麻香
三輪晢夫
上
夜のファミレスはひどく混んでいた。
私は、先に待っているという彼の言葉のために、長い列のなかをするすると通り抜けて、多くの席のなかから彼を探した。
彼は窓際のテーブル席で、白いTシャツとジーパンを履き、私を待っていた。
そちらへ向かうと、テーブルの上には、すでに空となった食器がいくつか並べられていた。
私はテーブルを挟んで、彼の前のソファへ座った。
「久しぶり」と私は言った。
「夜のファミレスってのは案外混んでいるんだな。三十分ぐらい入り口で待たされたよ」
彼は退院した直後とは思えぬ快活な笑顔を浮かべながら、私にメニューを渡した。
時刻は午後七時を回っており、仕事帰りのサラリーマンや大学生が客の大半を占め、店内は彼らの喧騒に満ちていた。
「何を食べた?」
「焼きチーズドリアと、チキンのサラダと、ラム肉と、マルゲリータ」
皿はちょうど四つあった。
全て残さずきれいに食べられている。
「これはまたずいぶんと頼んだな」
「入院生活でずっと恋しかったんだ、こういう俗っぽい料理がさ。なにせ、あそこで出てくる食べ物は全部味が薄いからな」
「寝っ転がってるだけで飯が出てくるんだから、ありがたいと思えよ。まあなんにせよ、退院おめでとう。今日は俺がもつよ」
「それは悪いな」
悪いな、と言いつつ、彼は少し苦虫を噛み潰したような表情をした。
おそらく、ただならもっと高いものを頼んでおけばよかった、と後悔しているのだろう。
私はメニューを一通り見て、セットドリンクバーと小エビのサラダとイカ墨パスタを頼むことに決めた。
「他になにか要るか?」と私は訊いた。
「いや、いいよ」と彼は首を振った
呼び鈴を鳴らそうとしたとき、我々のテーブルに痩せた店員が来た。
「キャラメルプリンでございます」
「まだ頼んでたのか」
「締めにプリンはファミレスの基本だろ」
私はため息を吐いたのち、その店員に上記の注文をした。
彼はかしこまりました、と言ってベテランのような九十度のお辞儀をすると、我々に背中を向けて他のテーブルへと向かった。
自分の料理が来るまで、久方ぶりに彼と談笑しようとした………のだが、一向に今来たプリンを彼が食べようとしないので、私はそれを不思議に思った。
心なしか顔が青ざめている。
「具合でも悪いのか」と私は訊ねた。
「いや、ちょっと………悪い、これ食べてくれるか」
「俺が? いいけれど、でもなんでさ」
「体調が悪いわけじゃないんだが、どうもそのプリンのぷるぷるとした感じとかを見ると、気持ちが悪くなっちまう」
「入院する前はちゃんと食べられたじゃないか」
「たぶん、………今回の事故で過去のことを思いだしちまったせいかもしれない」
「過去?」
彼がこうして入院する羽目になった原因の事故が、彼の過去のいったいなにに結びついているのか、私には皆目検討もつかなかった。
いやそれをさておくにしても、プリンを食べられなくなるようなショッキングな出来事を、彼は事故より前に経験していただろうか?
「お前に話したことはなかったっけか」
「話したことというか、え? 俺はまったく知らないぜ。そんなこと、誰からも………もちろんあんたから聞いたこともない」
私はプリンを一口頬張った。ファミレスらしく恐ろしく甘い。
胃もたれしそうだ。
「じゃあいい、無理して話す必要もないだろう」
彼はしらをきろうとして、胸ポケットからライターとタバコをとりだし、口にくわえて火をつけた。
「禁煙だぜ」
「構いやしないさ。入院中もしょっちゅう喫んでたんだ。おかげで一日二箱は吸わないといけなくなった。ヘビースモーカーさ」
そう言って煙を吐きだす姿は、どことなく以前の彼らしくないように見えた。
彼はそんなに弱い男だっただろうか?
