店内の人混みが絶えるようすはなかった。

 つねに客が入り乱れ、店員が忙しそうに何度も我々のテーブルを横切った。

 私は小エビのサラダを食べながら、彼の話の続きを聞いた。


「父は交通事故で死んだ。

 相手のトラックが信号無視をしてな。

 真横から車体を貫かれて、そのまま吹き飛ばされて、工事中のところに突っ込んじまった。

 それによって崩れた鉄柱が、父の車をぺしゃんこに潰したそうだ。

 むろん、中にいた父もそのままお陀仏。

 幸いにも父以外に死傷者は出なかったようだが。


 俺と母に訃報が届いたのは、翌る日の朝だった。

 帰りの遅い父を心配して、警察署に行った。

 そこで昨夜の事故で残った車の残骸の写真を見せられた。

 今でも忘れない、あの無惨な光景は………そこには、紛れもなく父の車が写っていた。

 残念ながら車種は覚えていない。

 黒い車だった。

 それほど綺麗ではないが、算数で見る展開図のような具合につぶれていた。

 母は泣き崩れ、俺は訳が分からずにその場を動けなかった。


 妊娠してから三、四ヶ月は経っていたかな。

 これからというときに、旦那が死んでも、母は強かった。

 生まれてくる腹の子の存在が、母を勇気づけたのだと思う。

 もしかしたらそこには俺も含まれていたのかもしれない。

 俺の存在も母を勇気づけていたのかもしれない。

 だが、それはもう分からない。


 トラックの運転手からもらった慰謝料や入っていた保険のおかげで、生活はしばらくは安泰だった。

 数千万という額の貯金もまた、彼女を安心させる材料の一つだったのだろう。

 もともと父が倹約家ということもあったので、貯蓄は事故以前から数百万程度あったと聞く。


 俺もまた、父が死んで深い悲しみの沼に沈んだ。

 悲しみは死の直後ではなく、死ののち、ゆるやかに俺を襲った。

 死は、俺にとってただ一つの終着点ではなく、途中でいくつも過ぎ去っていく、数多くあるうちの一つに過ぎなかった。

 俺は観念的な電車に乗っていて、途中で一度駅に止まる。

 父が降りる。

 俺も降りようと思うが、母や弟が俺を引き止める。

 父が残った駅のプラットフォームを後にして、ふたたび電車は動きだす。

 電車はどんどん加速していき、父から離れて行ってしまう。

 戻ることはない。

 電車を降りれば、降りたそこが俺の終着点なのだ。

 そこからは後にも先にも行けない。


 あの夜、三人で眠ったのが父との最後の思い出だった。

 翌朝目覚めると、父はすでに会社に出かけていた。

 俺は父の最後の姿を見ることができなかった。

 ……俺には思いだせなかった!

 父との最後の会話が!

 俺は父に何を言ったんだろう?

 父は俺に何を言ったんだろう?

 …………時間が経つにつれて、それを思いだすどころか、父の思い出は俺の中から失われていった。

 電車は父を離れていく。

 今じゃ、父の顔や声すら、俺には朧げだ。


 年が明けてすぐ、母の陣痛がはじまった。

 俺は事情を知る近所のおばさんに教えてもらっていたから、すぐに電話で救急車を呼んだ。


 長い長い時間、俺は分娩室の前の廊下で母を待った。

 子供好きの若い看護婦が一人、俺の隣にきて、優しい言葉をかけてくれた。

 ひどく混乱していた俺は、その看護婦の吐く言葉の意味がまったく分からなかった。

 俺は病院に特有の真っ白ななかで一人、寂寥感を感じながら立ち尽くしていた。


 ………弟は死んだ。

 率直に言えば流産だ。

 母を担当した医師にも、果たしてなにが原因なのか分からないのだという。

 のちに赤子の亡骸を詳しく調べてみると、脳のある重要な器官に著しい損害が見受けられたようだが、母はいつも腹の中の子を気にかけていた。

 だから俺には、どこかに腹をぶつけて、それが原因で弟が死んだとは思えない。

 弟は理不尽に殺された。

 まるで神かなにかからそう決められていたかのように。


 母が病院から家に戻るまで、俺はあの近所のおばさんのところで生活していた。

 夜中、慣れない枕に頭を乗せて知らない天井を眺めるとき、俺はいつも弟のことを考えた。

 俺は弟が欲しかったのだろうか?

 本当は、弟が死んだことを心の奥底で喜んでるんじゃあるまいか?

 ………俺は、弟の死に俺自身がどう感じているのか分からなかった。

 父親に引き寄せられて、彼もまた途中下車してしまったのか。

 いや、そもそも電車にすら乗っていなかったのではあるまいか?

 弟は俺より遅くに電車に乗車し、俺より早くに電車を降りた。

 あまりに短い乗車時間だった。

 それは弟の意思だったのであろうか。

 父のいない家庭に生まれることを、弟は自ら拒んでいたのではないだろうか?


