2-8


(ゴランちゃんのおかげで、プララの実で魔獣さんを助けてあげられた……! おくびょうで引っ込みあんで、こんな私だけど、役に立てた。それがとっても嬉しい。勇気を出してよかった……!)


 ほんの少しだが、自分に自信が持てた気がする。

 とはいえ、打撲した腕はまだズキンズキンとうずくような痛みを発していた。

 リリーベルは痛みを堪えて顔をしかめつつ、屋敷を出たときの窓ではなく、裏庭に続く扉を開いて中に入る。


「キュウウ?」


 心配そうに肩の上のゴランが顔を覗き込んできて、リリーベルは必死にがおを作った。


「平気よ、これくらい。それより、お洋服が破れなくてよかったわ。打撲だから、濡らした布を当てて冷やしていれば治ると思うの。……ええと、ここからどっちの廊下に行けばいいんだったかしら」


 広い屋敷なので、同じような廊下が交差し、扉がずらりと並んでおり、リリーベルは迷ってしまう。


「ゴランちゃん。どっちかわかる?」


 ゴランに尋ねると、なぜか頭の上の草がピンと立ち、赤い実がくるんと回る。

 ゴランが再び、人に姿を見えなくさせる幻覚魔法を使ったのだ。


「え? 私以外に誰もいないのに、どうして」


 不思議に思ったリリーベルだったが、理由はすぐにわかった。

 背後の扉がバタンと開き、足音を響かせて誰かが屋敷に入ってきたのだ。


(エリアス様! パトロールから帰ってきたんだわ)