「それより、その過去ってのを話してくれないか。そこで止められちゃ、目覚めが悪い」
「あまり気分のよくねえ話だぞ」
「いいよ」
彼はしばらく俯いて、そうは言ったが、私に話そうかどうか悩んでいるふうだった。
店内の機械的な明かりが彼の顔の右半分を白く照らし、左半分に黒い影を落としていた。
幼い時分、彼としたオセロやチェスを私はふと思いだした。
「子供の頃の話だ」
彼はようやく語りだした。
「子供の頃って、具体的にいつだよ」
「黙って聞け。質問は一切受けつけない。お前も、俺が仕方なく話してやる以上、これくらいの条件は呑んでもらうぞ」
私はしぶしぶうなずいた。
しかし、やはり退院してからの彼は、どうにも変わったような気がしてならない。
穏やかさが消えたのか、以前よりイラつきやすくなったのか………。
「まあ今回は特別に答えてやる。小学二年生のころだ。俺は当時、同級生たちから
「ちょっ、は? そんな話知らねえよ」
「だって聞いたことねえんだろ。いいから聞け。話を遮るな」
私は貧乏ゆすりが我慢できなくなった。
革靴の踵をとんとんと鳴らしながら、額に滲みでた脂汗を手の甲でぬぐった。
とにかく遮ることはせず、話の続きを聞かなければならない。
「なぜ俺が麻香と呼ばれていたのかは、おいおい話すとする。
そのあだ名を除けば、俺はいたって普通の小学生だった。
むろん、普通なのは昔も今も変わらないがな。
だが、普通なりにも俺は楽しい日々を過ごしていた。
一人っ子だったから、周りのやつらは大層俺を羨ましがったものだ。
時代が時代だし、そいつが兄だろうが弟だろうが、なんらかの苦労はあった。
兄は弟になんでも譲らねばならなかったし、弟はなんでも兄のお下がりだった。
一人っ子が一番楽だった。お前はたしか兄弟がいたんだっけな」
「そりゃいるだろ」
「まあ当時は一人っ子はよほど珍しかったからな。学校でも俺一人しかいなかった。
しかし、そんな俺にもある日弟ができた。
母親が妊娠した。
ここ最近不機嫌で具合を悪そうにしていた理由が、そのとき俺にはようやく分かった。
あれは妊娠初期に見られるつわりのためだったんだと。
俺がすでにつわりを知っていたのは、あのころ、ひどい読書の虫だったからだ。
図書室の本かなんかで、つわりのことと、そして性行為のことを知っていた。
たしか読んでいたのは、子供向けの医学系の本だったかな。
俺は父と母が性行為をつい最近までしていた事実を知った。
そしてそれを知ってしまうと、俺には二人が穢らわしい存在に思えてならなかった。
普段から性の概念を両親や環境によって規制されていると、その規制されたものに本能的な嫌悪感が芽生えてくる。
自慰行為をおぼえた高校生のときですら、俺は古いDVD屋の十八禁コーナーに入ることができなかった。
幼いころに植え付けられた価値観が、そこに入ることを拒否するんだ。
そんな具合で、俺は一時的に家族が大嫌いになった。
ほとんど口もきかなくなった。
外でずっと友達と遊んで、家に帰るのは日が暮れてしばらくしてからだった。
そんな生活がつづいたのち、父はある日、自分たちの寝室に俺を呼んだ。
寝巻き姿の父はダブル・ベッドに腰をかけ、わずかに膨れた母の腹をやさしく撫でていた。
……母は全裸でベッドに寝転んでいた。
白い頬にかすかに赤みがさして、真っ黒な髪の毛が枕の上に扇子のような形で散らばっていた。
『お母さんの乳首を舐めなさい』
父は俺に言った。
俺はベッドの上によじ登り、シーツの上を這いずって、裸の母の上に四つん這いになった。
目の前に母の裸体があった。
美しいとは言えぬまでも、子供を産んだというにしては、肌に張りがあり、潤いがあり、筋肉と脂肪のバランスがよかった。