 冬休みが明けて数日が経つと、ようやく母が戻ってきた。

 寒空の下、おばさんに連れられて帰ってきた母と対面を果たしたとき、絶句した。

 絶句というのでもないな。

 理解ができなかった。

 母は、俺の姿になんの反応も見せなかった。

 彼女は俺を無視してとっとと家に入ってしまった。

 茫然自失とする俺に、おばさんがどんな言葉をかけたのかしらない。

 だが、そのとき、俺の心には大きな大きな亀裂が走った。


 それから数日というもの、母はまるで電源の切られた機械のように、寝室にこもったまま動かなかった。

 父と弟の死に狂ってしまったのだと思った。

 俺はそんな彼女におびえながら、なんら反応を見せぬ母に水を飲ませ、飯を食わせ、排泄物をトイレットペーパーにくるんで便所に流した。

 介護の本を読んだことがあったから、不器用な子供なりにもやらなければならないことは分かっていた。

 無論、それらが全て上手くいったわけはないし、生活は悪い方向へ日に日に変わっていった。

 小学生がたった一人で生活のサイクルを回せるわけはない。


 母がよくなる様子はなかった。

 毎日、夜が明けるころになると、母は耳にぴりぴりとする嫌な声で発狂した。

 声は寝室から壁伝いに俺の部屋まで響いてきた。

 それは、両親の寝室から聞こえる、激しい軋みや、快楽の声より、よほど俺の精神を蝕んだ。


 事態が変わったのは、ちょうど一週間ぐらい経ったころかな。

 朝、目覚めてリビングに行くと、母は以前と何一つ変わらないようすで朝食をつくっていた。

 ………いや、何一つ変わらないという言葉は嘘だ。

 母は背中にあるものを背負っていた。

 それは、あのとき父が母に渡した人形だった。

 あの、黄色い肌、真っ黒な目、無感動な表情、その不気味な唇の赤………。

 母は鼻歌を唄いながらキッチンに立ち、俺に人形を背負った背中を見せていた。


 俺はその光景に、ひどい悍ましさをおぼえた。

 狂気、……それもある。

 奇怪、……それもある。

 俺は自分が、まるで母の妄想に出てくるただの登場キャラクターでしかないような感覚をおぼえた。

 取り込まれてしまった……?


 だがとにかく、母が正気になるまではこの状態でも生活をつづけねばならない。

 俺は母の態度に合わせて、この狂った家の中で器用に立ち回ることに決めた。

 今思うとまったくおかしいがな。

 俺ももしかしたら、立て続けに起こった死に狂いかけていたのかもしれない。

 あるいは小学生の素っ頓狂な考えに過ぎないのか?

