苦労した。

 それに、万が一赤子が起きでもしたら、泣かれてしまうかもしれない。

 どうせ椅子を戻さずとも、赤子が盗られたのは翌朝分かってしまうのだから、俺は何もかもをそのままに来た道を引き返した。

 今思えば、椅子を使っていることから盗んだのが子供だとわかる可能性もあったのだが。


 赤子が泣くこともなく、無事に家に帰った俺は、母親の寝室で以上のような手段を再度用いて、ベビーベッドに眠る人形と赤子とを取り替えた。

 人形は俺の部屋の箪笥の中にそっと隠した。

 そして眠りについた。

 長い夜が終わった。


 翌朝、母が赤子と人形を取り替えたことに気がつくことはなかった。

 しかし家の外では大きな騒ぎとなっていた。

 赤子が盗まれたといって、これは新聞沙汰にもなった。

 学校ではこの話がしばらく皆の話題になるほどで、校長先生も全校朝会では泥棒に気をつけるよう声をかけた。

 またこの件に関する情報の提供を要請した。

 例の長男は物静かなゆえに、普段はクラスの輪から外れた存在であったが、今回の一件で一気に注目されるようになった。

 皆が彼を無理やり構った。

 そのことを嫌に思う嫉妬深いやつからひどい嫌がらせを受けた。

 その年が終わるころには、学校から彼の姿は消えていた。


 そして警察も動いた。

 よくフィクションの世界で警察は無能のように描かれるが、そんなことは全くなかった。

 すぐさま赤子の顔が全国の警察に出回り、警察の捜査が始まった。

 毎日あちこちをパトカーが走り、警察をよく見かけるようになった。

 俺はひどく怯えていた。

 逮捕されるかもしれないと思っていた。

 しかし同時に、バレるわけがないとたかを括ってもいた。

 母は、


『子供が盗まれるだなんて物騒ね』


 と言い、盗んだ赤子をよしよしとあやしていた。

 ………そしてわずか二日後、その日は来た。


 インターホンが鳴った。

 母親が出た。

 玄関口には大勢の警察がいた。


 母に逮捕状が出ていた。

 俺はそのとき自室にいたが、外の騒ぎに玄関へ向かった。

 そこには、保護された赤子と、泣き叫びながら連行されていく母の姿があった。

 頭が真っ白になった。

 転げるように廊下を走り、母のもとへ向かった。

 裸足のまま外へ駆け出し、母の脇を固める警察官にしがみつこうとして、別の警察官に身体を引き剥がされた。

 俺は泣きながら暴れた。

 暴れたはずだ。

 だが、いずれ疲れて暴れることを一切やめた。

 そしてかつての母のように、俺の電源が切られた」


 彼はそこで言葉を区切った。

 そしてゆっくりと夜の道を進みだした。


「電源が切られているときのことは何も覚えていない。

 俺の電源がまた入れ直されたのは、母の葬式のときだった。

 坊さんがお経を読んでいて、辺りには喪服の大人ばかりがいて、俺は訳もわからずに泣いた。

 児童相談所に保護されてから四ヶ月後のことだ。

 葬式があらかた済んだあと、俺は大人たちの話を盗み聞いて母について知った。

 赤子を誘拐した容疑で逮捕された母は、

 実刑判決ののちすぐに、

 狭い牢獄のなか、

 首を吊って自害していた。


 電車に乗っているのは俺一人になった。

 父が降りて、

 弟が降りて、

 母が降りて、

 広い車内にはもう誰もいない。

 俺一人だ。

 話は終わりだ。

 それからずっと俺は一人だ。

 麻香の人形も捨ててしまった」


 彼はそう言い終わると、もう何も言わなくなった。

 私はなんとも言えぬ寂寥感に包まれながら、彼の背中を見つめていた。

 それから、つとめて快活に笑いながら、


「なかなか悪くない話だな。背筋がひやりとしたぜ。夏にでもその話をしたら、すぐさま怪談番組のプロデューサーだかディレクターが声をかけてくるだろうな」


 彼はひどく難しそうにしながら振り返った。


「信じられないだろうが本当の話だ」

「何言ってんだ」

「なぜそこまでして俺の話を否定したがる!」


 彼は怒鳴った。


「お前はいったい俺のなんなんだ!」

「…………本当に気でも狂ったか? おい………」


 そこはわずかに勾配があって、彼は徐々に後ろに下がっていった。

 私は慌てて彼の車椅子を押さえた。


「なあ、あの事故は誰の責任でもないんだぜ。父さんと母さんが死んだのは悲しいけれど、別に兄さんが殺したわけでもないだろ」


 兄は沈鬱な顔をしていた。

 そう、兄はいつも沈鬱な顔をしていたのだ。

 それがあの事故から、どこか気性が荒くなって、そして性格が明るくなった。

 両親と両足を失えば、普通ますます暗くなるだろうに。


「とりあえず、うちに帰ろう。そして寝よう、兄さん」

「兄さんだって? 誰が兄さんだ! 俺は麻香の兄であってお前なんかの兄じゃない!」


「麻香は俺だよ」




 ———広い車内を麻香一人が乗っている。

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麻香 三輪晢夫 @Hachi0805

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