 リリーベルがぺこ、と頭を下げるとエリアスは足を止め、なぜかしばらくポカンとした顔をして彼女を眺めていた。

 それから我に返ったように、いつもの冷たい表情になって尋ねる。


「……こんなところで、何をしている」

「あ、あの。お屋敷が広いので、迷ってしまって……」


 リリーベルは腕が痛むことを悟られないよう、努めて明るい表情で答えた。

 そうか、とだけ言って、エリアスは無表情のまま、すたすたとリリーベルの横を通り過ぎていこうとした。

 いつものリリーベルであれば、決して自分から声をかけたりしないのだが、今は助けた魔獣と仲良くなったことで、少し気持ちが上向いている。

 それにエリアスに対して、伝えたいことがあった。


「エリアス様……! す、少し、お話が」


 勇気を出して必死に声を発すると、エリアスはぴたりと足を止める。


「何か用か」


 無愛想に言うエリアスに、リリーベルは小走りに近寄った。

 リリーベルはどうしても、エリアスに新しいワンピースやドレスをもらったことのお礼を言いたかったのだ。

 エリアスは眉を寄せ、げんそうにこちらを見ていたが、不意にその緑の目が大きく見開かれた。

 えっ? と思っているとばやくエリアスの手が伸びてきて、リリーベルのふくらんだスカートに触れる。


「この銀色の被毛は、魔獣の……! どういうことだ、また魔獣舎に入ったのか? 中にはジニアが残っていたはずだ。いったい何をしたんだ!」


 どうやらジニアというのが、体調を崩していた魔獣の名前らしい。

 長い時間、魔獣とじゃれ合っていたため、こうして見るとワンピースには銀色の毛があちこちに付着している。リリーベルは慌てた。


「あっ、あのっ、多分……風で、飛んできて……」


 しどろもどろにしゃくめいすると、エリアスは険しい表情になる。


「俺は、うそだいきらいだ」


 ぴしりと言って、緑の目がリリーベルをにらむ。


すやつ、おべっかを使うやつ、俺はそういう人間をけいべつする。どうやらきみもそういう噓つきだったらしいな」


 エリアスは、相当に腹を立てているらしかった。

 しかしゴランや魔草のことを話せないので、正直に事実は告げられない。

 厳しい𠮟しっせきにリリーベルの頭の中は、真っ白になってしまった。


「ジニアは、体調を崩しているんだ! ちょっかいを出して悪戯したなら、許さない!」

「あ……あ……」


 そういうつもりではなかった、ただ助けたい一心だった。

 心の中ではそう思っても、何もかも言い訳になりそうで、口から出てこない。


「ごめんなさい……!」


 リリーベルはエリアスに背を向けて、走り去ることしかできなかった。



*****



「おかえりなさいませ、エリアス様。さあ、お召し物のお着替えを」

「……そのように怖い顔をされて、どうかなさいましたか」


 エリアスの自室には、パトロールから戻るといつもそうであるように、侍女頭と執事長がひかえていた。

 エリアスは、げんを隠そうともせず答える。


「あの娘を、魔獣舎に近づけるな! お前たちもわかっているだろう。何かあってからではおそいんだぞ!」


 侍女頭に上着を預け、ゆったりした室内着に着替えながら言うと、侍女頭と執事長は困ったように顔を見合わせた。


「申し訳ございません」

「いつの間にか魔獣舎に入ったらしく、私どもも窓から見て、びっくりしたのです」

「なぜすぐに出るよう言わなかった! 体調を崩した魔獣は神経質になり、警戒心も強くなっている。頭を噛み砕かれる可能性だってある!」


 エリアスがこんなにまで苛立つのは、魔獣の本当の危険性と怖さを誰よりも知っているからだった。

 自分には懐いているし家族のように可愛いが、外敵に対してはようしゃなく残酷におそかる、巨大なもうじゅうだ。

 賢い分、敵だと感じた相手には獰猛で、どこまでもしゅうねんぶかぞうたぎらせる。

 まさしく、けものなのだ。

 だから外のものが魔獣を傷つけることがないように、そして魔獣がむやみに人を傷つけ誤解を受けないようにするため、エリアスはこの点に関してだけは厳しく管理している。

 なのにその近くを、がらで華奢なリリーベルがうろちょろしているところを想像するだけで、背筋が寒くなってくる。

 しかし、と執事長は額のあせを拭いながら弁明した。


「危険なことは私たちも知っておりますから、最初は驚いていたのですが……よく見るとジニアはリリーベル様に、非常に懐いていたようなのです」

「……懐く? あり得ない」


 いっしゅうしたエリアスに、本当なのです、と執事長に同意するようにうなずきながら、侍女頭も言う。


「舐めたり、鼻を押し付けたりして、とても楽しそうにされていたものですから……これは見守っていれば大丈夫ではないかと思いまして」

「何より不思議なことに、あの弱っていたジニアが、みるみる元気を取り戻したのです」


 熱を込めて説明する執事長に、エリアスはこんわくした。


「元気を取り戻しただと? そんなことがあるものか。食事の時間に様子を見るつもりでいたから、まだよく確認してはいないが……」


 魔獣たちは魔獣舎に戻ると、ぎょうよく自分たちで入っていくのが常だ。

 エリアスは自室に戻ってパトロール用の装備を解いてから、餌をあたえがてら食欲のなど、ジニアの体調をうかがおうと考えていた。


「私どももエリアス様がお戻りになられたら、ジニアの体調が完全に戻ったかどうか、確かめていただこうと考えておりました」

「信じられない。魔獣の病気は、簡単には治せないと知っているだろう。スターリング家に代々伝わる魔獣がくしょが頼みのつなだが、何しろ古い。虫食いやみで、読めない部分も多いからな。……それをどうして、あの娘が治せるんだ」


 さあ、と執事長と侍女頭は首を傾げる。


「私たちにもわかりません。いずれお食事のときにでも、エリアス様からリリーベル様に、ゆっくり聞いていただければ……どうもご夕食は、食欲がないそうでいらないとのことでした」

「……そうか」


 エリアスは、自分にられて涙を浮かべた、リリーベルの大きなくりいろの瞳を思い出し、罪悪感に襲われる。


(……なんだ。どうしてこんなに胸が痛む。……それならそうと、はっきり言えば俺だって、あんなに怒ったりしなかったんだ。ま、まあ、確かにもう少し、言い方というものがあったかもしれないが)


 もともと他人とコミュニケーションをとるのが苦手だという、自覚がある。

 リリーベルにひどく悪いことをしてしまった、というこうかいがエリアスの胸に湧き上がってきた。

 黙り込んでしまったエリアスに、今思い出したという顔で執事長が言う。


「そうでした、エリアス様。大急ぎで手配した使いのものから、リリーベル様の調査報告書を受け取りました」

「スターリング家はゆいしょ正しいおいえがら。調査が必要なのはもちろんでございますけれど、リリーベル様はとてもいいおじょうさまだと思います。差し出がましいようですが……我々使用人としましては、よほどのことがなければ、ぜひ辺境伯夫人になっていただきたいと願っております」


 差し出されたふうしょを手にしたエリアスは、中を読みたそうにしているふたりに肩をすくめた。


「しばらく、ひとりにしてくれ」


 エリアスがそう言うと、仕方ないという顔をしてふたりは退室していく。

 まったく、とすっかりリリーベルを気に入ったらしいふたりに呆れつつ、エリアスはマホガニーのデスクの椅子に腰かけ、ランプの明かりを調節してから、ペーパーナイフでふうを切る。

 そして中身に目を通し、眉を顰めた。

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