横腹からは肋骨のごつごつとした凹凸が覗かれ、細かな陰影が、彼女の身体を覆う俺の大きな影のなかで、より黒くなっていた。
皮の剥けていない小さなセクスが、ズボンの中で膨らんでいた。
『舐めなさい』
俺は左右に垂れた桃いろの乳首を、言われた通りに舐めた。
最初は恐る恐る、次第にしゃぶりつくように舐めた。
俺の頭の上で母が熱い息を吐いているのが分かった。
俺は赤子のように母の乳首を舐め、口に含み、吸った。
その際、どういうわけか、乳首以外のどこにも触れないよう、細心の注意を払った。
俺の唇は乳輪にすら触れなかった。
ただ乳首のみを舐めながら、母の白い肌から噴き出る汗の、甘酸っぱい香りに包まれて、酒のように酔っていた。
母は若い女子のような甲高い嬌声をあげながら、俺の後頭部に手を回し、せいいっぱい乳房に顔を埋めさせようとしていた。
俺が必死に抵抗するうちに、ふと上下の歯で乳首を噛んでしまったときにも、母は快楽を感じたようだった。
『もうよろしい』
と父は言った。
俺は乳房から顔を離した。
母の顔は赤く上気していて、息は荒く、胸が上下していた。
そんな母に俺も興奮し、人生初めての絶頂を迎えた………むろん、その絶頂は下着のなかでセクスが弱々しく打ち震えるのみであり、精液は一滴すらも出なかった。
父が俺を自分のもとへ引き寄せて抱きしめると、どういうわけか、先ほどまであった両親への嫌悪が俺の中から失われていた。
父の身体など触るのも汚らわしかったのに、俺はされるがままに父の腕に身体をゆだねていた。
安堵して父の身体を抱きしめすらした。
どういう理屈かは知らぬが、………一人の女の乳首によって、我々三人の家族はふたたびつながることができたのだ。
父は一度俺を離し、立ち上がって寝室のタンスを開けると、中からリュックサックほどの大きさの、包装の施された箱を取り出した。
それは、と訊ねると、父は、
『生まれてくる弟のために買ったんだ』
と言って、包装を解いて俺と母に中身を見せた。
それは赤子を模した人形であった。
箱の中で眠る人形の、黄色い肌、妙にリアルな黒い瞳や禿頭や顔の造形に、なんだか不気味な感じはしないではなかったが、それでも俺はかわいいかわいいと喜び、母もまた嬉しそうに微笑んでいた。
そんな我々を見て父も喜んでいた。
赤子の人形は静かに眠っていた。
その日、久しぶりに我々は家族三人で一緒に眠った。
正確には母の腹の中で眠るもう一人も含まれていたが。
まあいい。
俺は両親の身体に囲われて、深い眠りに落ちていった。………。
翌日の夜、父が死んだ」
「お待たせいたしました」
話を遮って、あの痩せた店員がやってきた。
彼は私の前に小エビのサラダといくつか重ねた小皿を置くと、ごゆっくりどうぞ、と言ってまた去っていった。
あたりの喧騒は耳に遠かった。
あのような気色の悪い話を聞かされたあとでは、仕方がないようにも思える。
息子が父親に命令されて、母親の乳首を舐めるのだという。
小学二年生の子供が、性行為を知っていたという。
父が死んだ、という。……こんなおぞましい話があるか。
「食いながらでもいいぜ。まだ続きは長いからな」
「まだあるのかよ。………なあ、それって実話なのか?」と私は訊ねた。
「………実話じゃなかったらよかったがなあ。まあいいさ。起きてしまったことは起きてしまったことだ。今さら、気になんてしてないって」
「いや、そうじゃなくて———」
「しつけえよ」と彼は私の言葉を遮った。
「それよか、早く小エビのサラダ食え。鮮度が落ちるぞ」
「あ、ああ。それもそうだな」
私はフォークを取り出して小エビのサラダを食べはじめた。
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