2-2


 燃えるような赤い瞳。リリーベルの手のひらほどもある牙。銀色に波打つもう

 頰に熱い、魔獣のく息を感じた。


(た、助けて……お母様……!)


 頭から食べられるかもしれない恐怖に、ぎゅっと目を閉じたリリーベルの耳に、よく通る声が飛び込んでくる。


「おい、何をしている!」


 リリーベルはまぶたを開いた。

 ひらりと黒いマントをひるがえして、エリアスが駆け寄ってきたのだ。

 と同時にゴランの頭の実がくるりと一回転したのは、げんかくほうでリリーベル以外からは姿を見えなくするためだ。


「……グルル……?」


 魔獣は驚いたように、赤い目をぱちくりさせた。


「下がれ、ローズ。……よしよし、いい子だ。……あちらに行っていろ」


 エリアスがももいろの鼻先を撫でると、おとなしく魔獣は背を向けて、ゆっくりと立ち去っていく。

 それを見送り、エリアスは呆然としているリリーベルに、厳しい目を向けた。


「勝手にここに入るな! 魔獣はけいかいしんが強い。殺されなかったのは、たまたま運がよかっただけと思え! さあ、早く出ろ」

「は……はい、申し訳ありません!」


 ゴランがここにんだので追いかけてきました、とは言えないリリーベルは、なおに謝罪した。

 近くで見るエリアスは、顔は整っているがあいきょうのない冷たいぼうで、そのせいでおこると余計に怖く見える。

 今度は柵の隙間ではなく、エリアスにうながされて鉄製のとびらから外に出たリリーベルは、縮こまっていた。

 ところが屋敷にもどろうと歩いていて何気なく顔を上げ、リリーベルはぎょっとする。

 こちらは裏口なのだろうが、ここから見てもスターリング家の屋敷は、きゅう殿でんと言ってつかえないほどに大きく立派だったからだ。

 かべしょういしには黒曜石がふんだんに使われていて、つやつやと黒くかがやいている。

 王宮のようなな感じはないのだが、どっしりとそうごんがんじょうそうで、まるでようさいのように思えた。

 屋敷の中に一歩入ると、前を歩いていたエリアスはふいに振り向いた。

 リリーベルも足を止めると、エリアスはつかつかと近づいてきて言う。


「よくわかったと思うが、この屋敷の裏庭には魔獣舎がある。こうしんで見に行ったんだろうが、俺の一族以外にはとても危険な連中だ」

「はい……。申し訳、ありません……」

「さっき一度謝っただろう。もういい」


 いらったようにエリアスは言う。


「こんな事情をかかえた屋敷だ。きみもいやだとは思うが、一カ月だけしんぼうしてくれ」

「……わかりました」

「本当のおためこんならば、たがいを知り関係を深めるための交流をするものだが、我々はあくまでもかりそめしき。きみには何も求めない」

「は、はい」

「同居だけはこのお試し婚のしきたりでひっだから受け入れてほしい。その代わり一カ月間、ここで自由に過ごしてくれ」


 こくりとリリーベルがうなずくと、エリアスはわずかにまゆひそめ、こちらを上から下までじろりと眺める。

 そして、つぶやくように言った。


「……昼食を済ませたらに入って、もう少しまともな服を着ろ。ここにいる間の諸費用はこちらで負担する」


 エリアスの言葉を聞いた途端、かあっとリリーベルは首から上が熱くなるのを感じる。

 これまでままははたち以外とほとんど交流せず、衣服のことなどあまり気にしたことがなかったのだが、エリアスにてきされ、自分がいかにみすぼらしい格好をしているのかを実感させられたからだ。しかも、今は裸足になっている。


(無理もないわ。ぼさぼさ頭に、やせっぽちの手足。あちこちほつれてよごれたワンピース……。改めて見て、なんてうすぎたないむすめなんだろうとあきれたのかも。……恥ずかしい。消えてしまいたい……)


 リリーベルがしゅんとしていると、エリアスはなぜか困ったように顔をそむけた。


「わからないことがあったら、じょがしらに聞け」


 そう言って、くつおとを鳴らしてさっさと奥に行ってしまう。

 リリーベルは肩を落とし、途中で会った侍女に行き方を教えてもらって、元いた部屋へ戻った。




(このパン、ふっかふかだわ! ハチミツをって食べるのなんて、初めて……。ミルクはくて、卵も美味おいしい!)


 リリーベルの部屋に食事を運んでくれたのは、はくはつをお団子にした、こしの曲がった侍女頭だった。

 丸顔でやさしい彼女は、リリーベルの様子をにこにこしながら見守ってくれていた。

 人目があるので、相変わらず姿を消しているゴランも、テーブルの上でにっこりとみをかべ、おとなしく座ってこちらを見ている。

 美味しい昼食を食べながら、明るい日の差し込む部屋を、リリーベルは改めて見回していた。


(こうして見ると、とってもごうなお部屋を用意してもらっていたんだわ。テーブルも可愛かわいらしい絹張りだし、シャンデリアもてき。ベッドだっておとんまくらもうでふっくらぱんぱん。……私、本当にここで暮らしていいのかしら)


 うっとりとそんなふうに考えたが、なぜ自分がここにいるのかを思い出し、慌ててその考えを否定する。


(いくらお部屋が素敵でも、辺境伯様はすごく怖い人だった。……お試しとはいえ、私、一カ月も同居なんてできるのかしら……)


 不安になりつつ食事を終えると、侍女頭は浴室に案内してくれた。

 リリーベルはたっぷりの湯にかり、長旅と日ごろの労働でほこりだらけのかみ身体からだの汚れを落とす。


(お風呂も立派だわ。どこもかしこもピカピカにおそうされていて綺麗。辺境伯様って、しゃくより何十倍……ううん、きっと何百倍もお金持ちだったのね。だけど、それにしては侍女やしょうをあまり見かけないわ。お屋敷の広さを考えたら、もっと大勢いてもいいと思うのだけど。どこか違う場所にいるのかしら)


 リリーベルは首をかしげたが、ここで暮らしていればいずれわかるだろうと考えた。


(……それにしても、なんて美味しい昼ご飯だったのかしら! あんなにやわらかいパンを食べたのは、お母様が生きていたとき以来……)


 ねこあしのついたとうの、そべることができるくらい大きなよくそうで身体を伸ばし、けむりにぼんやりしながら、リリーベルは幼かったころのことを思い出す。

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