 だが俺の試みは、予想に反して大体は成功しているようだった。


 人形のおしめを変え、人形をあやし、人形とともに眠る生活。

 それは、想像以上に人間の心を削った。

 黒板を爪でひっかくような嫌な感覚が、俺の暗い生活にはつねに付き纏った。

 俺の生活は実態的には、くだらないゲームに一喜一憂し、勤労の義務を放棄する愚かな息子を養う母親と同じだった。

 俺は暗い暗い影の中に一人だった。

 ある日のことだ。


『麻香をよろしくね』


 母は人形を麻香と呼んでいた。

 買い物に行く際、母は麻香を俺に預けるのがつねだった。


 麻香………。

 それは当時、家族全員を皆殺しにしたある死刑囚の名前だった。

 死刑囚はてんかん持ちだった。

 クラスメイトは、俺の顔をその死刑囚に似ていると言った。

 だからあだ名は麻香だ。

 だが、母がなぜ人形に麻香という名前をつけたのかは、よく分からない。

 もしかしたら本当の俺の名前と、麻香という名前を別々の存在として認識していて、麻香の実体的空白に人形を当てはめたのかもしれない。


 俺はその不気味な人形を母親から預かると、母の姿が玄関の扉に遮られて消えるまで、その場で母を見送った。

 しかし、母のようにわざわざ真剣になって、食いもしない飯をやり、出しもしない排泄物の処理をするつもりはなかった。

 まったく馬鹿らしい。

 俺はリビングのソファーに人形をほっぽりだすと、自室にそのとき読んでいた本を取りに行った。

 が、どうにも上手く見つからない。

 時間がかかった。

 しばらくあちこちを探した末、本は学校に持って行ったままランドセルに仕舞いっぱなしだということを思い出した。


 ランドセルから本を取り出したそのとき、………リビングから恐ろしい絶叫が聞こえた。

 その金切り声が誰のものなのかは容易に想像がついた。

 母は、俺の知らぬうちに帰ってきていたらしい。

 忘れものをしたのかなんなのかは定かではない。

 が、とにかく、俺が弟を無視し、まるでもののように適当にソファーへ放っていたことが露呈した。

 力強い足音が廊下から響いてきた。

 母は俺の部屋の扉を思いっきり押し開けると、俺の姿を見た途端に頬を張った。

 俺は手に持っていた本を落とし、身を崩して、机の角に強く頭を打った。

 机の足にもたれながら倒れる俺の身体の上を跨って(まるで父が亡くなる前日、俺が母の乳首を舐めたときのように)、母は俺を何度も殴った。

 腹を蹴った。

 俺の肉体にはいくつもの傷がついた。

 そうして傷つきながらも、俺は涙を流さなかった。

 なんら反応を見せぬ俺を、母は殴り続けた。

 母の拳は血だらけだった。

 俺は机の足からもずり落ち、春の陽気を感ずる温かな床の上に倒れ込んだ。

 もはや身体から溢れる血液など気にならなかった。

 痛みなど感じなかった。

 感じるのは大きな衝撃と、母からの愛憎だけだった。


 母はいよいよ息をきらしてしまうと、急いで弟のもとへと向かって行った。

 自室に一人になってしまうと、俺は自分がひどく惨めに思えてならなかった。

 その部屋で俺は一人で横たわっていた。

 口や鼻や頭や、あらゆるところから血を流し、死人のように空の一点を見つめつづけていると、本当に自分がもうこの世にいないのだと錯覚してしまいそうになった。

 翌る日の朝になるまで、俺は指一本動かさなかった。

 ただ、静かに、床の上を横たわっていた」


 彼はそこで一度話を区切った。


「話しすぎて喉が渇いた。飲み物をとってくる」


 そのおどろおどろしい雰囲気に包まれて、私はうまく返事ができなかった。

 口の中の小エビの食感が、ひどく不快に感ぜられた。

 私が聞いているのは、いったいなんの話なのだ?

 ……寒気がしていた。

 ここまで恐ろしさを感じたのは、いったい何歳のとき以来であろう。


 一度店員が来て、私の前にイカ墨パスタを置いて去っていった。

 やがてメロンソーダの入ったコップを手にした彼が戻ってくると、話の続きをまた始めた。


「その日から、俺は本当に母の妄想の登場人物になった。

 それを演じるのではない。

 心からそうなりきるのだ。

 その気味の悪い不気味な人形を、俺は実際に弟として愛しんだ。

 額に接吻すらした。

 あの母の躾を受けてから、俺の精神はもはや母の精神に取り込まれたも同然であった。

 俺は自分が麻香だということも忘れていた。

 弟が麻香で、俺は麻香の兄でしかないのだ。

 本当にそう思っていた。


 俺は毎日、弟のおしめを変え、飯を食わせ、泣いているときには優しくあやした。

 両手で抱いて、身体をやおら揺らしてやると、弟はすぐに心地よさそうな寝息を立てはじめる。

 こんなありもしない現実を、俺はさも当然のことのように受け入れていた。

 夢と現実が溶け合ったような、思念と物体とが同一次元に存在する世界に俺は生きていた。


 そんな生活を続けて、数ヶ月ほど経ったある日のことだ。

 最近越してきたという若い人妻が、先月に第二子を出産したのだという噂を聞いた。

 男の子である。

 猿のような顔と赤い身体をしているという。

 ちなみに今年で七歳になる第一子の男は、俺の学校にいたらしい。

 学年も違ったし面識もなかったから詳しくは知らないが、引っ込み思案な陰気な少年だと聞いた。


 学校帰りや遊びに行ったときなど、道すがら、ベビーカーを押すその人妻や旦那の姿を目にすることがよくあった。

 秋のうつくしい色合いの紅葉のもと、彼らの姿が俺には眩しいもののように映った。

 そこには、あるべき瞬間、あるべき関係、あったはずの未来、あったはずの可能性が一つの束となって収束していた。

 もしもそこにいるのが我々であったなら………彼らを見てこう思わないときはなかった。

 俺は羨望の眼差しで彼らを眺めていた。

 暗い暗い日陰から。

 深く沈んだ闇の、あるいは地獄に最も近い現世の淵から。


 俺は正気に戻った。

 このときになると、人形に対する愛着がないではなかった。

 父が最後に残したものということもあったが、なにより数ヶ月の欺瞞の世話が真実の関係を生み出していた。

 生きているだとか生きていないとか関係なく、人は何に対しても精神的な、それでいて一方的な関係を結ぶことができるのだと知った。

 よくよく考えれば、我々はつねに世界や社会や世間といった形なきものに一方的に結びついているのだから、当たり前の話だが。


 俺の人形に対する感情は複雑だった。

 愛があった。

 憎しみがあった。

 親しみがあった。

 絶望があった。

 不安があった。

 依存があった。

 もはや我々家族は、この人形なしでは結びつくことが不可能なまでに、ばらばらに崩壊しかけていた。

 それでいて精神的には融合に近しい状態にあるのだから、まったく歪と言うほかない。

 俺は母を愛していたが、同時に憎んでもいた。

 心配していた。

 どうでもいいと思っていた。

 全て本心だが、何もかも誤魔化しのような感じもする。

 結局、全てが人形によって捻じ曲げられているのだ。

 絶望と不安が、我々を細い糸でぎりぎり繋ぎ止めていた。

 俺はこんなのはもういやだった。

 もう人形という、不安定なものに身を委ねたくはなかった。

 思えばそれが、最後の悲劇のはじまりだったのだ。

 俺は赤子を盗んだ」

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